:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 二度あることは三度ある(その-1)

2008-07-13 21:34:27 | ★ 回想録

2008-07-13 09:45:05




           二度あることは三度ある
「神よ!神よ!どうしてわたしを見捨て給うのか?」(マルコ15章34節)

 このブログは、
         =現代の棄民、またの名を、従順とは?=

の副題のもとに、「二度あることは三度ある」というテーマの舞台構成で書きます。
 少しずつ書き進みます。公開した後も時々、元に戻って推敲・加筆しながら進みます。思いついたことがあれば、随時、自由に関連の話題を割り込ませることもあるでしょう。(本文中のブルーの太字は今日加筆した部分です。)
 基本構成は:
    〔序  幕〕
    〔第一幕〕 「一度目の棄民」 (一年の流刑)
   〔第二幕〕 「二度目の棄民」 (二年の追放)
   〔第三幕〕 「三度目の棄民」 (無期の禁錮)
   〔終  幕〕
です。

               〔あらすじ〕

〔序 幕〕
 高松教区にM司教が着任したのが正確に何時だったか、思い出さない。
 彼は着任早々各小教区教会、各修道会、各施設を精力的に回って、そこの責任者たちとじっくり話し合った。
 当時三本松教会の主任司祭だったわたしには、「後回しにして申し訳ないが、その内必ずいくから」と言っていて、ついに来なかった。そういえば、わたしが交通事故で一時入院したときに見舞いに来たことがあった。しかし、数分の見舞いと司教の公式訪問とは同じではない。結局、ずるずる日がたって、ついに訪問は無かった。わたしは教区のために司教に話したいことが山ほどあったのに・・・・。これが最初の公約違反。最初の嘘であった。

〔第一幕〕  「一度目の棄民」 (一年の流刑)

 そうこうするうちに、「前司教様の下でよく働いてくれた。ご苦労さんだった。ご褒美に1年間のサバティカル(休暇)をあげよう」ときた。寝耳に水だった。休暇など願い出た覚えはなかった。前司教の遺産を受け継ぎ、それを守り、発展させるのは自分の仕事だと心得、大いに働こうと意気込んでいた矢先だった。
 「どこで何をすればいいのですか?」と聞くと、「ローマにでも行って、好きな勉強でもしてくれば?」との答えだった。「留守中の教会はどうなるのですか?」「神学校を手伝うN神父が兼務するからなんとかなるだろう。」「なるほど。」「では、帰ってきたらどうなるのですか?」「もちろん、もとの三本松教会の主任司祭に戻してやる。」55歳で司祭になったとき、F司教様とその後継者に従順を誓ったわたしは、何の疑いも無く従うことにした。
 だが、治まらなかったのは三本松教会の信者たちであった。着任当時、三本松教会の日曜のミサは、10人も来れば多いほうであった。それが、2年ほどで倍以上になっていた。聖堂も改築して50人までは入れるようにした。新しく教会に近づいた求道者の多くは、わたしと個人的に強く結ばれていた。彼らの間に不安が走った。 「神父さん!1年たったら本当に帰ってきてくれるのですか?」
 「司教さんがそう言っているから大丈夫だろう。」「私たちを置いていかないでくださいよ。」「司教さんの命令だからそうはいかないな。」
 「司教さんに直訴しよう!」実際、何人かが、司教さんに遭いにいったらしい。もちろん、休暇の取り消しには至らなかった。しかし、「1年たったら、貴方たちの神父は必ず帰ってくる」との確約は取りつけられたと言う。
 わたしがローマへ発ったのは、2005年5月、三本松教会の年に一度の大イベント「ルルド祭」の直後だった。
 (ローマでの苦難の生活は、次回以降に追加しよう。)

〔第二幕〕  「二度目の棄民」 (二年の追放)

 1年が過ぎて、ルルド祭の応答日も近づいた頃、それまで一通の手紙、一本のメールも無かった司教から突然メールが入った。読んで見て、我とわが目を疑った。「引き続き2年間教区外居住を命ず。」「教区外ってどこ?」「生活の原資はどうするの?」ローマでも無論そうであったが、今回、ジプシーのように車に身の回りのもの乗せて、広い日本、一体どこへ流れて行けと言うのか?教区が振り込んでくれる手取り9万円ちょっとのお金で、どうやって生きて行けと言うのか。支援してくれる友人、知人の多くは東京だが、屋根付きガレージひとつ借りても9万では足りないだろう。どこに住み、何を喰らって生き延びればいいのか。せっかく神父になったのに、教会も無しに、誰を牧し、誰に福音を宣べ伝えよというのか。20年前の、年収ウン千万の国際金融マンも、いよいよ落ちぶれたものだ。 これが司教の二度目の公約違反。二つ目の嘘であった。
 辛くも、2年間を、日本国内で、しかし自分の帰属する高松教区の外で、生き延びた。(どうやって生き延びたかは、また追い追い書くとしよう。)その間、司教からは一通の手紙、一本のメールも届かなかった。教区報が発行されても、それも送られては来なかった。
 二年目の応答日、ローマに行く直前のそれから数えて、3度目の「ルルド祭」の日が近づいたが、それでも何の音沙汰もなかった。
 二年間の教区外生活を命じられた。二年間教区の外に生活するのが「従順」と言うものだ。しかし、二年を越えて勝手に教区外生活を続けることは、逆に「従順」に反することになるではないか。
 3年目の応答日を期して、あらかじめ司教に手紙を書いて、司教館に帰った。司教は留守だった。スタッフが用意してくれた一室で、じっとその帰りを待った。
 やっと司教に会うことが出来た。彼が教区に着任から4年たって、やっと始めてのご対面が実現したというわけだ。
 徳島の山奥で、又は、愛媛の西の端のほうで「開拓宣教をしないか」と言う話になった。山で小鳥に説教をしろというのか?海で魚に説教をせよとの命令か?人のほとんど住まない過疎の地で、開拓宣教も何も無いだろう。「宣教というものは、そこそこ人の住んでいるところでするものではないのですか?」と反論すると、以外にもあっさりとこの2地点は引っ込めた。人が住んでいて教会の無いところ・・・・・。こちらから、例えば四国霊場86番の札所「志度寺」のあたりなどは?と水を向けると、ああ、そこそこ、志度がいい、志度がいい、と言うことになった。志度がどんなところか知っているの?本当はどこでも良かったのではないか、と思った。そして、一枚の紙切れをもらった。ただ、「志度で開拓宣教をせよ。当面は三本松教会に住め」という趣旨であった。日付も無い、司教の署名もない。すぐピンときた。ああ、第三幕の「三度目の棄民」の始まりだ。今回は「無期の禁錮刑」だ。

〔第三幕〕  「三度目の棄民」 (無期の禁錮)

 これは、今まさに始まったばかりのこと。これについては、これから書くことも多かろう。

〔終 幕〕
 ここでは、キリスト者にとって「従順」とは何か、と言うテーマを、今回の一連の体験を通し、神学的、社会学的に考察してみたいと思う。
 ハイペースでは進まないだろう。一度書いてしまったことでも、あとで振り返って消すこともあろう。書き足りなかったところは補足もしよう。行きつ、戻りつ、このテーマを膨らまして行きたいと思う。
 「従順」の一言に呪縛され、虫のように苦しんできた多くの司祭、修道者たちに、小さな慰めとなればとの思いもある。

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