2008-07-19 09:52:14
〔第二幕〕 「二度目の棄民」 (二年の追放)
ローマでの1年間のサバティカル(休暇年)も残り少なくなった或る日、司教から一通の手紙が届いた。「引き続き2年間の教区外生活を命ず!」
晴天の霹靂とは、まさにこのことを言う。サバティカルが終わったら、元の通り三本松教会の主任司祭に戻す、と言う約束はどこへ行ったのか。信者たちが司教に会って、その約束を確認したのではなかったか。書いたものが残っていなければ、約束など何とでもなると言うのか。約束違反も、嘘も、司教なら何でもありか。しかし、そこはぐっと押さえて、次のような手紙を書いた。
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2006年3月22日
溝部脩司教様
主の平和
3月16日付のお手紙、今日拝受いたしました。喘息でお悩みとのこと、お見舞い申し上げます。
昨年5月、不本意にも教区を去らなければならなかったときは、正直に申し上げて、いささか苦しく思いましたが、ローマでの生活は、結果的には恵の時であったと思います。
1年後に三本松の主任司祭で戻ることは、司教様のお約束であったのに、その通りにならないと言うことは、余程の事でしょう。
深堀司教様に見出され、高松で司祭に叙階されたときは、生涯、深堀司教様と、その後継者に従順を誓い、教区のために働き、骨を埋める覚悟で居りましたので、引き続き2年、通算3年教区の外に出されることは誠につらいことではありますが、そのほうが司教様にとってやりやすいからと言われれば、従順のためにお受けするしかありません。
私は、司教様がお求めになれば、誰に対してであれ、またいかなることに関してであれ、身を低くして赦しを乞う用意があります。私は、教会のため、神の国のために良かれと思って、いろいろ働いてまいりました。福音のために辱めを受けることは、私の喜びとするところであります。
2年間も教区の外に留まる以上、三本松に現住所を残すのは不適当と思います。幸い、野尻湖に自分の家があります。三本松の荷物はそちらに移します。あわせて、現住所もそちらに移すつもりです。これは、ご了承下さい。
いつまでに、教区のどのポストに、という期限のある人事異動ではないようですから、帰国の時期は多少弾力的に考えさせてください。実は、6月11日(日)を第一候補に、日本の銀行のパリ支店にいる友人の息子の結婚式の司式を、パリですることを頼まれています。現在、結婚講座をリモコン方式と、本人のローマ出張などでこなしています。出来ればそれを済ませて、6月下旬を目処に帰国したいと思います。それもご了承いただければ幸いです。
祈りのうちに、
谷口幸紀拝
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それに対して、次のようなメールが届いた。
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From: Mizobe Osamu [mailto:xxxxxx@xxxx.ocn.ne.jp]
Sent: Wednesday, April 05, 2006 9:34 PM
To: 谷口幸紀
Subject: Re: お手紙の件
主の平和
お手紙確かに受け取りました。 私は本当に恥ずかしい気持ちであなたの手紙を読みました。 おそらく反抗的な、または皮肉めいた返書が来るものと思っておりました。 全く感心し、そして頭が下がりました。 ありがとうございます。 (以下、実務的な話は省略)
感謝の中に 溝部
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このメールは、自分にとっては勲章のようなものだと思っている。一人の司祭の信仰に基づく従順の行為に対し、一人の司教として率直に反応したものだと思った。
その後の展開、つまり「第三の棄民」については、機会をあらためて詳しく書くこととして、今は、こうして始まった2年間がどんなものであったかに触れたい。
まず、住むところである。ローマでのサバティカルの一年間、神様はローザのマンションを摂理的に計らって下さった。
同様に、国内での2年間の追放に対しても、場所は用意されていた。野尻湖の山荘がそれであった。
私は、司祭になった翌年、この山荘を或る未亡人から「生前贈与」されて、個人で所有していた。
Y夫人としておこう。Y夫人との出会いはほとんど半世紀前にさかのぼる。その頃、私は上智の学生で二十歳前後であった。当時、私は夏毎に、野尻湖国際村の親戚の別荘に遊びに来ていた。彼女には、東大の理科から慶応の医学部に進んだ私と同い年の優秀な一人息子がいた。その息子が自殺をした。彼女は、それを機に信仰を求め、カトリックの洗礼を受けた。わたしを見るたびに彼女は息子を思ったかもしれない。その後、約30年、忙しい銀行マンになった私の姿は野尻湖から消えた。そして、司祭になった夏、久しぶりにわたしはY夫人を訪ねたのだった。
そのとき、彼女の心の中に何かが閃いた。
休暇を終えて、勉強のためにローマに戻った私を追って、Y夫人から一通の手紙が届いた。
「息子の思い出の別荘を貴方に贈りたい。」
一存では返事しかねて、前司教にローマからお伺いの手紙を書いた。
「将来きっと役に立つから、戴いておきなさい。」
実は、Y夫人、息子の思い出の染み付いたこの別荘を、教会のために役立てたいと思っていた。東京の白柳枢機卿に相談したら、野尻湖は横浜教区だから、と断られた。浜尾横浜司教に相談したら、うん、よしよし、と資料を受け取って、10年返事が無かった。野尻湖に研修所を持つサレジオ会の当時の管区長、今の高松司教に相談したら、いろいろ条件が難しく、修道者としては・・・・、と二の足を踏まれた。その時、彼が受けなかったのも神様の計らいか。
帰国後は、毎年2週間ほど、Y夫人と二人で野尻の夏を過ごした。
彼女は、3度目の夏はもう車椅子であった。
「人様の世話になってまで行きたくない!」
気丈な彼女はガンとしてあらゆる説得を退けて、ついに行こうとしなかった。
このブログの冒頭の写真について一言。
私が最後に彼女を高級有料老人ホームに見舞ったとき、ベッド脇の小さなテーブルに、5センチほどの短い鉛筆があるのがふと目に留まった。カバンの中をごそごそ探ると、たまたま友人のメールをプリントアウトしたA4の紙があった。裏返して鉛筆を走らせた。Y夫人は、早く見せろと何度もせがんだが、10分、いや10数分焦らせて、パッと裏返して見せた。
彼女、にっこりと笑った。
まんざらでもなかったのだろう。また来るね、と言って別れた。それが最後だった。
その野尻湖の別荘。まさか、こんな使い道を神様が考えておられたとは。
夏は天国。しかし、冬は地獄。板一枚にトタンを被せただけの屋根。板一枚の壁と床。隙間だらけの夏用の建て付け。外がマイナス10度になると、一切の暖房は役に立たない。夜、電気毛布に包まれば、身体は何とかなる。しかし、首から上は零下の室温に晒される。ちょうど家庭用冷蔵庫の冷凍庫に首を突っ込んで寝るようなものだ。朝、襟元に息が白く凍り付いていた。
この2年間、どのように神様が計らって下さったか、どうやって生き延びたか。それは、この一連のブログの前半を読んでいただけば、およその想像は付くに違いない。
(Y夫人を描いた素人の鉛筆画はこの小屋の居間の暖炉の上にある)
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