:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 聖書から見た「サイレンス」-その(3)

2017-04-12 20:58:38 | ★ インカルチュレーション

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

聖書から見た「サイレンス」-その(3)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

(右)ころびキリシタンの迫害者 井上筑後守

小説「沈黙」の作者、遠藤周作は、どうすれば自分の人生観、宗教観にしっくりくるキリスト教を描けるかと腐心しただろうし、どのように描けば日本の読者に歓迎され、世界の読者から日本色豊かな新らしい解釈として注目を集められるかを意識したに違いない。また、日本の伝統的精神風土、諸宗教観にも敏感であるのは当然のことだ。

スコセッシ監督も「沈黙」を映画化するに際して、彼なりに同じような内面の思いに突き動かされたに違いない。 

だから、映画「サイレンス」で描かれたキリスト教は、今日の平均的日本人にとって、特別奇異な、或いは理解を超えたものとは感じられなかったはずだ。

そもそも宗教とは何か。

人間だれしも自分で望んで生れてきたわけではない。物心がついて、人間は等しく死すべき運命にあることを知るが、誰も好んで死にたい人はいない。愛する人の死を悼まぬ人もいない。死んで無に帰すると思うと恐ろしいが、魂の不滅を思うとき、死後の世界に生きるものと交流を持とうとする。祖先崇拝を中心とする宗教の起源だろう。

人間は自然がもたらす豊かな恵み無しに生きていかれない。しかし、自然が一旦荒ぶると手に負えない。地震、津波は言うに及ばず、様々な力が生存を脅かし、死をもたらす。そこで、自然の背後に神を想定し、その神と駆け引きをしようと考えた。神殿を建て、祭司を立て、祈りを捧げ、供え物をして、神のご機嫌を取り、恵みを最大限に引き出し、禍を遠ざけようとする。元はと言えば宗教とは人間の力で自然を制御しようという思いの産物だった。恵みと禍をもたらす自然現象は、際限なく区分できる。その自然の力の一つ一つに神を想定して、名前を付ける。風神、雷神、山の神、海の神、太陽の神、火の神、疫病神、死神、・・・こうして八百万(やおよろず)の神が誕生した。あまり品は良くないが、お金に見放されたら大変だから、お金の神様も数えておかなければならないだろう。これらをまとめて「自然宗教」と呼ぶ。人間が考え出して、人間が自然に投影した神々の世界だ。

時あたかも、映画「サイレンス」の舞台となった17世紀前半に、デカルトという哲学者がいた。ラテン語のコギト・エルゴ・スム「我思うゆえに我あり」という言葉で有名だ。ちょっと捻ると、「我神を思うゆえに、神あり」にもなる。しかし、デカルトの時代から考えると、科学は目覚ましい進歩を遂げた。かつて脅威であった自然の力の多くは、解明され、制御され、克服された。人は空を飛び、地球の裏側の人と顔を見ながら話をし、台風のコースはまだ変えられないにしても、天気予報は当たるようになったし、地震も津波も火山噴火も数分前には予知できるまでになった。

もはや、お祈りやお供え物という非合理な方法でしか制御できない神々を思う余地は極端に狭まった。「自然宗教」の黄昏と共に、神々の存在を信じる人は文明社会にはすでに居なくなったのではないか。

しかし、自然宗教が完全に消えてしまったわけではない。死んだら人間はどうなるのか?無に帰するのか、死後に何かあるのか?四苦八苦と仏教は言うが、四苦(生、病、老、死)八苦(説明すると長くなるからネットで見てください)の問題は科学だけでは解決されない。医者は苦痛を緩和し死期をいくらか遅らせたることはできるが、彼の職業的サービスの本当の使命は死亡診断書に署名することだ。これが無ければ火葬もおぼつかない。冠婚葬祭には今も宗教が一定の役割を演じ、特に季節の祭りは伝統的に人々の絆を強めるのに貢献している。それぞれの地域、文化、歴史、社会生活に色濃く染めぬかれ、独特の発展を遂げ、人々の心に生きているのが宗教で、遠藤の、そしてスコッセシのキリスト教の神もこの「自然宗教」のコンテクストの中で他の神々と同列に扱われている。

デカルトの「コギト」で言えば、神は人間が居ると思えばいるし、信じない人に神は存在しないし、17世紀のポルトガル人、スペイン人の神もあれば、日本人の肌に合う神がある。かと思えば、日本の土壌に根付かない神概念もあるという具合に・・・。

日本にも神仏からイワシの頭に至るまで、伝統的な諸宗教があるが、その根底には共通して流れる空気、土壌のような宗教心がある。仏教は起源から言えば外来のものであったが、長い年月の間に土着化して日本教の大きな柱として根を下ろした。半面、後発外来種のキリスト教は、その熱烈な日本への片思いにもかかわらず、土着することに成功せず、拒絶反応にあった移植臓器のように壊死してしまった。

場をわきまえず空気も読まず声高に宣教して歩いたり、日本教土着社会で不協和音をたてることをやめ、じぶんの内で密かに信仰を守ることに徹し、それでも運悪く迫害されたら、突っ張って殉教に走ったりせずに、心弱くも転んで神と周りの人の憐みと寛容にすがって生き延びなさい。異教の我意は引っ込めて、ひたすら西欧の珍しい文物をもたらすことで社会に貢献するならば、キリシタンの名前を保って加入することを許そうではないか、と日本教集団は懐の深さを示した。日本教キリスト派として土着化するには、西欧の強い父なる神を取り下げて、日本人の心に優しい母なる神に置き換えなさい。それこそ異文化への受肉、信仰の土着化の道だ、と遠藤は結論付ける。

現代のグローバル化した国際世俗社会で、世界中どこでも旗色が悪くなって壊死寸前になっているキリスト教に対して、スコセッシの「サイレンス」が掲げたメッセージは、時代が変わった、土壌も変わった、現代世界にキリスト教が生き延び、新しい文明に改めて土着化するためには、日本のキリシタンとその宣教師たちがたどった道に倣い、迫害があったら安んじて転びなさい、神は弱い者の神なのだから。現代の「国際自然宗教クラブ」に加入するために、今までのキリスト教のかたくなな主張を引っ込めて、分別のあるしなやかな女性っぽい宗教に自己変革しなければ生きていけないよ、というメッセージを時代が発信している。

そして、欧米のナイーブなキリスト教徒のインテリたちはその聖職者たちとともに、ああ、これこそ我々が探していた新しいキリスト教の活路だ、と遠藤とスコセッシを礼賛することになる。

こうして、ハリウッドの興行収益は伸び、社会の摩擦は減少し、転んだキリスト者の良心の呵責は麻薬を打った時のように集団的に緩和される。

デカルトのコギト・エルゴ・スムによれば、私が居ると思うから、私は居る。いないと思えば、いない。神が居ると思えばいる。こういう神は鬱陶しいからいない、と思えばその神は居ない。こういう神こそ好都合だ、と思えば、そういう神が居ることになる。「自然宗教」の神とはもともとそういうものだったのではないか。遠藤とスコセッシは、従来のキリスト教が今まで提唱しなかった神を発見してくれた、これこそ日本に土着できる、現代世界に復権できる新しいキリスト教の神の姿なのだ。

こうして見るかぎり、遠藤=スコセッシの世界には聖書は出てこない。聖書は関係ない、必要もない。作家遠藤と監督スコセッシの自由な創作の世界が生んだ彼ら好みのキリスト教観に尽きる。

主役の会話や行動に明確に聖書を踏まえた箇所は皆無だったことからしても、結論として、聖書と映画「サイレンス」は無関係、別個の世界ということが検証されたのではないかと思う。

(つづく)

コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ★ 聖書から見た「サイレンス... | トップ | ★ 聖書から見た「サイレンス... »
最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kei)
2017-04-13 09:23:46
宗教の起源は、おおむね谷口神父さまの解説通りでしょう。
 ひとは、哀しいとき、苦しいとき、寂しいとき、痛いとき、そしてこれらすべてを受け入れなければならない苦境に喘ぐとき、すがるもの、寄り添ってくれる存在が欲しいのです。ひとは、自分が神仏に愛されている存在であるという確信を得たいと誰であれ思い願っています。だから、形は違っても、さまざまな宗教が生み出されてきたのです。しかし、祈っても探しても叫んでも、大いなる存在者は黙っています。そこで考え出された解決方法が、御利益宗教であり、目に見える教祖崇拝であり、神話であり、ユダヤ教のような律法を死んでも守り抜くという名の一神教信仰でした。
 遠藤さんが触れたキリスト教は、その律法第一のユダヤ教から一歩も抜け出していない、砂漠のようなカトリックだったのではないでしょうか。
 イエスは、ダンマリを決め込む「父なる神」エホバの代弁者としてこの世界に降り立ち、泥とホコリと汗と涙と血にまみれ、腐敗臭漂う獣のような暮らしを余儀なくされている人間たちに寄り添い、ともに泣き、笑い、よろこび、哀しみ、活動し、雄弁に語り続けたのです。そのイエスというお方をメシアと信じた者たちだけがキリスト者と呼ばれるはず。イエスは語ってよい存在なのだ。それが遠藤周作のキリスト教だったように思います。
 迫害を耐え忍び、殉教していったひとたちのことを「凄まじいひとたち」と遠藤さんは思っておられたことでしょう。それでも、だからきっと神に喜ばれているだろうとか、まさに聖人であった、などとは全く感じておられないような印象を受けます。「アラーは偉大なり!」と唱えながら自爆していくISの戦士たち。「天皇陛下万歳!」と叫びながら敵艦に突っ込んでいった神風特攻隊の若者たち。そして、ハライソのみに希望を託して殉教していったキリシタンたち。
 このなかで、なぜキリシタンたちの行為だけが「殉教」と呼ばれ、聖人扱いを受け、立派だったと褒めそやされるのでしょう。他人を殺していないからですか? ならば「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆく」と辞世の句を遺して殉死した乃木希典はどうでしょう。形は違えど、結局はどれもこれも、誰も彼も同じではありませんか。人間には、何があろうと神仏に与えられた命を勝手に捨てさる権利も奪う権利もありません。
 広島・長崎の原爆、阪神淡路大震災・東北の3.11大災害、そして熊本大地震etc。全ては罪深い日本人への神罰だと平気で語るキリスト教の聖職者たちがいます。その冷淡な無神経さには、驚きを通り魅して呆れ果て開いた口が塞がりません。イエスがほんとうにそんな殺戮をなさったのでしょうか? ナチスのジェノサイドはどうでしょう。ユダヤ人たちへの神罰ですか? 隠れキリシタンたちへのあれほどむごい仕打ちを黙認した神の存在意義はどこにあるのか(イエスの十字架と同列に説明するのは無意味です)。細川ガラシャは、自殺は罪だと教えるカトリックの教えを守るために、家臣に自分を殺させました。では、人殺しを命じられた家臣の呵責と哀しみと苦しみは一体誰がどう責任を取り受け止めるのでしょう。
 それぞれの理由も含め、どれほど名のある神学者や聖職者や教皇さえも、大局に立ってきちんと答えられるひとはいないでしょう。ならば、と、ひとりの小説家が「こう思う」と筆を執った。ひとりの映画監督が映像に起こした。聖書は無謬な書である。その聖書と彼らの小説や映画がリンクしていない。そんなことを理由に、なにも語ってこなかった、そして今でもなにも言えない自分たちの責任を棚に上げて、遠藤さんやスコセッシ監督を批判するのはお門違いというものです。
 あ、谷口神父様さまを責めているわけではありません。ごめんなさい。所詮、キリスト教の中にどっぷりと浸ったことのない私などには理解の及ばない問題です。
返信する
Unknown (名無し)
2017-04-13 14:53:25
もちろん、一部にまだ少しは、平等を指向する経済学者も残ってはいるなど、全部が全部ではありえませんが、
この頃のエリートの多くは、
倫理とか使命とか、忘れたいのではないか、と思います。
そういう人にとっては、板挟みになる前から、彼我の力関係を「忖度」して丁度よさそうなところで手を打ってもいいみたいな、そういう考え方は、わずかばかりでも良心が残っていても後ろめたくならないので、彼らの心の安らぎになると思います。

主題と違いますねw。

私はキリスト教徒ではないので、遠藤氏の『沈黙』を読んだとき、仕方が無かったとしても、悪いことやはり悪いと認めるべきであったと思う、と感じました。宗教上のことと限らず読んでいました。

刑法で正当防衛とか緊急避難というのが認められることがあります。あれも、行為が正当だったからではなく、可罰性が無いから、というところで手を打つものです。
正邪は踏み外してはいけないと思います。
それでなければ、板挟みとなるような悩みすらしなくなり
ます。そんなだったら、世の中は酷いことになるでしょう。
返信する
kei さん、コメントありがとうございます。 (谷口幸紀)
2017-04-13 16:34:22
興味深くコメント拝読しました。いろいろな角度、次元からの問いや問題提起が混在していますね。
私は後1-2回で聖書から見た「サイレンス」シリーズを終えるつもりです。
そのあとで、戴いたコメントに丁寧にお答えする予定です。
「それぞれの理由も含め、どれほど名のある神学者や聖職者や教皇さえも、大局に立ってきちんと答えられる人はいないでしょう。」と先に決められてしまうと、ちょっと怯みますが、敢えて、自分で納得いくところまではお答えしてみたいと思いますので・・・
返信する
4月15日に「ご質問」というコメントを頂いた「映画ファン」様へ (谷口幸紀)
2017-04-19 18:14:14
コメント有難うございました。数日インターネットの繋がらない環境に居て、今日ローマにもどって久しぶりに自分のブログを開いたら、貴方様からのコメントが届いていました。
内容が私個人あてのものだったので、戴いた私信の本文の公開は控えさせていただきますが、対話はぜひ続けたいと思っています。出来ましたら、もう一回コメントを下さって、実名とメールアドレスをお教えください。個人的な非公開のメールの往復の世界でお話を続けさせていただければと思います。と、ここまでが前置きです。

一点、私の書き方の中に「欧米のナイーブなキリスト教徒のインテリたち・・・」という言葉があったことにご関心のようですが、それは、私がローマに居る数少ない日本人神父であるために、色々な人が「サイレンス」見たか?お前はどう思う?と聞かれるので、色々話に花が咲きます。多くがイタリア人、スペイン人も、ポーランド人もアメリカ人もその中にいます。皆さん、神父であったり、ジャーナリストや大学の先生であったり、キリスト教、特にカトリックの広い意味でのインテリと言っていいような人たちです。別に日本人である私におもねるつもりはないのでしょうが、ナイーブに「サイレンス」には感動したとか、いい作品だとか、ポジティブな評価が大部分です。その経験をそのまま書きました。
直接の対話からの印象で、活字になった記事や評論に基づいていません。
とりあえずのお答えになったでしょうか?
谷口幸紀拝
返信する
魂は存在するんですか? (名なし)
2017-04-29 19:52:28
今の日本では葬式をしない人が増えているという。それは日本が貧しくなったせいもあるが(仏教の坊さんも寺の経営が大変だと聞く。)、多くの日本人が死んだら無に帰すると考えているからだろう。だとしたら宗教もへったくれもないだろう。宗教学者の島田裕巳さんは「宗教消滅」という本も書いている。悩科学者の茂木健一郎さんは意識ということも科学ではわかっていないという。魂とか霊とかを今の日本で扱えばオカルトと非難される。魂の存在も科学ではわからないだろう。
返信する
Unknown (Unknown)
2017-04-30 18:00:03
※ 今まで数回、「名無し」で書いていたのだが、「名無し」さんや「名なし」さんが現れ、紛らわしいので、「元祖@名無し」としましたwww。


『旧約聖書』は、ユダヤの民族史だと思います。
ユダヤ民族は、大変な難儀をし、「神」に頼った。
『新約聖書』は、キリストの生涯の記録だと思います。。
どちらも、宗教的体験として記録されています。

ところが、その後は、『聖書』として、固まってしまった。絶対化されてしまった。そのために、説明に窮することが増えてきた。権力を握っていれば、抑え付けることまでした。
しかし、『聖書』に無理に当てはめるのは、やはり、無理があるw。

そろそろ、大変革が必要だと思う。もしかしたら、次の『新約聖書』が必要だと思います。


多くの人が自己責任を押しつける新自由主義やグローバル化のもとで、何ともならない境遇に置かれている。生産力が増強しているのに、足りている国に無理矢理食糧を輸出しようとしているのに、世界的に餓死者が無数にいる。

カトリック教会は、『カテキズム』の他に『教会の社会教説綱要』を出されている。こういったものが、『聖書』以上に「宗」となるような宗教となっていくことが必要だと考えています。この「宗」に従ってカトリック教会は進歩すべきです。今の教皇はそう信じられているのだと期待したいです。
返信する
「元祖@名無し」さまへ (谷口幸紀)
2017-05-01 05:10:56


『旧約聖書』は、ユダヤの民族史である以前に神の啓示の書です。
『新約聖書』は、キリストの生涯の記録であり以前に神に啓示「神の言葉」の書です。

次の『新約聖書』が必要かどうかを決めるのが人間なら、そういうキリスト教は「自然宗教」で、聖書も他の宗教の経典と変わりません。聖書は神の啓示であって、変える必要があるかどうかを判断するのは神だけであって人間ではありません。それが「超自然宗教」の立場です。

カトリック教会は、『カテキズム』の他に『教会の社会教説綱要』を出されている。こういったものが、『聖書』以上に「宗」となるような宗教となっていくことが必要だと考えています。というのは、お説として拝聴しておきます。私は人間の考えが聖書以上になると、キリスト教の自殺になると思います。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

★ インカルチュレーション」カテゴリの最新記事