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キリストと姦通の女-2
一つ前のブログ「独裁と魔女狩り?」の続き
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キコのシンフォ二-も無事盛会に終わり、久しぶりに「キリストと姦通の女」をテーマにブログを更新したら、たちまち両極の反応があった。「品がない!」と叫ぶ人がいた一方で、冷静に「同感だ、その通りだ!」と言う人もいた。反応の二極分解は私の話が痛い問題の核心を衝いた証拠だと受け止めている。
それで調子に乗るわけでもないが、「キリストと姦通の女」の話しをもう一歩掘り下げてみよう。
舛添さん降ろしに血道を挙げているマスコミと世論については前のブログで書いた通りだが、そこに引用した聖書の言葉はこう始まっていた。
人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(そして続く)
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
キリストの火を吐くような真理の言葉と、貧しい大衆からの圧倒的な人気に、恐れと嫉妬を抱いた当時のユダヤ教の指導者たちは、イエスを亡きものにしようと企み、執拗に付きまとって次々と罠を仕掛けていたのだ。今回のこの質問もそんな罠の一つだった。
「モーセの律法は絶対だから、そんな女は律法通りに石殺しにするべし」、と答えたら、「聞いたか皆さん!この男は血も涙もない律法主義者だ!憐れみのかけらもない!そんなことを言ったら世の中から娼婦たちがみな消えてしまい、たちまち困るのは男たちだ。近所の人妻だって軒並みやられるかもしれない!」「そんなイエスは亡きものにしよう!」と煽り立て、大衆の集団ヒステリーに火が着いたら最後、イエスの命は風前の灯になる。
では、憐れみをかけて「可哀想だからその女を赦してやりなさい」と言えばどうか?今度も「聞いたか皆さん!イエスはモーセの律法をないがしろにする、神をも畏れぬ異端者だ!亡きものにしなければならない!」となる。もはやこの質問の罠から逃れる術はない。「YES! と答えても地獄」、「NO! と答えても地獄」なのだ。
しかしイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」と答えて、見事に難局をすり抜けた。
舛添さんの場合はどうか?
マスコミの質問も悪意の罠に満ちている。具体的に答えなければ、「説明責任を果たしていないから辞めろ」となる。公私混同がありました、申し訳ありません、と答えれば、「みずから非を認めたのだから責任を取って辞めろ」。法に触れるようなことはしていません、と言えば、「違法性の問題ではない、ここまで世間を騒がせたことに対して責任を取って辞めろ」、となる。何を言っても「辞めろ」、言わなくても「辞めろ」の四面楚歌の罠。
では、イエスに倣って舛添さんも「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、私に石を投げなさい。」と言ってみたらどうか?数分後に彼は血だらけの死体になって転がっているだろう。現代の日本人には2000年前のユダヤ人社会のようなモラルも抑制心もないからだ。神を畏れることを知らぬ集団はなんと恐ろしいことか!
わたくし的に言えば、舛添さんは、上の絵で言えば、「姦通の女」ではなく「イエス」の立場に置かれた人のように思われてならない。
イエスの場合と同じように、邪な意志を抱いた人たちから抹殺のターゲットにされた犠牲者に共通の窮地の構図だ。
「姦通の女」の場を、そして他のいくつもの窮地を切り抜けたイエス・キリストでさえも、最後には最もエスカレートした同様の構図に呑まれて、十字架上の磔刑死という壮絶な最期を遂げることになった。この世の正邪の戦いでは、常に邪悪なものが勝利をおさめるように定められているのだろうか。
しかし、キリストは「復活」した! 夜明けの太陽のように復活したイエスは、邪悪の闇を打ち払い、死を打ち滅ぼして信じる人に永遠の命を与えた。これがキリスト信者の信仰告白だ。わたしはイエスの復活と人間の魂の不滅性と終末の日のわたしの肉体の復活を信じる。