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教皇暗殺事件-4
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前回、私はスタニスラオ枢機卿の教皇暗殺事件に関する記事の前半を紹介しました。ここに後半の全文を記載します。原資料を共有したうえで、この事件をどう受け止めるべきかを、ご一緒に考えて行きたいと思います。
約5時間半後、誰か-それが誰であったかもはや顔を思い出せないのだが言葉ははっきりと覚えている-その誰かがやって来て、手術は終わった、全てうまくいった、だから生存の可能性は高まった、と言った。
集中蘇生室に移された。教皇は次の日の未明に麻酔の眠りから醒めた。目を開くと、まるで私が誰であるかを思い出すのに難儀しているかのようにゆっくりと私を眺めた。そして、言葉少なに「痛い・・・、喉が渇いた・・・」と話した。そして「バケレットのように・・・」と言った。明らかに、一年前に赤い旅団によって殺害されたヴィットリオ・バケレット教授の身に起こったこととの間に、何らかの類似性を思ったようであった。
短くまどろんだ後、教皇は朝方に目を覚まし、あらためて私を見た。今度ははっきりとわかった。信じられないことには、「私は終課の祈りを唱えたか?」と私に聞いた。まだ5月13日のうちにいると信じていたようだった。
最初の3日間は実にひどいものだった。教皇は絶え間なく祈っていたが、非常に、非常に苦しんでいた。しかも、自分のこと以上にヴィシンスキー枢機卿(訳注:共産政権下で捕らえられ、長年獄中生活を強いられた)の差し迫った死を思って苦しんでいた。それは、内面的な、過ぎ去ることのない深い苦しみだった。
私は、事件の2日前、ワルシャワの館に重病のためにもう寝たきり状態になっていた枢機卿を訪ねた。教皇が私にわざわざ彼を訪問させたのだった。枢機卿はもう自分の最期が近付いていることを知っていた。しかし彼は落ち着いていた。彼は神のみ旨に完全に自分を委ねていた。私たちは長く話し合った。彼は、自分の最後の望みを教皇に伝えるようにと願った、そして教皇に宛てて一通の手紙を書いた。
ところが、事件のことと、教皇が死ぬかも知れないことを知らされると、彼は-何と言ったらいいか-急に生きることに執着しはじめた。彼は、成り行きを確かに見届けるまでは死ぬことを拒んだ・・・そして、その為になんと3週間にもわたる悲痛な断末魔の苦しみに耐えた。教皇が死の危険から脱したという確かな報せを受けて初めて、彼は永遠の安息に入るために目を閉じた。
私は死に瀕した枢機卿とまだ回復期の弱々しい教皇との間の最後の極めて短い電話の会話を深い感動と共に思い出す。「苦しみが私たちを結びつけていますね・・・。しかし、あなたは助かりますよ」そして、「教皇様、私を祝福して下さい。」ボイティワ(教皇)はもう決定的な永遠の別れであることを知りながら、それについて触れるのを望まれず、「はい、はい、あなたの口を祝福します・・・、あなたの手を祝福します・・・」と言った。
しかしヨハネ・パウロ2世に関して言えば、まだそれで終わりではなかった。バチカンに帰ってから、全般的な健康障害とますますひどくなるばかりの痛みを伴った発熱におそわれた。ジェメッリ病院に再入院した後、やっとそれがチトメガロヴィールスと言う呪われたヴィールスのせいであることが分かった。感染症を克服すると、さらに結腸人工肛門を付けずに済むようにするための二度目の手術をする必要があった。今回は万事うまくいった。何も難しい問題は突発しなかった。8月14日マリア様の被昇天の祝日の前日には、教皇は最終的に自分の居所に戻ることができた。
さて、経過についてはひとまず話をおいて、私は、ここでファティマとの関連について話さなければならないと思う・・・。
本当のところ、教皇は事件の直後の日々には、ファティマのことなど全く考えてもいなかったらしい。後になって、少し容体がよくなり、多少とも力が湧いてきてから、初めて、あのいささか不可思議な偶然の一致について思いめぐらし始めた。なぜか、何時も5月13日なのだ!ファティマでの聖母の最初の出現の日が1917年5月13日、そして、同じ5月13日に彼の殺害が企てられた。
とうとう、教皇は心を決めた。教理省の文書庫に厳重に保管されていた第三の「秘密」を見ることを彼は求めた。私の記憶違いでなければ、7月18日に当時その省の長官だったフランジョ・セペール枢機卿が二つの封筒-ひとつにはシスター・ルチアがポルトガル語で書いたオリジナルが、そしてもう一つにはイタリア語に訳されたものが入っていた-を、国務長官代理のエドゥアルド・マルティネス・ソラノ大司教に渡し、彼がジェメッリ病院に運んできた。
それは、二回目の入院の頃だった。教皇はそこで「秘密」を読んだが、一度読めば最早疑う余地はなかった。この「ビジョン」の中に、彼は自分の運命を知った。彼の命が救われた、と言うよりも、彼に新たに命が与えられたのは、聖母の介入と、彼女のご保護のお蔭であったと確信した。
確かに、シスター・ルチアが言った通り「白い衣服をまとった司教」は殺された。ところが、ヨハネ・パウロ2世はほぼ確実なはずの死を免れた。と言うことは?いったいこれをどう説明すればいいのか?歴史の中で、人間的実存の世界において、運命的にあらかじめ定められた力と言うものが存在するのだろうか?もしかして、神の摂理と言うようなものが存在するのではないだろうか?自分のピストルで確実に殺せるように狙いを定めた男に、敢えてそれを「失敗」をさせることができるような「母の手」の介入がありうるのだろうか?
一つの手が撃って、もう一つの手が「弾丸」を導いた、と教皇は言った。
今日、永遠に「無害」のままに終わった弾丸は、ファティマの聖母の像の冠に嵌めこまれている。
如何でしたか? 教皇は事実上死ぬはずだった。死んで当然の出来事に巻き込まれた。腹部を近距離からピストルで撃たれ、貫通し、結腸に穴があき、小腸の複数個所もずたずたにされ重大な損傷を受けた。
日本で侍が切腹すると、腸を傷つける。現代のような外科手術や輸血が無かった時代には、それは確実な死を意味した。
搬送に手間取り、出血多量で血圧と心拍数が危険なレベルに落ちた。最初の輸血に失敗した。
教皇の場合、手術をしながら医者自身が助かる見込みがあると信じていなかった。そして、死にゆく人に授ける病者の塗油(昔は「終油の秘跡」と言った)をするよう求めた。
術後、ヴィールス性の感染症にかかった。Etc. etc.
それなのに、人口肛門を付ける必要もないまでに、奇跡的に九死に一生を得た。
高速で飛来する弾丸が、教皇の体を貫通する間に、臓器に致命傷を与えないように微妙にコースを変えながら飛んで行ったなどと言う不自然な仮定をするまでもなく、この事件全体が自然的に説明がつかないほどの不思議な形で、教皇を死から護って終わった。
それに微妙に絡んでくる1917年のファティマの予言の第3の「秘密」。聖母マリアの介入をほのめかす教皇自身の言葉。
次回はこのテーマの最終回として、この出来事の歴史的意味について考えてみたいと思います。 (つづく)