:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 性的マイノリティーへの差別

2023-02-27 14:47:52 | ★ LGBTQ+

性的マイノリティーへの差別

「福音と社会」の記事をめぐって ①

担当編集者 市川真紀

 

 

表記の記事が2月26日発行の「カトリック新聞に掲載されているのを、22日に友人に見せてもらって初めて知りました。私はカトリックの司祭でありながら、1994年に叙階されて以来ほとんど半分の時間をローマで過ごした関係もあり、カトリック新聞を購読したことがなかったのでいつも同新聞の記事に関する情報が遅れます。上の記事は、いま問題のカトリックオピニオン誌「福音と社会」に同誌の依頼で「書評」記事を書いた本人として、無関心ではいられません。

 上、中、下、の3回に分けて書いたその (上) が出版されるや否や、私のもとには、非難と攻撃と脅しともとれるような言葉が殺到しました。密にコンタクトは取っていないが掲載誌の編集部にも同様のアプローチがあっただろうことは想像に難くありません。

 私に対する声の最も切迫したものは、「掲載を辞めろ」、「沈黙せよ」、というものでした。そこから、私がものを言うことはある人たちにとっては非常に不都合な望ましくないものであることがわかりました。

 さらに、私の記事に関しては、「無知と偏見、憎悪に満ちた差別記事」という一方的なレッテル貼りがほとんどでした。その種の一連の字句がカトリック教会の公的機関から発せられれば、善良な信者たちは、問題の神父は「無知と偏見、憎悪に満ちた差別主義者の悪い神父に違いない」という印象を刷り込まれることになります。そして、直接記事を読んで判断するすべを持たない人たちは、きっとその記事にはそのような「無知と、偏見と、憎悪に満ちた差別的な」内容で満ち溢れているのだろうと想像することになるでしょう。そういう印象をばらまくことが、レッテル貼りのキャンペーンの常套手段、本当の目的に違いありません。

 しかし、普段私を直接個人的に知っている人の大部分は、そのような意図的キャンペーンが虚偽であり、不当であり、明らかな不正だと知っています。

 では、私を個人的に知らない人たちが、そのような意図歴なキャンペーンに惑わされず、そういう策動が不当であり不正であることを見破るためにはどうすればいいのでしょうか。

 それは意外と簡単なことです。百聞は一見にしかず。生の記事を一人一人に直接読んでもらって、言われていることは本当か、私の記事がそれほど邪悪で劣悪なものであるか、あるいはそのようなキャンペーンこそ不正な歪んだものであるかが一目瞭然となるから、それでめいめい自己責任でそれぞれの心証を形成してもらえばいいわけです。おせっかいなバイアスのかかった宣伝を聞く必要はなくなります。

 それで、私は21日の「正平協」に関するブログの末尾で、「明日のブログで私の『書評』の全文を公表すると予告し、22日に3編のブログに分けて上、中、下のすべての記事を掲載しました。

 カトリック新聞の26日号の原稿は約1週刊前の19日前後に印刷に回されたはずですから、それ以前に書かれた記事は、私の「書評」の全文がまさかブログに公表されるなどということは想定していなかったから、言いたい放題、書きたい放題で私を叩いたのでしょう。もし想定していたら、「無知と偏見、憎悪に満ちた差別記事」などという見え見えの誹謗中傷はとても書く勇気が出なかったはずです。真実と事実はすべての歪曲された誹謗や中傷を打ち破ります。

 だから、私が明日「書評」の全文をブログで公表すると予告した直後、お願いだから思いとどまって公表をしないでくれ、お願いだから!」と、もはや半狂乱の哀願調の声が殺到しました。よほど真実が明らかになることが恐ろしかったのでしょう。それを受けて、こちらは、これは何が何でも公表しなければ、と必要性の確信を深くしたものです。

 私の「書評」を直接原文で読んだ人は、私が差別主義者であるどころか、誠実な差別反対論者であり、(下)の「『LGBT』の二面性」でも書いている通り、差別の犠牲者である性的マイノリティーの人々は「社会から手厚く護られ、支援の手が差し伸べられなければならない」とハッキリ書いて、私のLGBT差別反対の立場を明確に述べています。

 私は、LGBTのマイノリティーの人々はあらゆる差別から護られ、擁護され、偏見を受けることなく、平等に扱われる権利があり、社会生活において不都合をきたさないように手厚く同伴されなければならないと主張する正真正銘の「反差別論者」であることを声を大にして宣言したいと思います。

 その私をどうすれば「差別主義者」と呼べるのか聞いてあきれます。私に差別主義者のレッテルを貼って排除しようという動きは、明らかに悪意を持った虚言者から来るものに他ならないと思います。

 私は「LGBTの二面性」の項で、そのような悪意に満ちた虚言者集団に対して、「教会は警鐘を鳴らし、毅然とした対応をしなければならない。」と書いたに過ぎません。

だから、カトリック新聞は私の「書評」記事を「LGBTに対する無知と偏見、憎悪に満ちた差別記事」という事実に反する攻撃をしたことに対して、謝罪と訂正広告を出すべきであると思いますが、私の「書評」を読んだ公正な読者はどうお考えになるでしょうか。

 私の「書評」のどこが、「科学的根拠や客観性を欠く偏見と差別に満ちた論調」なのか、私の文章に沿って具体的に指摘できるものなら指摘していただきたいと思います。もし指摘できないのなら、間違った意見を意図的に書いたことを率直に認め、「訂正と謝罪」をなさるべきではないでしょうか。読者はもう「書評」の内容がそのような非難に値しないものであることを直接読んで知っておられます。

 なお、まだ私の「書評」を読んでおられないために態度を保留しておられる方は、私の2月22日のブログをぜひ読んでいただきたい。

それは「【続】うさぎの日記」で検索しても「john-1939」で検索してもすぐに読めます。

これからも頑張ります。是非ごひいきにお願いいたします。

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★ 【続】カトリック正義と平和協議会と私

2023-02-27 00:00:01 | ★ LGBTQ+

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【続】カトリック正義と平和協議会と私

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 グーグルの無料ブログ編集サービスを利用してグログを書いている人は、今日現在日本中に 3,149,281 人いるが、書いている本人は自分のブログのアクセスランキングとアクセス人数がリアルタイムでわかるようになっている。

 ちなみに、2月16日の私のブログ岸田総理、あなたは大丈夫ですか? 私もLGBTQ+論争に巻き込まれてしまいました。」は 314万人中 818位 と 1000位 を切って、それ以来今日まで引き続き 1000位台 をキープしている。これは私のブロガー人生のなかでも特筆に値する記録だ。

 しかし、毎日寄せられるコメントをどれぐらいの人が読んでくださっているかまではわからない。私は悪意を感じる投稿は論外として、賛否両論のコメントを平等に開示して、自由な言論の広場として開放している。

 各ブログの末尾の右下に目立たない小さな字で「コメント」とあるから、そこをクリックするとコメントの全てが読める。実に面白いので、ぜひそこまで読んでいただきたい。

 さて、最近の「日本カトリック正義と平和協議会」「声明文」に関連して、興味深いコメントが寄せられているので、敢えてブログの本体に再録して、それに対する私のコメントもご紹介しておきたい。

 

ペンネーム「新米信徒」さんのコメント
 
2023/02/25 23:52:29
協議会という名称

谷口神父様 
何も知らなかったので、(宗教法人)カトリック中央協議会の site の「『カトリック教会』に法的に根ざしている組織である『日本カトリック司教協議会』の『カトリック正義と平和協議会』」を見ると、「できるだけ広く参加を求め、運営の民主性を示すために、協議会の名称を使用しています。」とあります。不思議に思い、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「正義と平和評議会」の解説を見ると、「日本では『正義と平和司教委員会』および『正義と平和協議会』として 71年に発足したが,74年には一本化されて『日本カトリック正義と平和協議』となった。」とあります。このようなことを書かないと、「運営の民主性を示すために」ということが伝わらないように感じます。
 
 
それに対する私のカウンターコメント
 
2023/02/26 09:32:09
 
新米信徒さまへ
 いつも的確なご指摘を有難うございます。
なるほど、「日本では『正義と平和司教委員会』および『正義と平和協議会』として 71年に発足したが,74年には一本化されて『日本カトリック正義と平和協議会』となった。」ということですね。
 それならわかります。つまり、「司教委員会」の名前は消えて、同時に民主的な信徒の活動家に開かれた「協議会」も解散消滅し、「協議会」の名を改変して「日本」をつけて「日本カトリック正義と平和協議会」とし、そこに名を消した「司教委員会」が入りこんで実質「正義と平和司教委員会」が「日本カトリック正義と平和協議会」として生き延びて今日に至る、ということですね。要するに民主的な信徒の活動家を主体とした「正平協」はつぶされて、「(宗教法人)カトリック中央協議会の 「カトリック教会法」に根ざしている組織である「日本カトリック司教協議会」が誕生したということですね。
 そして、その改変を機に本来の「正平協」が「死に体」化したということでしたか。それなら、正平協の変節の説明がつくというものですが・・・。

 しかし、ちょ―っと待ったー!!
 自分の日記を見ると、私が「正平協」で活動していたのは1977年にドイツから帰国してからのことだから、その時にはもう上の組織改編は終わっていたわけではないですか。
 改変後も、相馬司教のもとでは民主的な信徒のイニシャティブによる活発な活動があったのはどうしたことでしょう。
 正平協の変節が起きたのはそれより数年あと、つまり、私が国際金融マンを辞めてローマで神父への道を歩み始めた時より後のことではなければならないと思われます。だから私は知らなかったのではないか・・・と
 とにかく、私がメンバーであった時の「正平協」と現在の「正平協」とは掲げている理念もやっていることも正反対の印象を受けます。
 それでなければ、今頃私は「正平協」に招かれて復帰していて、「正平協」の人間としてLGBTに関する私の意見を発表していてもいいはずです。それなのに「正平協」は反対に私の口を封じようとしています。
 私自身は若かったあの頃も今も信念も情熱も全く変わっていない。だとすれば変節したのは「正平協」だとしか思えないではないですか。
 
 他にも、各ブログの末尾にはいろいろ興味深い「コメント」が寄せられています。どうかそこまで読んでくださるように、お招きいたします。(谷口)
 

 

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