:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ LGBTとキリスト教 (上)

2023-02-22 00:00:10 | ★ LGBTQ+

【書評】「LGBTとキリスト教――20人のストーリー』(上)

(監修・平良愛香/日本基督教団出版局・刊)

 

それが孕(はら)む根本課題が当節、見過ごされがちだから、

〝あらためて考える契機として、本書を読んでみた

評者/司祭 谷口幸紀

希少な資料

 友人の中で、自分がLGBT(レスビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなど、聖句別条の少数者)であることを私にカミングアウトしてくれた人が一人いる。その人物を仮にT氏と呼ぼう。T氏は、深い信仰を持ち、難病の十字架を背負いつつも、日々明るく生きている。そのすがたに私は好感をもって接しいるが、彼との友情だけからでは、LGBTの全体像は見えてこない。

 LGBTという言葉は最近よく聞かれるようになったが、まだその実態と全貌に触れる機会は少ない。特に、キリスト教世界では宗教的偏見もあって一層見えにくいのが実情だから、そこに一石を投じたこの一冊の功績は大きいと言えよう。

 また偏見、差別、生活上の不平等などによる生き辛さ、カミングアウトをためらわせる社会的重圧など、日ごろ見えにくいマイノリティーの現実にキリスト教的視点から近づく希少な資料として、心から推薦したいと思う。

さらに、この本は冒頭で、出版元・日本基督教団出版局編集部の声として「マイノリティーというと自分は当たらないと思う人が多いかもしれませんが、マイノリティーの要素というものはだれもが持っていて、その意味ではすべての人が当事者だと言えるのではないでしょうか」と問うている。それもある意味で正しいと思うので後で触れたい。

しかし、問題の根は深く、その領域は広範に及び、全体像を描き出す作業は容易ではない。そもそも、本書に収録された20の証言は、ほとんどが原稿用紙10枚ちょっとの超短編の集合体だから、どの筆者も自分がどのようなタイプの性的マイノリティーであるか、どんな困難を経験したか、どうやってカミングアウトに漕ぎ着けたか、今はどんな人間関係の中でどんな生き甲斐を見出しているかなどを中心に、さらっと表面をなぞるだけで終わっている。さらに、執筆者はプロテスタントの人物がほとんどで、その中にカトリックの「LGBTQ当事者会」元共同代表のレズビアンの女性と、クリスチャンホームに育ったゲイの男性で、現在はHIV陽性者の支援サービスを提供するNPOの代表をしている人物の寄稿もあるが、彼らもまた、あっさりした自己紹介的記述に終始して、問題の深部には踏み込んでいない。

 

表層的な捉え方では理解できないLGBT

たとえば、お祭りで“お稚ち児(ご)さん行列”が練り歩いたとしよう。まっ白な化粧に紅を差され、綺麗(きれい)に女装した男の子たちは、晴れがましさに大喜び。お母さんたちも美形に仕上がった我が子の姿に自を細め、主催者は祭りに花を添えることが出来て大満足――という光景は津々浦々で見られる。しかしそれは祭りの日だけの出来事で、普段の生活に全く影を落とさない限りにおいて、まことに微笑ましい話である。

また、トランスジェンダーの女性の場合でも、ただ長髪と女装を好み、女ことばを話し、身のこなしが色っぽいだけで、他者を生活に巻き込むこともなく、一人で楽しく生きているだけなら、別に差し障(さわ)りはないし、テレビに露出していても違和感はない。

しかし、一歩踏み込んで、歴史的に「稚児」と呼ばれるものがどのような存在であったか、などをレズビアンの女性や同性愛の男性が、誰かを全身全霊を傾けて真剣に愛そうとする場合、どういう問題にぶつかるかまで深く掘り下げていくと、たちまち深刻な影の部分が見えてくる。

 

敢えて「影の部分」を掘り下げれば

LGBTでも、その他もろもろの組み合わせの事例でも、性自認の背後には、子供の「お遊び」のように微笑みをもって見過ごすことが許されない重い現実が常に付き纏(まと)っている。

正直な読後感を言えば、本書は、LGBTが抱えている底知れぬ問題に全く触れていない点で物足りない。『LGBTとキリスト教――20人のストーリー』が表題のとおりキリスト教との関連でLGBTを見ようとするのであれば、たまたま当事者がクリスチャンであったと言うだけに終わらせることなく、〈キリスト教が性について何を教えているか〉までを読者に正しく伝えなければ、話は完結を見ない。

そう考えると、この本の書評を書く作業は、いやでも厄介な問題に手をつっこむことになるので、出来れば引き受けたくないな、というのが私の正直な初期反応だった。しかし、この本が触れないで済ませている深部こそ、避けて通ってはいけない重要な課題だということを明らかにするためなら、敢えて火中の栗を拾うのも意味があるかと思い直し、書評を引き受けた。

 

おくりびと

記憶をたどると、私がLGBTの問題に直接触れたのは、映画「おくりびと」の一シーンを見た瞬間だったように思う。それは、2008年封切の日本映画で、第81アカデミー賞外国語映画賞、第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞した、評判の映画だった。

就職したオーケストラが解散になり、新婚早々に失業したチェリストの小林大吾(大ちゃん)は、ひょんなことからおくりびと(納棺師)になる。初めて任されたのは若い綺麗な女性の遺体だった。

見守る親族の面前で、ご遺体のこの世の疲れと煩悩(ぼんのう)を洗い流すために、水を絞った白い布を手に裸体を上から覆う一枚の着物の下に手を入れ、美しい仕草で丁寧に払拭を進める。その手が『うん?』と言ったまま止まる。社長の耳元に小声で「ついているんですけど」というと、社長は「なにが?」と問い返す。大吾「あれです」、社長「あれって?」、大吾「だから、あれです」。そう言いながら払拭布を社長に渡す。社長は遺体の前に坐り、覆いの下に手を差し入れ、うん、うん、と二度うなずくと、やおら居並ぶ親族の席に行き、小声で「あのう。これからお着付けのあと、お化粧がありまして……」。故人の叔父が聞こえよがしに「留男んの化粧どうするって。男さする? 女さする?」と訊(き)く。母親はいたたまれず、「おいが最初から女に産んどきゃこんなことにならなかったのに、種がのう……」と言って、なじるように父親の顔を見る。素っぴんの留男の遺影を抱いた父親は憮然とするばかり。思いがけず秘密が暴露されてうろたえた母親は、叔父に促されて女化粧に同意する。

美しく仕上がった留男の化粧をみた父親は、「この子がこんなになってから、親子喧嘩が絶えなかったけど、やっぱりおらの子だぁー」と言って号泣する。私はここにLGBT問題の一端を垣(かい)間(ま)見る思いがした。

 

戸隠神社奥社の参道で

そもそも、LGBTは性的マイノリティーの問題である。その問題を正しく理解するためには、真反対の極にあるもう一つの超マイノリティー、すなわち、自然の性を円満に生き切っている希少価値のような具体例を見るのが助けになるだろう。

私は毎夏、信州・戸隠神社の奥社の森をトレッキングする。10年も前だったか、参道の脇で、薄い敷物の上に端座し、何やら描いて売っている若い女性がいた。近寄ってみると、どうやら似顔絵でも風景画でもなく、絵文字描きのようだった。

人に名前を訊(たず)ねて、それを不思議な崩し字にして描き、その名から湧いたインスピレーションを即興詩に託して余白に書いていく。中国の花絵文字は縁起の良い贈物として人気があるが、彼女のものは、絵というよりは書道を独創的に進化させたような態(てい)で、添えられた即興詩には彼女の暖かいメッセージが込められていた。

 戯(たわむ)れに一枚描いてもらった。彼女は一瞬目を閉じて天を仰ぎ、イメージが浮かぶと稲妻のような速さで私の名前をまん中に描き、余白を一編の詩で埋めていった。額(がく)に入れて5000円だったか……

私は今なぜ、こんな話を書くのか? それは、お代を払ったときに彼女がしてくれた話が、ジェンダーの問題に深くつながっていたからだ。

彼女はサラリーマンの夫を深く愛しているが、何しろ子供が6人もいて家計が苦しいから、道端で客を待ち、“名前絵”を売っている。愛する夫との性生活が余りにも幸せで、二人の体が一つに溶け合う一体感の目くるめく恍惚は最高の喜びだと言い切った。一切避妊しない。授かるこどもを全部育てる苦労も豊かに報われている。この二人が平凡な日本人のカップルであることに、私は衝撃を覚えた。

コンドームにもピルにも全く縁のないこの性生活の喜びを、赤の他人の私に何の衒(てら)いもなく吐露してくれた彼女に、深い畏敬の念さえ抱いた。彼らはクリスチャンではない。しかし、彼らは知らずしてキリスト教の創造主なる神が人間に期待した性と生殖のありかたを日々完全に実践する中で、期せずして神が約束した喜びの絶頂感、二つの肉体が融合して完全に一つの体になる恍惚感を享受している。その幸せが、ひしひしと伝わってきた。彼らはまだ若いから7人目、8人目、もしかしたらそれ以上の子宝を、責任と生活上の負担とともに英雄的に受け入れていくのだろう。

日本のカトリック信者の夫婦が、一般の日本人と同じように平均1・4人しか子供を持たないということは、教会の教えに反してピルやコンドームを駆使し、避妊や堕胎に励んでいるということだろうか。信者夫妻が完全な一致を拒み合ってするセックス、避妊用ピルでホルモンのバランスを壊したストレスの中でするセックスに、神が愛しあう戸隠の二人に与えられた最高の至福感が訪れるはずはないから、神が自然な夫婦愛に対する祝福と恵みとして用意された霊肉の至福感を生涯知らずに老いていく哀れな夫婦がいかに多いかを、思わずにはいられない。

パウロ六世の『フマネヴィテ』をはじめとして、歴代の教皇が夫婦の性生活の理想として掲げた生き方を、信者たちが実行できないでいる中で、キリスト教を知らない戸隠の無名の若いカップルの性の営みは、LGBTとはまさに正反対の極に位置するもう一つのスーパーマイノリティーとして、あらためて評価されなければならないだろう。

 

人間劇場=独り舞台の結末

私は身近に、ある優秀なイタリア人のカップルを知っている。LGBTではないノーマルな男女だ。彼は無神論者で、革命的イデオロギーに染まったビジネスマンであり、パートナーの彼女は女性解放運動の闘士だった。高い教育を受け、社会的成功者として欲しいものは何でも手に入れ性生活も充実していて、人々の羨望(せんぼう)を浴びるような幸せ者たちだった。

その彼らがある日、そろそろ子どもを作ろうと思い立った。ところが、どんなに精出して頑張っても、子宝に恵まれなかった。彼らは人生で初めて、欲しても自分の力で手に入らないものがこの世にあることに気がついた。自分たちが全能ではないこと、自分たちは神ではないことを思い知り、初めて決定的挫折を味わった。

教会の門を叩き、信仰の道に入り、教会の勧めに従って3人の養子を迎えた。そして今度は、その子供たちに金を注ぎ込み、高い教育をほどこし、自分たちと同じ価値観を持った上流社会のエリートに育て上げようと努力した。ところが、貧しい国から迎えた養子たちは、成長するにつれて養父母の期待をことごとく裏切り、親の価値観には全く興味を示さず――そもそもその素養も能力もなかったのだが――、ただひたすら自分のルーツ探しに狂奔した。親子関係は噛み合わず、怒りと失望の日々が続いた。そして、養子といえども、自分の所有物のように思い通りにできないことを悟るのに、多くの時間とエネルギーを費さなければならなかった。

やがて子供たちは結婚し、家を出ていった。残された彼らはいま謙虚な老夫婦として静かに信仰に生きている。そして、夫は目の持病が進行して、暗くなると妻の肩に手を置いておぼつかなげに歩いている。今は、友人Tのように、心の目で神を見ているのだろうか。

なぜこのカップルの話を出したのか。それは、神を度外視して人間の思いのままにすべてを自由に支配しようとしても、その尊大な意思は必ず挫(くじ)かれること、自然に反し(つまりは神のみ旨に反し)人間の欲望に任せて社会と世界を秩序付けようとしても、決してうまくいかないこと、生と繁栄に秩序づけられている世界を、人間が思いのままに改変しようとすれば、死と滅亡を招き寄せることになることを、例示したかったからだ。

 

LGBTの権利主張が生む不都合な事実

『ハリーポッター』作者の発言と風当たり

「LGBTは社会の複雑化と共に人類が新たに獲得した自由の発露である」として称揚し、「彼らの権利を擁護するのは進歩的な人間の責務だ」と考えるのはいいが、その延長線上にあるLGBTの数と勢力を拡大しようとする“霊的な意志”と策動には、注意すべき問題が隠されていることを正しく理解しなければならない。

ファンタジー小説『ハリーポッター』シリーズで知られている英作家、J・K・ローリング女史(56)は、〈ホルモン療法や性別適合手術を受けていないトランスジェンダーの女性たちに女性専用スペースの使用を認めること〉に反対した。

スコットランドで提案されている「性別確認証明書」の法改正は、トランスジェンダーの人たちが医学や精神医学に基づく判断ではなく、本人自身の申告だけにより性別の変更を認める。

ローリング女史は、「自分が女性だと信じている、またはそう思っている全ての男性に対して(女性用の)バスルームや更衣室のドアを開くことは、中に入りたいと思うあらゆる男性に対して、そのドアを開くことになります。至ってシンプルな事実です」と語っている。

この一連の批判は、彼女が20代の頃に受けたひどい性的暴力の記憶を呼び起こし、今は、それらを頭の中から追い出すことができなくなっているそうだ。そして同時に、政府が女性と少女たちの安全に対して無責任な行動を取ろうとしていることに怒りと失望を抑えきれない気持ちになっているという。

だが、こうした彼女のツイートは大炎上を引き起こし、現在彼女はひどいバッシングを浴びている。

「ロンドン発AFP時事電」によると、ローリング女史は、多数の殺害予告を受け取っていることを明らかにした。それは互いに無関係な個人たちの発言がたまたま集中したのだろうと軽く考えることもできるが、現実はそんな生易しいものではない。背後には必ずと言っていいほど、強烈な意思を持った“闇の巨大な霊的力”が存在していることが予感される。羊の毛皮をかぶった狼のような“意志”の存在だ。密かに着々と進めていた陰謀が表沙汰になり水を差されたことに逆上し、殺害予告という凶暴な挙に出たのだろう。プーチンが核の脅迫で相手を怯(ひる)るせようとするのと同じ手口である。もちろん、ここで言う“霊的な力”とは、人間世界に存在する特定の組織・団体を意味するものではない。そのことについては次号の本稿後半で詳しく述べることにする。

 

まだある〈不都合なケース〉

XY型の男性染色体を持ち、陰茎や睾丸などの性器を持つ人間が、成人して、突然「私の性自認は女性だ」と自己申告するだけで、社会も行政もその人を女性として扱わなければならないという規則・法律が生まれた結果、何が起こったか。

自分の性自認は女だと主張する人が「私も女子トイレで用を足す権利がある」と言ってスカートの下に一物をぶら下げて女子トイレをうろうろしたら、また、スポーツクラブの更衣室やシャワー室、日本なら温泉の女風呂に入るのを妨げるのは人権侵害であると言って素っ裸で闖入(ちんにゅう)してきたら、女性たちはどう身を護ればいいのか。現代社会はそのようなLGBTの要求を前にして全く無力で、差別だ、迫害だと言って叩かれるのを恐れて、要求されるままに譲歩を重ね、その結果、実際にそういう人物の出入りを許した施設で、レイプ事件が頻発している現実をどう考えるべきか。

ゲイのカップルが子供を欲する場合は、生殖に適した肉体的整合性がないから、どうしてもどちらかの精子を使って代理母の胎を借りることになる。しかしその場合、代理母は、人格の尊厳を蹂躙(じゅうりん)され性を搾取されたことにはならないだろうか。

もっとひどい話は、同性愛男性のカップルの一方の精子ともう一方の妹の卵子を体外受精し、その受精卵を精子提供者の母親の子宮に入れて出産させた事例だ。自分の子どもは同じ母から生まれた自分の兄弟という実にややこしい話になる。

金で買った女性の胎に精子を入れて自分たちの子供を生ませておいて、代理出産で手に入れた男児に性的虐待をほしいままにしたあげく捕まったゲイカップルがいるというが、おぞましい限りだ。

このように、LGBTの権利主張に対して、平等やマイノリティー保護の観点から社会がどこまでも譲歩を重ねていくと、その結果としていろいろな不都合が派生してくる。

まだある。アルゼンチンで、有罪の判決を受けた男が「わたしの自認する性は女だ」と主張して、女性の監獄に収監されることを要求し、そこで5件のレイプ事件を起こしたことが知られている。

さらに、スポーツ界の例。「私の性自認は女性だから女子の競技に出る権利がある」と主張した申告が簡単に認められ、男性アスリートの間では100位以下にランクされていた男が、体力的優位にものを言わせて女性の競技で優勝しメダルをさらっていった。バレーボールでも何でも女性チームが競争に勝つために女性を自認する男性をスカウトするなら、女性のプレイヤーが排除され駆逐されることにならないだろうか。また、相手がその手でチームを強化するなら、筋骨隆々としたトランスジェンダーの“女子プレイヤー”ばかりのチームが金メダルを独占する日がくるのは目に見えている。男性社会では劣後した人物が、姿を変えて女性社会で優位に立とうする意図が見え隠れするではないか。

ローリング女史は譲歩して「ホルモン療法や性別適合手術を受けていないトランスジェンダーの女性たち」と限定したが、いくらホルモンで胸を膨らませ、性的適合手術で睾丸や男根を切除しても、外見を不器用に女性に似せるだけで、いざという時には相手の男根を受け容れることはできない。また、女性の体に臓器移植で男根や睾丸を縫い付けても、肝心の時に勃起し射精できなければ何の役にも立たない。まして、男の体に卵巣や子宮を移植するなどということは、どんなに外科技術が進歩しても永遠に不可能だろう。行きつくところDNAのミクロの世界に遡って、約37兆個のすべての細胞の染色体をXYからXXに置き換えるところにまで行きつくが、そのような企ては神の領域を犯す傲慢な涜神行為と言うほかはない。

 

闇の力の攻勢に対する防衛の試み

ここで、あらためて再度、「“闇の力”の攻勢」に言及しておきたい。この言葉の意味するところは、ローリング女史に殺害予告を送り付けるような“闇の力”による攻撃のことだ。もちろん“闇の力”と言っても特定の組織・集団を意味するものではないことは前述のとおり。

その“攻撃”のなかでも絶対に許されてはならないのは、そのような“力”が、子供の性教育の現場で、幼い子供に「あなたたちは男の子でも女の子でも、どちらでも好きなほうになれるんですよ」と優しく誘導して、「性自認」の即答を迫り、〈問題の本質をよく理解できていない子供が咄嗟(とっさ)に思いつきで口にした答えを根拠に、その子の「自認した性」に沿って、親の意見も聞かず、性教育・情操教教育の名のもとに、意図的に特定ジェンダーの方に誘導し固定化しようとする試み〉だ。

これは決して杞憂ではない。ジェンダー先進国ではすでにその攻撃が組織的に進行している。やがて日本にも必ず上陸してくるだろう。

このような動きに対抗して、アメリカ南部フロリダ州では、2022年3月28日に、小学校の授業で性的指向や性自認に関する話題を取り上げることを規制する法律が成立した。

この州法は、幼稚園から小学校3年までの授業で、性的嗜好や性自認に関して教えることを禁止し、小学4年以上の授業でも、「年相応で子供の発達上適切な方法」で教えるよう規定し、親が「学校での教育内容が州法に抵触する」と判断した場合は、学校を相手取って訴訟を起こし損害賠償を求めることができる、としている。デサンティス州知事も「ほかの地域では、性自認について『なりたいものになれる』と教えようとしているが、幼い子どもには不適切だ」とコメントした。

 

LGBTの性の深淵

マジョリティーの性を生きる人は、ごく自然に生涯を共にする配偶者を求め、結婚して子供に恵まれ、家庭を築いていく。

マイノリティーのLGBTの人たちも同様に、一人のパートナーと愛しあい結ばれあって一体となり、子供に恵まれて家庭を築くことを本能的に欲しないだろうか。

前述した『おくりびと』の中の留男の場合は若くして死んだから、良きパートナーと結ばれることのないまま人生を終わってしまった。

私の友のF氏は、与えられた十字架の難病もあって、ひたすら神を恋い慕っているので、恋愛や結婚には目が向いていないかもしれない。しかし、多くのLGBTの人は、きっといつかこの避けては通れない問題と向き合うことになるのではないか。

ノーマルとされる性が自然に求める配偶者は、肉体的にも性自認においても自然の摂理に適合しているから、円満かつ完全に心身の結合を成就することができる。戸隠神社の奥社で知り合った彼女はこの夫婦愛が生殖につながることを承知の上で、それを自由に承諾した。

しかし、先述の“お祭りの話”に出たお稚児さんは、ひと昔前まではやんごとなきお方様・武将・僧職などの性的嗜好の対象として選ばれた美形の少年として実在したのである。

寵愛される美少年は、往々にして主人の性的満足に奉仕する従者、ありていに言えば奴隷であり、愉悦の極限で両者の心身が溶け合って一つの体のごとくに結ばれる理想からはほど遠く、一人の人間のあくなき性的満足追及の蔭で、苦痛と屈辱感に押しつぶされる犠牲者となっていたものと思われる。

ローマ五賢帝の一人に数えられるハドリアヌス帝とその最愛の寵児アンティノウスの男色関係は、当時から半ば公然のものだったが、その光景はエドゥアール=アンリ・アヴリルの作品「エジプトのハドリアヌスとアンティノウス」にリアルに描かれていて有名だ。神社のお稚児さんや、美少年の喝食(かつじき)(禅寺のお稚児さん)も、カトリックボストン司教区のペドフィリア(小児寵愛)も、行き着くところ、その内実はこの絵と変わるところがない。

〈中〉は一つ前のブログ)    

 

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★ LGBTとキリスト教(中)

2023-02-22 00:00:05 | ★ LGBTQ+

【書評】「LGBTとキリスト教――20人のストーリー」(中)

私たちは、意図して阿(おもね)る“なりすまし”を区別する

見識を持てるか――共感を寄せる前に取り組みたい「心理学」的考察

評者/司祭 谷口幸紀

 

 

LGBTへの対応――日本の現状は

 

県や区の条例に見る行政の姿勢

日本という国は政府のトップから末端の行政機関まで、自分で確固たる価値基準を持たないために、海外でスポットライトを浴びて議論されているホットな話題は先進的でカッコ良いと思い込んでいるのか、いち早く無批判に飛びつく悪い癖がある。LGBTはまさにその一つだと言えよう。

東京・渋谷区では、「男女・性自認・性的指向をめぐり現実に起こっている多くの問題を改善し、多様な個人を尊重しあう社会を実現するため」として、2015年4月1日に「渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例」が施行された。

同区では、「この条例に基づき、性的少数者の人権を尊重し、性のありようにかかわらずだれもが活躍できるジェンダー平等な地域社会の実現にむけて取り組みを進めています。パートナーシップ証明は、法律上の婚姻とは異なるものとして、男女の婚姻関係と異ならない程度の実質を備えた、戸籍上の性別が同じ二者間の社会生活における関係を『パートナーシップ』と定義し、一定の条件を満たした場合にパートナーの関係であることを証明するものです」と説明する。

また、埼玉県議会では既にLGBT条例が成立しているが、その第1条(目的)で、「この条例は、男女という二つの枠組みではなく連続的かつ多様である性の在り方の尊重について、その緊要性に鑑み、性的指向及び性自認の多様性(以下『性の多様性』という)を尊重した社会づくりに関し、基本理念を定め、県、県民及び事業者の責務を明らかにするとともに、性の多様性を尊重した社会づくりに関する施策の基本となる事項を定めることにより、性の多様性を尊重した社会づくりに関する取り組みを推進し、もって全ての人の人権が尊重される社会の実現に寄与することを目的とする」と謳(うた)い、第2条(定義)では、「この条例において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる」として、①性的指向 自己の恋愛又は性的な関心の対象となる性別についての指向をいう ②性自認 自己の性別についての認識をいう ③パートナーシップ・ファミリーシップ 互いを人生のパートナー又は家族として尊重し、継続的に協力し合う関係をいう――と規定している。

一応もっともらしい作文がなされているが、“ジェンダー先進国に追従するのが進んだ自治体だ”とする風潮に流されているだけのことで、その先進国がいま直面しているさまざまな不都合が今後日本でも発生するようになったとき、どう対処するつもりかについては何も考えていない。

さらに、今年(2022年)9月15日の東京都議会の文教委員会では「女性用トイレの維持及び安心・安全の確保に関する陳情」が審査され、満場一致で「不採択」になった。この勢いで9月20日には「東京都職員の福利厚生の条例改正案」が提出される予定だが、これは11月1日の「東京都パートナーシップ制度」のスタートに合わせるための手順。東京も渋谷区や埼玉県と同じ方向に進みつつある。

 

ノートルダム清心女子大の取り組み

カトリック女子修道会が経営するノートルダム清心女子大学(岡山)のウェブサイトを開くと、いきなり《重要なお知らせ》として、「2023年度からの多様な学生の受け入れについて/学長メッセージ」という記事が目に飛び込んでくる。主な部分を引用しよう。

――〈ノートルダム清心女子大学は、本学の教育理念の実現に向け、自身の性自認にもとづき、本学で学ぶことを希望するトランスジェンダー女性(戸籍上男性であっても性自認が女性である人)を2023年度から受け入れることを決定しました。

トランスジェンダー女性は「多様な女性のうちの一人」です。出生時の性(戸籍の性)が男性であることに違和感があり、自認の性(女性)で生きることを切望している人です。

本学では、それぞれが自分らしく生きることができるよう様々な場面で、共生社会に向けての学びの機会をこれからも作って参りたいと思います。

ノートルダム清心女子大学学長 シスター 津田 葵〉――

これに対して、「NO!セルフID 女性の人権と安全を求める会」は同大・津田学長宛に、「女子大である貴学が2023年度からトランスジェンダー学生を受け入れるというニュースに接してたいへん驚きました。これは一大学の方針転換にとどまらない大きな問題だと考えます。そのため、女性の人権と安全を求める立場から、いくつかの看過できない問題を指摘するとともに、強い抗議の意思を表明いたします」という文書を送った。理路整然とした抗議文は、拙稿書評の内容とも整合している。

ノートルダム清心女子大がここで男女共学に踏み切らなかったのは、女子大としての特色は残したいが、少子化による定員割れを恐れて、〈性自認が女である男性〉も受け入れよう――ということなのだろうか。

同大学の『トランスジェンダー女性受け入れガイドライン』は、起こり得る不都合を想定したのか、「虚偽の性自認による“なりすまし入学”が発覚した場合には、学則に基づき退学処分にする」と書いている。

しかし、入試願書に「わたしの性自認は《なりすまし》です」と書けば受験は許可されないから、“確信犯”的受験生なら「わたしの性自認は女性であることに間違いはありません」と虚偽の記載をするに決まっている。とすれば、トランスジェンダー学生全員に“なりすまし”の疑惑が最初から付き纏(まと)うことになるのではないか。

万一、学内でレイプ事件が起きたら、一人の学生の退学処分だけでは済まされないだろう。女子学生や父兄の動揺は小さくないだろうし、翌年以降の入試にも影響するに違いない。女子大としては存亡にも関わる深刻な問題ではないか。だから、トランスジェンダー学生に門戸を開いた女子大の学長は、いつ起こるか分からない事件の影に日夜怯(おび)えることになるだろう。

そもそも、学長のシスターは、ナミュール・ノートルダム修道会の修道女である。それならば、同修道女会に「わたしの性自認は女です」と自称する男性信者が入会を申し込んで来たら、本人の自己申告を根拠として入会を認める覚悟があるのだろうか。「とんでもない。そんな人は断固受け入れません」と言うのであれば、なぜ同じ会が経営する女子大に「性自認は女」を自称する男子を受け容れることができるのか。そんなダブルスタンダードが社会に通用するわけがない。

このような重要な決定を、国際本部の総長の承認なしに、日本管区長の了解だけで行い得るのだろうか。カトリック教育を所管するバチカンの監督官庁はどう考えているのか?

まだある。在学生は今のところ皆、この大学は女子大であると信じて入学した女子学生ばかりだ。「来年から“女性を自認する男子”を受け容れる」という突然の発表に接して『裏切られた』と感じる学生や父兄がいないだろうか。いまさら転校もままならず、“清心卒”の肩書を期待していた学生は身動きが取れない。せめて現在学生が卒業し終わる4年後まで猶予期間を設け、来年以降の入試要項には「2026年からは《性自認が女性の男子学生》も受け容れます」と予告するだけの配慮が必要ではいか。このままでは拙速の誹(そし)りを免れまい。

 

ICUは“オールジェンダートイレ”で物議

プロテスタント系ICU(国際基督教大学)のオールジェンダートイレの問題にも言及しておこう。

男女共学のICUは、もともと性の多様性に配慮した取り組みを積極的に行ってきたといわれる。一部の建物を除き、「全ての男女トイレの区別を廃止して、誰でも入れるオールジェンダートイレのみとする改革」に携わった学生部長の加藤恵津子教授は、取り組みの必然性をこう述べている。

「オールジェンダートイレの設置は、人権を大切にするICUのポリシーであり、メッセージでもある。どんなジェンダー、セクシュアリティー、障害、人種にせよ、どんな背景を持っていても、人間が人間である限り全員平等でなければならない。人間が全員持っている、幸福で安全に暮らす権利なんです」

しかし、これは女性に対する配慮を欠き、性犯罪を誘発する可能性を孕(はら)む“悪しき改革”なのではないか。ハリーポッターの作者・ローリング女史が警告したのは、まさにこのような事態だった。そしてただそれだけで、彼女は殺害予告の脅迫を受けた。

LGBT 論者が「トランスジェンダー女性は『多様な女性のうちの一人』です」というとき、論者は「その女性が神様から戴いた身体(からだ)は依然として男性である」という厳然たる事実から目を背けている。心は女のつもりでも、性欲の興奮を覚えれば、反応するのは“彼女”の中の“男としての肉体”だ。女囚の監獄で性自認の囚人がレイプ事件を起こすことがあるのはその証左である。

 

トランスジェンダーイズムの嘘

     ――LGBTに関する不都合な真実

性転換悔悟“Sex Change Regret”

私は我那覇真子(ガナハ・マサコ)という女性がウオルト・ハイヤー(Walt Heyer)という心理学者とアメリカのノースカロライナで行ったインタビューをYouTubeで見た。

ハイヤー氏は性転換手術を受け、48年間ローラという名の女性として生きてきたが、カリフォルニア大学サンタクルーズ校で心理学を専攻し、その研究を通してトランスジェンダーを克服して“Sex Change Regret”(性転換悔悟)という理念に到達し、De-transition”(転換消去)という方法を用いて、いわゆる「性転換」を行って後悔している人々に、本当の人生を取り戻す手助けをしている。

ハイヤー氏は日本ではまだほとんど知られていないが、この十数年間で数千人のケースに関わったという。彼のウェブサイトには200万件のアクセスがあり、1万通以上の問題メールに対応してきた。結果、180ヵ国に援助の手を差し伸べ、多くの人々をジェンダーの苦しみから救い続けているという。

このインタビューからは、いま世界を席巻しているLGBTの問題、世界の隅々まで浸透しつつあるレインボーキャンペーンに冷水を浴びせ、LGBTの仮面を剥(は)ぐ数々の真実が見えてくる。

 

ハイヤー氏の主張「ホルモン療法や

性転換手術は史上最大の医療詐欺」

若いころ、自分の性的アイデンティティーの悩みを持ったハイヤー氏は性転換ができるというクリニックの宣伝を信じて「性転換手術」を受けた。が、彼の心の問題は解決しなかった。そしてその後の心理学の研究によって、それがまやかしであったことに気づいた。

彼は、彼にホルモン療法や手術行った外科医をカリフォルニアの裁判所に訴えて、彼を男から女に変えたことを証明するよう求めた。しかし、被告はそれができなかった。そして、彼はその医師から「施した処置では性別を変えることはできない」ことを認めた文書を取り付けた。

それらの処置は男性の外見を少し変えただけで、〈術後も男性であるという事実はいささかも変らない〉という当たり前のことが確認され、それらの処置を「性転換」手術と呼ぶのは、「医療詐欺」以外の何ものでもないことが証明された。

 

LGBTの「T」は大ウソである

歴史上かつて誰一人として「男」から「女」に、またはその逆へと、性を移行した者はいない。人の性別は精子と卵子が結合した瞬間に確定し、個体を形成するのであって、それが変わることは生涯にわたって原理的にあり得ないのだ。だから、性別のトランジション(移行または転換)があったかのように語るジェンダー論は「大ウソ」以外の何ものでもない。

宝塚の少女歌劇で女性が男役を演じる、歌舞伎役者が女形(おやま)を演じる、能楽師が女の面をつけて舞うからと言って、役者・俳優の人間としての性別が変わるわけではない。変わったのは「ペルソナ」だけである。「ペルソナ」とはもともと、ギリシャ語の仮面劇で役者がかぶる「仮面」のことだった。男が女の仮面をかぶっても、演じているのが男であることに変わりはない。今はやりの「性自認」も同じで、そこには「わたしの自認する性は女性であると主張する男性」がいるだけのことで、生物学的にも人間としても、彼の性別が変わったわけではない。 

 

ジェンダーディスフォリアの訳が「性同一性

障害」なら、性別の問題とは何の関係もない

「ディスフォリア」は「ユウフォリア」(幸せを感じる、満ち足りている)の反対の「不幸感、失望感、つまり、自分(の性)が好きになれないこと」を意味し、それは何かの原因に由来する「症状」を示している。

たとえば「熱がある」「味がしない」などは「新型コロナウイルス感染症」という病気の症状であって、病気そのものではない。同じように、「性同一性障害」とは「自分が好きになれない」何らかの問題(原因・疾患)の表われ(=症状)であって、その症状の原因である「疾患(病名)」を特定し、それに対応した適切な処置(治療)を施さなければ、決して問題の根本的解決にはつながらない。 

だから、「性同一性障害」の本当の原因とは向き合わず、「その『病気』にはホルモン療法や性転換手術が効く」などと言ってそれらの処置に誘導するのは、明らかに「医療詐欺」である。

それは状況を悪化させるだけでなく、悪くすればその人を精神的、あるいは肉体的な「死」に至らしめる。事実、性同一性障害者の自殺率は、「詐欺的な手術」後に19倍に跳ね上がっている。

 

「なぜ自分が好きではないの?」と言う問いの重要性

この世には「不変の真理」というものがある。「三角形の内角の和は180度」とか、「人は理由なしに嘘をつかない」などがそれだが、「社会的、心理的に、感情的、性的にも満ち足りている人は、自分の性を変えたいと思わない」というのも、その種の真理の中に含めていいだろう。

前述のハイヤー氏自身は、専攻した心理学の研究を通して、自分に内在する問題点に辿り着き、それを克服した。彼の場合は、4歳ごろから祖母に女子用の服を着せられ女の子のように育てられたが、それを嫌った父親から暴力的に矯正され、叔父から性的虐待を受けたこともあって、結婚後もアルコール依存で自己破壊的な人生を歩んだ。しかし、心理学の研究を通してそれらの体験を克服し、今は人を助ける立場にいる。

「自分を好きになれない」「自分を変えたい」背景には、何か「自分を嫌いになった原因」が常にあることを、彼は自身の体験から会得した。だから、相談に乗り、一緒に時間を過ごすうちに、100%の確率で必ずその人に起きた「何か」を知ることになる。 

“自分ではない別の誰か”になりたい人々の多くは、性的虐待(レイプ)を受けたり、精神的虐待や肉体的虐待を受けたり、罪を犯してしまったり…… といった体験を持っていて、自分を嫌いになる何らかの原因が必ずそこにある。その原因が特定できれば対処も可能で、対応が進めば再び自分を肯定し、好きな自分を取り戻すことが可能になる。騙(だま)されて「医療詐欺」であるホルモン療法や性転換手術に至る前にこの対応がなされた人は幸いだ。

だが、不幸にして騙された後で気付き後悔した場合でも、ウオルト・ハイヤー氏が48年かけて問題を克服し、今は多くの犠牲者を救っているように、“Sex Change Regret”(性転換悔悟)を通し、“De-transition”(転換消去)によって、再び自分を好きになることができる。

自分を好きになれず、自分を消し去りたいと思う人は自殺を思う。生きたまま別の誰かになりたい、性を変えようとすること、つまり、「トランスジェンダー」を試みることは、生きたまま自殺を図る行為であり、外科的処置を受けることは、命を構成する37兆個の細胞の数パーセントに対して自殺を決行することである。しかし、からだの一部を切除しても死に切れず、自分の人格崩壊が深まるだけに終わる。

彼女(彼)の周囲にいる者は、対象者が問題の本当の原因に辿り着くために、「なぜ自分が嫌いなのですか?」「なぜ自分を破壊したいのですか?」「自分が嫌いになるほど恐ろしかったとは、何が起こったのですか?」と問い続け、対象者が思い出したくなかった、誰にも言えなかった出来事を、忍耐強く優しく寄り添うことを通して、答えてもらわなければならない。なぜなら、そこには必ず何かあるからだ。

そこから見えてくるものはさまざまな「社会的人格的外傷」、例えば性的虐待、精神的虐待、肉体的虐待などによるPTSD (心的外傷後ストレス障害)、統合失調症、Ⅰ型双極性障害――等々である。ハイヤー氏と同様の活動をシアトルで行っているグレース・ダンカンという女性によれば、彼女が相談に乗った女性は100%、性的虐待を受けているということだった。

さらに、ポルノ依存症も原因の一つになる。アルコール、薬物、ギャンブルなどの依存症が人間の脳を破壊するのと同様に、ポルノ依存症は脳を物理的に破壊する。また教育の現場において幼児、低学年児童に対し「性別は自由に選べる」と教え込む、悪しき洗脳教育もある。これは非常に有害で破壊的ないわゆる「文化的マルクス主義」のなせるワザだ。子供たちの〈自分についての考え方〉を変え、両親に対する考え方、人生の捉え方、性別に関する考え方をも変えてしまう。子供たちを洗脳すれば、男女関係を破壊し、人生の土台を形成する「家庭」を破壊し、次の世代を破壊し、国を破壊し、世界とその歴史を滅ぼすことができる。

 

アメリカでは浸透しにくい正論

ハリーポッターの作者、J・K・ローリング女史が、LGBTに反対の声をあげた結果として多くの殺害予告を受けたように、ウオルト・ハイヤー氏も自身を危険から護る必要性を感じている。LGBTが社会的勢力を伸ばしているアメリカで、ハイヤー氏は自分の住所を隠すなどの防衛策を取っている。

彼の正論――すなわち、トランスジェンダーは「虚偽」であり、ホルモン療法や性転換手術は「悪質な医療詐欺」であるという真実――を、歯に衣着せずに語る人は、闇の勢力を苛立(いらだ)たせ、怒らせ、潰しにかかる攻撃を絶えず誘発する危険の中にいる。しかし、ロシアのテレビ番組はそんなハイヤー氏を招いた。ロシアではトランスジェンダーイズムによる家庭崩壊の弊害が目に余るほどになっているからだ。チェコでもテレビに出演し、その結果チェコでは、トランスジェンダーイズムについて学校で教えるカリキュラムが全て停止された。

スペインからも、チリ、ニュージーランド、オーストラリア、カナダからも招聘され、ハイヤー氏は今やアメリカ以外でよく知られる存在だ。しかし、日本で彼を紹介する動きは鈍く、その意味で本誌『福音と社会』に彼の名が載ることは画期的な出来事と言える。

そうした状況下で、イギリスのリズ・トラス首相が就任後の第一声で「反トランスジェンダー」に舵を切ったと報じられたが、それは、ことの本質を考えさせる意味で、画期的な一石になったと思われる。 

(以下、この一つ前のブログ)

 

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★ LGBTとキリスト教(下)

2023-02-22 00:00:01 | ★ LGBTQ+

 

【書評】「LGBTとキリスト教――20人のストーリー」(下)

評価分かれる「LGBT」について聖書はどう語るか

評者/司祭 谷口幸紀

 

 

気になる本書「はじめに」の一節

神が創造した性は二つだけ

「神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)。神が人間の体に与えた性は、創造のはじめから男と女の二種類しかない。女体の中で卵が一個の精子を受け入れた瞬間に新しい人間の形成が始まり、その性染色体が女 (XX)か男 (XY)かのどちらかによって性別が確定し、胎生8週間ごろには既にXX染色体の女性には膣・子宮・卵巣が、XYの男性には前立腺・精嚢・精管などの内性器が、また12週ごろまでには女性の陰核や男性の陰茎などの外性器が成長し始める。人間の性は出生届の際に親が割り振るものではない。性別は人間の存在開始の最初の瞬間に神が決めたものであって、人間による変更はあり得ない。

身体的性が二つしかないという事実は誰も否定できないのに、LGBTの人が自分を好きになれなくて、「私の心に与えられた“生まれつきの性”は体の性と整合していない」と言い、まるで自分が自認する性が宿命的所与であるかのように思い込んでいるとすれば、それは正しくない。

神は動物のオスにはオスとして、メスにはメスとして生きる本能を与えられた、神が人間をご自分の似姿として創造された時、人間には本能に代えて理性と自由意思をお与えになった。それは、人間には自分が神からいただいた性を正しく認識した上で、従順にそれを生きることを期待されたからだ。

ところが、中には、自分が戴いた体の性を知った上で、それを好きになれないとき他の性、つまりLGBTを自由に選び取ろうとする人もある。この“自認された性”は、人が自我に目覚め成長し成熟していく過程で形成されたものであって、決して天賦(てんぷ)のものではない。不可分の一者である人間の体と魂に異なる性を埋め込んで人格を分裂させることは、全能の神といえどもおできにならない。神も自己矛盾を犯すことはできないからだ。LGBTの人が自分を好きになれず、生きづらさを感じるのは、それなりの理由があってのことではあるだろう。しかしそれを、自分をこの世に生み出した神の所為(せい)だと考えるのならお門違(かどちが)いと言わざるを得ない。

こうして見てくると、気になるのは、本書の「はじめに」の中で、「この本で伝えたいことは、性がこんなにも多様であり、それを織りなす一人ひとりを神様がお創りになったという、神の創造のみ業(わざ)の豊かさです。」(P.5)という一文だ。そこには〈神がLGBTを創造した〉というニュアンスが滲み出ている。

この発言は、「神はご自分にかたどって人を男と女に創造された。」(創世記1:27)という神のみ言葉と整合しない。したがって、この「はじめに」の表現は正しくない。

 

「結ばれて二人は一体になる」の神秘

「交尾」と「生殖」の不可分性

動物は造物主の手により脱着不能の毛皮や羽毛をまとった姿で創造され、哺乳動物は発情期に交尾して子供を産む。この一連の行為はひたすら本能に従って行われるのであって、自動的に種の繁栄を結果する。だから動物の世界にはジェンダーの問題がない。

人間の場合も男と女の結合は、自然に任せれば生殖と種の繁栄に直結するが、理性と自由意思を備えた人間だけが、性と生殖を分離することを思いついた。

人間には性の快楽から生殖を切り離すために避妊の手段を熱心に開発してきた長い歴史がある。しかも、人間の場合、普段は衣服をまとっているが、生まれつきは裸で、性行為の時に服を脱げば、体の表面がすべて性感帯となる。その上、人間は一年を通して発情期にあり、いつでも愛に引き寄せられて抱きあう時、あたかも一つの体になったかのように全身全霊で融合して、聖書にあるとおり「二人はもはや別々ではなく、一体である」(マルコ10:8)が実現する。

さらに、神は人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、知の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28)と言われた。これらの言葉は、右のマルコや創世記2:24と呼応し合う一連の「神のみことば」であって、その有機的結びつきを壊してばらばらな解釈を自由にすることは許されない。

また、神が太祖アブラハムに「あなたを豊かに祝福しあなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」(創世記22:17)と言われた言葉も、それと深く結ばれている。神が「地に満ちて地を従わせよ」と言われるときの「地」は、地球の大地のことだけを指しているのではない。

人類はすでに1969年に月の地面を踏んだが、今世紀中には再び月に人を送り、月を足掛かりに太陽系の他の惑星に降り立ち、やがて人類は太陽系外の銀河の星々へ、さらに銀河系の外の広大な宇宙にある他のギャラクシーへと“目指す目的地”は拡散する。目的地はいつか全宇宙(広義の「地の果て」)まで拡散するだろう。

そして、それは神の計画どおり男と女の自然な愛の交わりと密接不可分に結ばれ、自覚され同意された生殖活動によってもたらされる人類の増殖によって成し遂げられる何十億年にもわたる神の壮大なご計画だ。LGBTがそのご計画に具体的な形でどのように参加し貢献できるのか、あるいはできないのかこそ、本書の中心課題だったはずではないだろうか。

 

結ばれて二人は

聖書の「二人は一体となる。」(マタイ19:5)の理解を助けるために、分かりやすい例を挙げよう。

鉄の原子核のまわりを電子が廻っている。電子の動きは一種の電流で、電流があれば鉄の原子は磁気を帯びる。が、各原子の極性がバラバラな方向を示して打ち消し合っているとき、鉄の棒全体は極性を持たない。しかし、いったんそれを包んで大きな電流が流れると、各原子の極性は一斉に同じ方向に揃い、全体として一個の電磁石となり、鉄などの磁性体を引き付ける。そしてその接触面が密着すると、その結合力は絶大で、容易に引き離すことができないほどになる。しかし、接合した二つの極面の間に僅(わず)かでも夾(きょう)雑物(ざつぶつ)が入ると、結合力は大幅に減殺され、簡単に引き離すことができる。

人間の体も同じだ。各細胞は、異性の細胞に惹(ひ)かれる性質をもっているが、普段は何も起こらない。ところが、男女が好意を抱いて接近し、そこに愛という電流が流れると、その強い愛の磁場の中で二人の体の全細胞が力を合わせて引き合い、合体して、あたかも一つの肉体になったかのように融合する。聖書の「結ばれて二人は一体となる」とは、まさにこの状態を指している。それを戸隠神社の参道であった彼女は日々体験している。〔本誌323号本稿(上篇)参照〕

ところが、LGBTでからだの自然の性と自認された性とが乖離(かいり)している場合は、愛し合い求め合うパートナー同士がぴったりと完全に身体を接合させることができない。強いて一体化を追求すれば、ハドリアヌス帝とアンティノウスの絵のように、四つん這いになった若者の肛門に皇帝が男根を挿入するようなことになるしかないのだ。また、男と女が正しく結合しあっても、コンドームの薄膜が決定的な部位において二人を厳しく隔てている場合とか、ピルによるホルモンのアンバランスが生むストレスのもとでは、引き付けあった二つの磁石の極面の間に夾雑物が挟まった場合と同様に、結合の快感は脆(もろ)く弱いものに終わる。避妊を常習としている夫婦は、動物の本能レベルの性的興奮は味わうが、神様が人間のために取っておかれ、戸隠の彼女が知った霊的恍惚感、至福の一体感を生涯知ることなく生を終えるだろう。

 

理性と自由意思をまとった「神の似姿」

人間が造り出したLGBT

聖書には、「神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)とある。神は御父(神的存在そのもの)と御子(神の理性)、聖霊(神の自由意思)の三位一体の唯一の位格神(パーソナルゴッド)であり、神にかたどられた人間も、神の似姿として肉体を存在のベースに理性と自由意思を備えて自我に目覚めたパーソナルな主体で「インディヴィデュアル」(individual)と言われるが、否定の接頭語「イン」(in-)と「ディヴァイド」(divide)分割するという動詞が合わさって「不可分割のもの」と言う意味であるから、一人の人間が性を異にする体と魂に引き裂かれることはあり得ない。

また、生物の中で人間だけが自分の性を認知し、それを自由に受け容れる可能性を持っている。だからLGBTの問題は人間の理性と自由意思の目覚めの結果として生じるものである。神が与えた性を生きるか、それを拒んでほかのジェンダーを選ぶかは、その人の自由であって、強いられた宿命ではないことをしっかり押さえておかないと話はややこしくなる。

 

神の創造の御業(みわざ)の継続に参加する人類

神は138億年に及ぶ宇宙の進化の歴史を、常にお一人で孤独に導いてこられた。しかし、神は人類を創造された後、更なる宇宙の歴史を切り開く作業をお一人で行われることをやめ、人格的存在である人類を創造的進化という大事業のパートナーとして招き入れることをお望みになった。

人類は、はじめは神が造られた自然の洞窟に住んだが、やがてそこを出て地面に家を建てることを覚えた。しかし、人は一人でその家を建てたのではない。神はあらかじめ家の材料の木や石などのすべての素材を準備され、人間が望んだ家になる可能性もその中に潜ませ、人がそれをどのように実現するかを人間の自由に委ねられた。掘っ立て小屋から始まって、高層ビルも、リニア新幹線も、宇宙ロケットまで、神は全て人間に主役の座を譲りながらご一緒に創造しておられるのだ。だから、人間が神を除外して一人だけで作ったものは何ひとつない。

人類には、自らの意思で命の源である神の御計画に積極的に参与し協働することによって命の文明を繁栄させることも、神の摂理に逆(さか)らって命の源である神との繋がりを断って死の文明を築き、滅亡の道を辿ることもできる。だから、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言って人類の種の保存と繁栄を強く望まれた神のみ旨を知った人類は、命の文明を防衛し、死の文明を広めようとする勢力と闘って勝利しなければならない。

 

ジェンダーと神

何度も述べたとおり、神は人間を男と女に創られ、その人間に産めよ、増えよ、地に満てよ、と言われた。創造主なる神のこの御意志を背景にして初めて、LGBTの問題を正しく識別することができる。

人間の二つの個体が愛しあった結果、それが生殖につながるのは、男と女のカップルの場合に限られる。自分の本来の性とは異なるジェンダーを選んだ人が自分に好ましいパートナーを求める場合、完全な一体化と生殖が可能なケースは希ではないだろうか。

自然界ではすべての命あるものは本能に従って神の御旨のままに調和的に生きているが、最後に創造された人間には、神の三位一体の生命の秘密である理性と自由意思までも与えられた。それは人間が神の創造の意図を知り、それに自由に参加することができるためだった。しかし、この神の最高の贈り物は、神の望みに反して自分の意志を神の意志より上に置き、自分の欲するままにふるまう可能性も孕んでいた。

人が敢えてLGBTを選んだ場合、自然の性に伴う神の祝福と恵みは得られず、予期せぬ不都合を引き寄せる結果になるのだが、その不都合の中には健康上、衛生上の問題も含まれる。アフリカのような性のモラルが未分化で衛生状態もよくない世界や、その対極にあって文明が爛熟(らんじゅく)し退廃(はい)した世界では、性にまつわる特有の疾病が知られている。梅毒がそうだった。それが医学の進歩である程度抑えられようになると、エイズがそれに置き換わった。今、サル痘がその種のものではないかと言われている。

 

救いの歴史とLGBT

失楽園――悪魔の勝利

旧約聖書の創世記第3章は、人類の「失楽園」の物語である。神は宇宙を創造され、天地万物の進化の頂点にご自分の似姿として人間をお創りになった。男と女にお創りになった。そして、人間がその理性と自由意思を正しく使うかどうかをテストするために、楽園の中心に生えている木の実を食べることを禁じられた。ところが、“嘘の父”である悪魔が蛇の姿で現われ「神様は噓つきだ」「神様はその木の実を人間が食べて神様より偉くなると困るから、禁じられたのだ」という巧妙な大嘘で人間騙(だま)した。

この嘘にはたまらない魅力があった。神の上に立てば、世界を思いのままにできるからだ。そして、人は善悪を知る知識の木の実を食べてしまった。これを原罪と言う。

原罪の不都合な結果として、人は死んで亡びる運命を背負い込み、楽園から追放された。その時、男は額に汗して糧を得、女は産みの苦しみを味わう罰を受け、その罰はわれわれにまで及んでいる。

神の創造の御計画はこうして挫折し、悪魔が勝利を収めた。

 

十字架――悪魔の敗北

しかし、神は、人祖の原罪によって破綻した宇宙創造のご計画を立て直すため、人類の救済に着手された。アダムとエヴァの不従順によって罪と死が人類の歴史に入ったが、第2のアダムであるキリストと第2のエヴァであるマリアの従順によって、死は打ち滅ぼされ、天の門は再び開かれ、キリストの復活によって人類に「復活の命」が取り戻された。

こうして、天地万物の進化の歴史は立て直され、人類が、空の星、浜辺の砂のように増え、宇宙の果てまで拡散することが再び可能になった。

これは悪魔の大敗北だった。

 

LGBTは第二の失楽園――悪魔のリヴェンジ?

人類が増えて繁栄し、宇宙に拡散していくためには、男女が愛しあって結婚し、子供を産み、数においても増加することが必要だ。ところが前述したように、LGBTの人たちのカップルの多くは、愛しあっても生殖と出産を介した人類の繁栄にはつながらない。

合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に産む子供の数。以下「出生率」)が2・1を下回ると、国の人口は減少する。現在日本の出生率は1・4。201ヵ国中184位で、人口が急速に減りつつある。

一方、LGBTのカップルは生殖と種の繁栄には繋がらないから一代で消滅するはずなのに、実際には急速に増加している。それは、正常な組み合わせの男女から生まれた子供たちが、様々な理由で相次いでLGBTとしてカミングアウトするからだ。

特に教育の現場にLGBTの教育者が進出して子供たちを意図的に啓発する場合、新しいLGBT人口の再生産は大幅に加速されることが予測される。日本の場合、出生率が1・4しかないところへ加えて、一人のLGBTが生涯に一人以上のLGBTをリクルートすれば、総人口の減少に対して、LGBTだけが加速度的に増加することになる。このままでは日本人は将来、太平洋の藻屑として消滅する恐れがある。

では、世界人口の今後の推移はどうだろうか。近年、世界の出生率は、1975〜80年に平均3・92だったのが2000〜05年には平均2・65にまで下がり、国連の予測では、2045~50年には2・05になる。つまり、二一世紀の中頃を境に、人類は減少に転じるということだ。今のところ人口減少の主たる要因は避妊と堕胎だが、将来LGBTの増加は新たなファクターとして人口減少に大きく貢献するだろう。

生命の源である神のご計画――産めよ、増えよ、地に満ちて宇宙の果てまで拡散せよ――に協力するように招かれていることを知りながら、神の御旨の上位に人間の意志を置いて人口減少を招く文明は、「命の文明」の対極にある「死の文明」であるが、これこそ悪魔のリヴェンジの試みではないか?

本稿(上篇)で述べたとおり、私は映画「おくりびと」を観て留男の家族の生きづらさに同情し、戸隠神社の参道でめぐり会った若いカップルが期せずして神の豊かな祝福を受けて幸せに生きている姿に学び、さらに、神なしに生きようとしたイタリア人インテリ夫婦が挫折を通して回心に導かれた例を参考にして、人類のこれから進むべき方向性を探るなかで、LGBTと正しく向き合う必要性を強調したいと思う。

 

LGBTの二面性 ——「犠牲者の側面」と「悪魔的な側面」

「犠牲者の側面」

LGBTを選び取る人たちの多くが、こころの底に「生きづらさ」を抱えていることは、ウォルト・ハイヤー氏の「なぜ自分が好きではないのですか」の問いへの答えから見えてくる。そこには、ほとんどの場合、性的・肉体的暴力、精神的暴力などのPTSD(心的外傷後ストレス障害)や、ポルノ依存症、幼児期に受けた洗脳教育などによる性と心の統合の破綻がみられ、かれらはある意味で犠牲者であると言える。

だから、そのような理由でLGBTに引き寄せられた人々は、社会から手厚く護られ、支援の手が差し伸べられなければならない。しかし、彼らが本当に必要としているのは、性転換手術のような誤った対応ではなく、ハイヤー氏のような正しい同伴者との出会いである。

 

「悪魔的な側面」

人間には誰からも指示されたくない、何でも自分で決めたい、という心の傾きがある。人類の歴史の最初の瞬間の原罪の出来事がまさにそれだった。自分の体に刻まれた性を神の意思として素直に承諾したくない、あらためて自分で自由に選び直したい、という誘惑もそこから来ている。

思い返せば、原罪の結果男は額に汗して糧を得、女は産みの苦しみを受けるという不都合な結果を引き寄せてしまった。しかし、人間は深層心理のどこかで、それを受け容れ難いとする反抗心を抱き、男は、労働の重荷から解放されるためには女になればいい、女は、産みの苦しみから逃がれるためには男になればいい、というジェンダーへの誘惑の声を、心の奥底で聞いているのではないか。

〈男性はセックスの快楽を享受しても、妊娠や出産の負担を引き受けないというのは不公平だ。だから、女性もそれらの負担から解放され自由にセックスを楽しむために妊娠中絶、ピルによる避妊とアフターピルによる受精卵抹殺は女性の権利である〉というのが、女性解放運動の主張ではないか。

だからと言って、誕生した嬰児を殺せば法で罰せられるのに、出産前なら殺人ではないと強弁できるだろうか。“受精したばかりの卵子は小さくて目にも見えないほどだから、アフターピルで処分しても気にならない”と言えるのか。神の目から見れば、卵が受精した瞬間から、理性と自由意思を備えた神の似姿である人格と不滅の魂の歴史はすでに始まっているのに……

失楽園のとき以来、人類は常に悪魔の嘘に翻弄されてきた。いまLGBTの新たな手口で人類を欺こうとしている。これに対して教会は警鐘を鳴らし、毅然とした対応をしなければならない。

右に見るように、LGBT問題にはこのように全く性質の異なる二つの面が混在しているから、それぞれに則した次元の異なる対応が必要である。

 

アメリカの先進的な動き

米連邦最高裁は2022年6月24日、アメリカで長年にわたって女性の人工妊娠中絶権は合憲だとしてきた1973年の「ロー対ウェイド判決」を覆す判断を示した。この判決を受けて、アメリカでは女性の中絶権が合衆国憲法で保障されなくなった。並行して、最近では一部の州が独自に中絶を制限もしくは禁止する州法を成立させている。賛成意見を書いたトーマス判事は、中絶権の見直しに加えて、「今後は避妊や同性愛行為の自由、同性婚などの合法性を認めた過去の判例を見直すべきだ」と書き添えた。中絶を妊娠の最も早い時期に実行する手段はアフターピルだが、それは中絶全体の無視できない部分を占めているといわれる。アフターピルの是非もいずれ再検討されなければならないだろう。

この判決により、今後アメリカの各州はそれぞれ独自の州法で中絶を禁止できるようになるが、半数以上の州が、新しく規制を強化したり、禁止したりすることになるとみられている。これを受けて、アーカンソー州やルイジアナ州などでは、中絶手術を提供していたいわゆる「中絶クリニック」が診療を中止し始めた。同じ方向性の中で、性転換手術という生きながらにして人を殺す詐欺行為も法律で禁止されるべきだろう。

要約すれば、LGBTを増やすことによって世界の出生率を下げ、人類を滅亡に導こうとする企(たくら)みは、神の創造と進化の壮大な計画に真っ向からから挑戦するものであり、これは、人類の「失楽園」を演出して神の創造の計画を挫折させいったんは、“大勝利”を収めた悪魔が、キリストの十字架上の死と復活による神の勝利の前に一敗地にまみれたのに懲りず、体制を立て直して再び反撃攻勢に出はじめた徴ではないか。問題の本質は、聖書の神の十戒の「殺すなかれ」に遡(さかのぼ)るのだ。

 

 むすび

「すべての人が当事者」だからこそ

今回取り上げた書籍『LGBTとキリスト教』の冒頭で、日本基督教団出版局編集部は「マイノリティーというと自分は当たらないと思う人が多いかもしれませんが、マイノリティーの要素というものはだれもが持っていて、その意味ではすべての人が当事者だと言えるのではないでしょうか」と問うている。本稿の冒頭で確かに私は「それもある意味で正しいと思う」と言った。

この“誰もが持っているマイノリティーの要素”を正しく理性で認識した上で、それを自由意思で適正にコントロールし、天賦の性の自覚に留まった者をマジョリティーと言い、マイノリティー的要素を自分の嗜好の中で育(はぐく)んでいる中で、いつの間にか自認された性として人格の全体を支配するに任せた者が、LGBTと呼ばれる性的マイノリティーを構成する。『ハリー・ポッター』の作者ローリング女史は、身に受けた性的暴力にも拘らずマジョリティーの側に留まった。ウオルト・ハイヤー氏は48年間の苦闘の末、「性転換悔悟」によって自力で抜け出し、今は救済者の側で働いている。

詳しく調べれば分かることだが、実はLGBTは人格形成の過程で受けた精神的、肉体的外傷の結果、自然が自分に与えた性を嫌悪し、受け入れ難いとして、意識下でそれを拒絶したことに起因する場合が殆(ほとん)どだ。住環境の貧しさからの寝室の共有は、幼い兄に小さい妹への性的悪戯を誘う。あってはならないことだが、父親が自分の娘に手を出したり、教育や課外レッスンの現場で女の先生が生徒の少年を犯したり、幼児の性への好奇心が不自然な方向に助長されたりと、要因はたくさんある。

しかし、誰もが持っているマイノリティー的要素に目をつけ、ことさらに未成熟な子供の意識を呼び覚まし、教育の力でそれを誘導して意図的にLGBT人口を増やそうとする企みは邪悪である。

具体的原因が何であれ、彼らは生きづらさから解放されなければならない。問題の核心に迫り、解決に向かう唯一の正しい方法は、ウオルト・ハイヤー氏の「どうしてあなたは自分を好きになれないのですか」と言う問いかけに始まる道を歩むことである。

 

カミングアウトの難しさ

性的マイノリティーは、カミングアウトすればいろいろな軋轢(あつれき)や不都合が生じるのではないかという恐れの前に躊躇(ためら)う。『LGBTとキリスト教』の一冊に記事を寄せた20人の筆者の中の幾人かも、その難しさを告白している。

しかし、自分の都合で積極的にカミングアウトする者もいる。女風呂に入りたい自己申告のトランス女性や、なりすましの女子大受験生、そして自称女性の筋肉マンアスリートなどはその典型ではないか。たとえば、今年7月、ニューヨーク市の女子大会で13歳と10歳のライバルを破って優勝を果たしたトランスジェンダーのスケートボーダー(29)は、まんまと5000ドルの賞金を手にしたが、彼は離婚した元海軍の3児の父で、昨年のオリンピック女子予選で不合格になった人物だった。

視点を変えれば問題の所在がよりはっきりする。「トランスジェンダーができます」という詐欺療法に騙(だま)されて、美しい乳房を切り取られ、平らになった胸に横一文字の残酷な傷痕を刻まれて「はい、あなたは男に生まれ変わりました」と言われた女性が、裸で男風呂に入れるだろうか。

また、性転換手術を受けた女性が有罪の判決を受けた場合、今さら女性の監獄に入ることは叶わず、だからと言って男たちの監獄に入ればたちまち看守や同房者にレイプされるのは目に見えている。彼女たちにはもうどこにも心休まる場所がなく、自死の誘惑の瀬戸際に立たされる。自分の性自認は女だと主張する囚人が、女子刑務所に入ってレイプ事件を重ねた例と好対照だ。

神が与えた性を転換することはだれにもできない。その意味で、LGBTは虚構の上に築かれた世界だと言えよう。

 

生きづらいのはLGBTだけか

そもそも、生きづらさを感じているのはLGBTだけであるかのように語るのは正しくない。それは、いつの時代にも世界中で難民問題があるのに、特定国で発生する難民だけに注視せよと言うに等しい。生きづらさは、さまざまな形のマイノリティーのすべてに共通する問題なのだ。

歴史を振り返れば、聖パウロが宣教していた時代のパレスチナでは、女性はまだ半ば男の所有物で、完全な人権を認められていなかった。弱者の地位にあった女性は2000年の歴史の中で戦いながら、次第に性の平等を勝ち取ってきた。

その女性たちからすれば、男たちの間では劣後している者が、女としての性自認と体格にものを言わせ、女性たちが歴史の中で勝ち取ってきた権利を踏みにじるのを見れば、LGBTのジェンダー論は、偽装した男性による新手の女性支配、女性搾取の攻撃に他ならないと言われても、反論できないだろう。

出発点を「LGBTとキリスト教」に置いた本書は、キリスト教の神を度外視して性を語ることはできないはずだ。神は人間の男には男の、女には女の臓器と性徴(せいちょう)を与えて、裸の状態に創造した。本能で生きる動物とは異なり、人間だけが自我に目覚め、自分の性を知り、それを自由に生きる道を賜物(たまもの)として戴いた。

睾丸とペニスを持った人間が、自分の性が男であることは神の意思であることを知りながら、「私の選んだ性自認は女だから」と倒錯した主張を展開する時、無意識のうちに神の明らかな意思より上位に自分の意志を置いている。

その状態から抜け出すためには、自分を好きになれなくなった原因と向き合い、それと格闘して克服し、再び自分を好きになれる道を辿る以外に方法がない。

自分の選択に対する責任能力を自覚する以前の、幼く未熟な時期に気まぐれで選んだ性のため生じた「生きづらさ」からの解放を求めて当人がSOSを発信するなら、その時できる限りの支援に乗り出すのは成熟した社会の正しい対応だろう。

しかし、幼児教育の場のみならず、一般教育の場でも行政・市民サービスの場でも、時流に遅れまいとする軽薄な人々の心につけ入り、ジェンダー論というイデオロギーのウイルスによる既成秩序の破壊が世界中で広がっている。これは目に見えない闇の力―悪魔―による“神の創造の意思への挑戦”であると筆者は考える。

悪魔と聞けば、人は荒唐無稽な馬鹿げた話として一蹴するかもしれない。神を信じなければそれは当然だ。しかし、いまLGBTという性的少数者の存在を社会に広めようとする「レインボーフェスタ」が世界中で開催され、「プライドパレード」とも呼ばれる性的少数者のパレードは、欧米をはじめ世界各地で開催されていて、中には参加者数100万人を動員するものまであるといわれる。そして、そのお祭り騒ぎの中では、普段は隠れている悪魔(サタン)がうっかり尻尾を出す場面が見られる。ツイッター上に現われたこれらの写真はその一例に過ぎないが、現状は悪魔の実在を認めるのに十分ではないか。

 

先頭に堂々と陰の主催者が名乗り出た?

 

この異様な姿の男は幼い子供たちに何を吹き込んでいる?

 

キリスト教会は、聖霊に導かれて識別能力を発揮し、神の創造の御計画の側に立ち、キリストの「復活の勝利」に挑んでくる悪魔のリヴェンジを、断固退けなければならない。軽薄にも「差別反対! 全ては平等! 虹色の多様性万歳!」のスローガンの裏に隠された美味(おい)しそうな嘘にうっかり食いついたら、人類は再び「失楽園」の憂き目をみることになる。

神はご自分の命の秘密である理性と自由意思を人間に分け与えられ、人間は神の似姿になった。それは、人類が神の創造の計画を知り、それに能動的に参加・協力し、その完成に貢献するためである。間違っても悪魔に唆されて理性と自由意思を濫用し、傲慢にも神より偉い者になろうとしてはならない。

(おわり)

ついでに次の「正平協」のブログもお読みください。

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