【書評】「LGBTとキリスト教――20人のストーリー』(上)
(監修・平良愛香/日本基督教団出版局・刊)
それが孕(はら)む根本課題が当節、見過ごされがちだから、
〝あらためて考える契機〞として、本書を読んでみた
評者/司祭 谷口幸紀
希少な資料
友人の中で、自分がLGBT(レスビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなど、聖句別条の少数者)であることを私にカミングアウトしてくれた人が一人いる。その人物を仮にT氏と呼ぼう。T氏は、深い信仰を持ち、難病の十字架を背負いつつも、日々明るく生きている。そのすがたに私は好感をもって接しいるが、彼との友情だけからでは、LGBTの全体像は見えてこない。
LGBTという言葉は最近よく聞かれるようになったが、まだその実態と全貌に触れる機会は少ない。特に、キリスト教世界では宗教的偏見もあって一層見えにくいのが実情だから、そこに一石を投じたこの一冊の功績は大きいと言えよう。
また偏見、差別、生活上の不平等などによる生き辛さ、カミングアウトをためらわせる社会的重圧など、日ごろ見えにくいマイノリティーの現実にキリスト教的視点から近づく希少な資料として、心から推薦したいと思う。
さらに、この本は冒頭で、出版元・日本基督教団出版局編集部の声として「マイノリティーというと自分は当たらないと思う人が多いかもしれませんが、マイノリティーの要素というものはだれもが持っていて、その意味ではすべての人が当事者だと言えるのではないでしょうか」と問うている。それもある意味で正しいと思うので後で触れたい。
しかし、問題の根は深く、その領域は広範に及び、全体像を描き出す作業は容易ではない。そもそも、本書に収録された20の証言は、ほとんどが原稿用紙10枚ちょっとの超短編の集合体だから、どの筆者も自分がどのようなタイプの性的マイノリティーであるか、どんな困難を経験したか、どうやってカミングアウトに漕ぎ着けたか、今はどんな人間関係の中でどんな生き甲斐を見出しているかなどを中心に、さらっと表面をなぞるだけで終わっている。さらに、執筆者はプロテスタントの人物がほとんどで、その中にカトリックの「LGBTQ当事者会」元共同代表のレズビアンの女性と、クリスチャンホームに育ったゲイの男性で、現在はHIV陽性者の支援サービスを提供するNPOの代表をしている人物の寄稿もあるが、彼らもまた、あっさりした自己紹介的記述に終始して、問題の深部には踏み込んでいない。
表層的な捉え方では理解できないLGBT
たとえば、お祭りで“お稚ち児(ご)さん行列”が練り歩いたとしよう。まっ白な化粧に紅を差され、綺麗(きれい)に女装した男の子たちは、晴れがましさに大喜び。お母さんたちも美形に仕上がった我が子の姿に自を細め、主催者は祭りに花を添えることが出来て大満足――という光景は津々浦々で見られる。しかしそれは祭りの日だけの出来事で、普段の生活に全く影を落とさない限りにおいて、まことに微笑ましい話である。
また、トランスジェンダーの女性の場合でも、ただ長髪と女装を好み、女ことばを話し、身のこなしが色っぽいだけで、他者を生活に巻き込むこともなく、一人で楽しく生きているだけなら、別に差し障(さわ)りはないし、テレビに露出していても違和感はない。
しかし、一歩踏み込んで、歴史的に「稚児」と呼ばれるものがどのような存在であったか、などをレズビアンの女性や同性愛の男性が、誰かを全身全霊を傾けて真剣に愛そうとする場合、どういう問題にぶつかるかまで深く掘り下げていくと、たちまち深刻な影の部分が見えてくる。
敢えて「影の部分」を掘り下げれば
LGBTでも、その他もろもろの組み合わせの事例でも、性自認の背後には、子供の「お遊び」のように微笑みをもって見過ごすことが許されない重い現実が常に付き纏(まと)っている。
正直な読後感を言えば、本書は、LGBTが抱えている底知れぬ問題に全く触れていない点で物足りない。『LGBTとキリスト教――20人のストーリー』が表題のとおりキリスト教との関連でLGBTを見ようとするのであれば、たまたま当事者がクリスチャンであったと言うだけに終わらせることなく、〈キリスト教が性について何を教えているか〉までを読者に正しく伝えなければ、話は完結を見ない。
そう考えると、この本の書評を書く作業は、いやでも厄介な問題に手をつっこむことになるので、出来れば引き受けたくないな、というのが私の正直な初期反応だった。しかし、この本が触れないで済ませている深部こそ、避けて通ってはいけない重要な課題だということを明らかにするためなら、敢えて火中の栗を拾うのも意味があるかと思い直し、書評を引き受けた。
おくりびと
記憶をたどると、私がLGBTの問題に直接触れたのは、映画「おくりびと」の一シーンを見た瞬間だったように思う。それは、2008年封切の日本映画で、第81アカデミー賞外国語映画賞、第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞した、評判の映画だった。
就職したオーケストラが解散になり、新婚早々に失業したチェリストの小林大吾(大ちゃん)は、ひょんなことからおくりびと(納棺師)になる。初めて任されたのは若い綺麗な女性の遺体だった。
見守る親族の面前で、ご遺体のこの世の疲れと煩悩(ぼんのう)を洗い流すために、水を絞った白い布を手に裸体を上から覆う一枚の着物の下に手を入れ、美しい仕草で丁寧に払拭を進める。その手が『うん?』と言ったまま止まる。社長の耳元に小声で「ついているんですけど」というと、社長は「なにが?」と問い返す。大吾「あれです」、社長「あれって?」、大吾「だから、あれです」。そう言いながら払拭布を社長に渡す。社長は遺体の前に坐り、覆いの下に手を差し入れ、うん、うん、と二度うなずくと、やおら居並ぶ親族の席に行き、小声で「あのう。これからお着付けのあと、お化粧がありまして……」。故人の叔父が聞こえよがしに「留男んの化粧どうするって。男さする? 女さする?」と訊(き)く。母親はいたたまれず、「おいが最初から女に産んどきゃこんなことにならなかったのに、種がのう……」と言って、なじるように父親の顔を見る。素っぴんの留男の遺影を抱いた父親は憮然とするばかり。思いがけず秘密が暴露されてうろたえた母親は、叔父に促されて女化粧に同意する。
美しく仕上がった留男の化粧をみた父親は、「この子がこんなになってから、親子喧嘩が絶えなかったけど、やっぱりおらの子だぁー」と言って号泣する。私はここにLGBT問題の一端を垣(かい)間(ま)見る思いがした。
戸隠神社奥社の参道で
そもそも、LGBTは性的マイノリティーの問題である。その問題を正しく理解するためには、真反対の極にあるもう一つの超マイノリティー、すなわち、自然の性を円満に生き切っている希少価値のような具体例を見るのが助けになるだろう。
私は毎夏、信州・戸隠神社の奥社の森をトレッキングする。10年も前だったか、参道の脇で、薄い敷物の上に端座し、何やら描いて売っている若い女性がいた。近寄ってみると、どうやら似顔絵でも風景画でもなく、絵文字描きのようだった。
人に名前を訊(たず)ねて、それを不思議な崩し字にして描き、その名から湧いたインスピレーションを即興詩に託して余白に書いていく。中国の花絵文字は縁起の良い贈物として人気があるが、彼女のものは、絵というよりは書道を独創的に進化させたような態(てい)で、添えられた即興詩には彼女の暖かいメッセージが込められていた。
戯(たわむ)れに一枚描いてもらった。彼女は一瞬目を閉じて天を仰ぎ、イメージが浮かぶと稲妻のような速さで私の名前をまん中に描き、余白を一編の詩で埋めていった。額(がく)に入れて5000円だったか……
私は今なぜ、こんな話を書くのか? それは、お代を払ったときに彼女がしてくれた話が、ジェンダーの問題に深くつながっていたからだ。
彼女はサラリーマンの夫を深く愛しているが、何しろ子供が6人もいて家計が苦しいから、道端で客を待ち、“名前絵”を売っている。愛する夫との性生活が余りにも幸せで、二人の体が一つに溶け合う一体感の目くるめく恍惚は最高の喜びだと言い切った。一切避妊しない。授かるこどもを全部育てる苦労も豊かに報われている。この二人が平凡な日本人のカップルであることに、私は衝撃を覚えた。
コンドームにもピルにも全く縁のないこの性生活の喜びを、赤の他人の私に何の衒(てら)いもなく吐露してくれた彼女に、深い畏敬の念さえ抱いた。彼らはクリスチャンではない。しかし、彼らは知らずしてキリスト教の創造主なる神が人間に期待した性と生殖のありかたを日々完全に実践する中で、期せずして神が約束した喜びの絶頂感、二つの肉体が融合して完全に一つの体になる恍惚感を享受している。その幸せが、ひしひしと伝わってきた。彼らはまだ若いから7人目、8人目、もしかしたらそれ以上の子宝を、責任と生活上の負担とともに英雄的に受け入れていくのだろう。
日本のカトリック信者の夫婦が、一般の日本人と同じように平均1・4人しか子供を持たないということは、教会の教えに反してピルやコンドームを駆使し、避妊や堕胎に励んでいるということだろうか。信者夫妻が完全な一致を拒み合ってするセックス、避妊用ピルでホルモンのバランスを壊したストレスの中でするセックスに、神が愛しあう戸隠の二人に与えられた最高の至福感が訪れるはずはないから、神が自然な夫婦愛に対する祝福と恵みとして用意された霊肉の至福感を生涯知らずに老いていく哀れな夫婦がいかに多いかを、思わずにはいられない。
パウロ六世の『フマネヴィテ』をはじめとして、歴代の教皇が夫婦の性生活の理想として掲げた生き方を、信者たちが実行できないでいる中で、キリスト教を知らない戸隠の無名の若いカップルの性の営みは、LGBTとはまさに正反対の極に位置するもう一つのスーパーマイノリティーとして、あらためて評価されなければならないだろう。
人間劇場=独り舞台の結末
私は身近に、ある優秀なイタリア人のカップルを知っている。LGBTではないノーマルな男女だ。彼は無神論者で、革命的イデオロギーに染まったビジネスマンであり、パートナーの彼女は女性解放運動の闘士だった。高い教育を受け、社会的成功者として欲しいものは何でも手に入れ性生活も充実していて、人々の羨望(せんぼう)を浴びるような幸せ者たちだった。
その彼らがある日、そろそろ子どもを作ろうと思い立った。ところが、どんなに精出して頑張っても、子宝に恵まれなかった。彼らは人生で初めて、欲しても自分の力で手に入らないものがこの世にあることに気がついた。自分たちが全能ではないこと、自分たちは神ではないことを思い知り、初めて決定的挫折を味わった。
教会の門を叩き、信仰の道に入り、教会の勧めに従って3人の養子を迎えた。そして今度は、その子供たちに金を注ぎ込み、高い教育をほどこし、自分たちと同じ価値観を持った上流社会のエリートに育て上げようと努力した。ところが、貧しい国から迎えた養子たちは、成長するにつれて養父母の期待をことごとく裏切り、親の価値観には全く興味を示さず――そもそもその素養も能力もなかったのだが――、ただひたすら自分のルーツ探しに狂奔した。親子関係は噛み合わず、怒りと失望の日々が続いた。そして、養子といえども、自分の所有物のように思い通りにできないことを悟るのに、多くの時間とエネルギーを費さなければならなかった。
やがて子供たちは結婚し、家を出ていった。残された彼らはいま謙虚な老夫婦として静かに信仰に生きている。そして、夫は目の持病が進行して、暗くなると妻の肩に手を置いておぼつかなげに歩いている。今は、友人Tのように、心の目で神を見ているのだろうか。
なぜこのカップルの話を出したのか。それは、神を度外視して人間の思いのままにすべてを自由に支配しようとしても、その尊大な意思は必ず挫(くじ)かれること、自然に反し(つまりは神のみ旨に反し)人間の欲望に任せて社会と世界を秩序付けようとしても、決してうまくいかないこと、生と繁栄に秩序づけられている世界を、人間が思いのままに改変しようとすれば、死と滅亡を招き寄せることになることを、例示したかったからだ。
LGBTの権利主張が生む不都合な事実
『ハリーポッター』作者の発言と風当たり
「LGBTは社会の複雑化と共に人類が新たに獲得した自由の発露である」として称揚し、「彼らの権利を擁護するのは進歩的な人間の責務だ」と考えるのはいいが、その延長線上にあるLGBTの数と勢力を拡大しようとする“霊的な意志”と策動には、注意すべき問題が隠されていることを正しく理解しなければならない。
ファンタジー小説『ハリーポッター』シリーズで知られている英作家、J・K・ローリング女史(56)は、〈ホルモン療法や性別適合手術を受けていないトランスジェンダーの女性たちに女性専用スペースの使用を認めること〉に反対した。
スコットランドで提案されている「性別確認証明書」の法改正は、トランスジェンダーの人たちが医学や精神医学に基づく判断ではなく、本人自身の申告だけにより性別の変更を認める。
ローリング女史は、「自分が女性だと信じている、またはそう思っている全ての男性に対して(女性用の)バスルームや更衣室のドアを開くことは、中に入りたいと思うあらゆる男性に対して、そのドアを開くことになります。至ってシンプルな事実です」と語っている。
この一連の批判は、彼女が20代の頃に受けたひどい性的暴力の記憶を呼び起こし、今は、それらを頭の中から追い出すことができなくなっているそうだ。そして同時に、政府が女性と少女たちの安全に対して無責任な行動を取ろうとしていることに怒りと失望を抑えきれない気持ちになっているという。
だが、こうした彼女のツイートは大炎上を引き起こし、現在彼女はひどいバッシングを浴びている。
「ロンドン発AFP時事電」によると、ローリング女史は、多数の殺害予告を受け取っていることを明らかにした。それは互いに無関係な個人たちの発言がたまたま集中したのだろうと軽く考えることもできるが、現実はそんな生易しいものではない。背後には必ずと言っていいほど、強烈な意思を持った“闇の巨大な霊的力”が存在していることが予感される。羊の毛皮をかぶった狼のような“意志”の存在だ。密かに着々と進めていた陰謀が表沙汰になり水を差されたことに逆上し、殺害予告という凶暴な挙に出たのだろう。プーチンが核の脅迫で相手を怯(ひる)るせようとするのと同じ手口である。もちろん、ここで言う“霊的な力”とは、人間世界に存在する特定の組織・団体を意味するものではない。そのことについては次号の本稿後半で詳しく述べることにする。
まだある〈不都合なケース〉
XY型の男性染色体を持ち、陰茎や睾丸などの性器を持つ人間が、成人して、突然「私の性自認は女性だ」と自己申告するだけで、社会も行政もその人を女性として扱わなければならないという規則・法律が生まれた結果、何が起こったか。
自分の性自認は女だと主張する人が「私も女子トイレで用を足す権利がある」と言ってスカートの下に一物をぶら下げて女子トイレをうろうろしたら、また、スポーツクラブの更衣室やシャワー室、日本なら温泉の女風呂に入るのを妨げるのは人権侵害であると言って素っ裸で闖入(ちんにゅう)してきたら、女性たちはどう身を護ればいいのか。現代社会はそのようなLGBTの要求を前にして全く無力で、差別だ、迫害だと言って叩かれるのを恐れて、要求されるままに譲歩を重ね、その結果、実際にそういう人物の出入りを許した施設で、レイプ事件が頻発している現実をどう考えるべきか。
ゲイのカップルが子供を欲する場合は、生殖に適した肉体的整合性がないから、どうしてもどちらかの精子を使って代理母の胎を借りることになる。しかしその場合、代理母は、人格の尊厳を蹂躙(じゅうりん)され性を搾取されたことにはならないだろうか。
もっとひどい話は、同性愛男性のカップルの一方の精子ともう一方の妹の卵子を体外受精し、その受精卵を精子提供者の母親の子宮に入れて出産させた事例だ。自分の子どもは同じ母から生まれた自分の兄弟という実にややこしい話になる。
金で買った女性の胎に精子を入れて自分たちの子供を生ませておいて、代理出産で手に入れた男児に性的虐待をほしいままにしたあげく捕まったゲイカップルがいるというが、おぞましい限りだ。
このように、LGBTの権利主張に対して、平等やマイノリティー保護の観点から社会がどこまでも譲歩を重ねていくと、その結果としていろいろな不都合が派生してくる。
まだある。アルゼンチンで、有罪の判決を受けた男が「わたしの自認する性は女だ」と主張して、女性の監獄に収監されることを要求し、そこで5件のレイプ事件を起こしたことが知られている。
さらに、スポーツ界の例。「私の性自認は女性だから女子の競技に出る権利がある」と主張した申告が簡単に認められ、男性アスリートの間では100位以下にランクされていた男が、体力的優位にものを言わせて女性の競技で優勝しメダルをさらっていった。バレーボールでも何でも女性チームが競争に勝つために女性を自認する男性をスカウトするなら、女性のプレイヤーが排除され駆逐されることにならないだろうか。また、相手がその手でチームを強化するなら、筋骨隆々としたトランスジェンダーの“女子プレイヤー”ばかりのチームが金メダルを独占する日がくるのは目に見えている。男性社会では劣後した人物が、姿を変えて女性社会で優位に立とうする意図が見え隠れするではないか。
ローリング女史は譲歩して「ホルモン療法や性別適合手術を受けていないトランスジェンダーの女性たち」と限定したが、いくらホルモンで胸を膨らませ、性的適合手術で睾丸や男根を切除しても、外見を不器用に女性に似せるだけで、いざという時には相手の男根を受け容れることはできない。また、女性の体に臓器移植で男根や睾丸を縫い付けても、肝心の時に勃起し射精できなければ何の役にも立たない。まして、男の体に卵巣や子宮を移植するなどということは、どんなに外科技術が進歩しても永遠に不可能だろう。行きつくところDNAのミクロの世界に遡って、約37兆個のすべての細胞の染色体をXYからXXに置き換えるところにまで行きつくが、そのような企ては神の領域を犯す傲慢な涜神行為と言うほかはない。
“闇の力”の攻勢に対する防衛の試み
ここで、あらためて再度、「“闇の力”の攻勢」に言及しておきたい。この言葉の意味するところは、ローリング女史に殺害予告を送り付けるような“闇の力”による攻撃のことだ。もちろん“闇の力”と言っても特定の組織・集団を意味するものではないことは前述のとおり。
その“攻撃”のなかでも絶対に許されてはならないのは、そのような“力”が、子供の性教育の現場で、幼い子供に「あなたたちは男の子でも女の子でも、どちらでも好きなほうになれるんですよ」と優しく誘導して、「性自認」の即答を迫り、〈問題の本質をよく理解できていない子供が咄嗟(とっさ)に思いつきで口にした答えを根拠に、その子の「自認した性」に沿って、親の意見も聞かず、性教育・情操教教育の名のもとに、意図的に特定ジェンダーの方に誘導し固定化しようとする試み〉だ。
これは決して杞憂ではない。ジェンダー先進国ではすでにその攻撃が組織的に進行している。やがて日本にも必ず上陸してくるだろう。
このような動きに対抗して、アメリカ南部フロリダ州では、2022年3月28日に、小学校の授業で性的指向や性自認に関する話題を取り上げることを規制する法律が成立した。
この州法は、幼稚園から小学校3年までの授業で、性的嗜好や性自認に関して教えることを禁止し、小学4年以上の授業でも、「年相応で子供の発達上適切な方法」で教えるよう規定し、親が「学校での教育内容が州法に抵触する」と判断した場合は、学校を相手取って訴訟を起こし損害賠償を求めることができる、としている。デサンティス州知事も「ほかの地域では、性自認について『なりたいものになれる』と教えようとしているが、幼い子どもには不適切だ」とコメントした。
LGBTの性の深淵
マジョリティーの性を生きる人は、ごく自然に生涯を共にする配偶者を求め、結婚して子供に恵まれ、家庭を築いていく。
マイノリティーのLGBTの人たちも同様に、一人のパートナーと愛しあい結ばれあって一体となり、子供に恵まれて家庭を築くことを本能的に欲しないだろうか。
前述した『おくりびと』の中の留男の場合は若くして死んだから、良きパートナーと結ばれることのないまま人生を終わってしまった。
私の友のF氏は、与えられた十字架の難病もあって、ひたすら神を恋い慕っているので、恋愛や結婚には目が向いていないかもしれない。しかし、多くのLGBTの人は、きっといつかこの避けては通れない問題と向き合うことになるのではないか。
ノーマルとされる性が自然に求める配偶者は、肉体的にも性自認においても自然の摂理に適合しているから、円満かつ完全に心身の結合を成就することができる。戸隠神社の奥社で知り合った彼女はこの夫婦愛が生殖につながることを承知の上で、それを自由に承諾した。
しかし、先述の“お祭りの話”に出たお稚児さんは、ひと昔前まではやんごとなきお方様・武将・僧職などの性的嗜好の対象として選ばれた美形の少年として実在したのである。
寵愛される美少年は、往々にして主人の性的満足に奉仕する従者、ありていに言えば奴隷であり、愉悦の極限で両者の心身が溶け合って一つの体のごとくに結ばれる理想からはほど遠く、一人の人間のあくなき性的満足追及の蔭で、苦痛と屈辱感に押しつぶされる犠牲者となっていたものと思われる。
ローマ五賢帝の一人に数えられるハドリアヌス帝とその最愛の寵児アンティノウスの男色関係は、当時から半ば公然のものだったが、その光景はエドゥアール=アンリ・アヴリルの作品「エジプトのハドリアヌスとアンティノウス」にリアルに描かれていて有名だ。神社のお稚児さんや、美少年の喝食(かつじき)(禅寺のお稚児さん)も、カトリックボストン司教区のペドフィリア(小児寵愛)も、行き着くところ、その内実はこの絵と変わるところがない。
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