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日本カトリック正義と平和協議会の「声明文」
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去る2023年2月13日に日本のカトリック司教協議会の公式委員会である「日本カトリック正義と平和協議会」は「LGBTQ+」に関連して「声明文」を発表しました。
その題は「『福音と社会』に掲載された《LGBTとキリスト教―20人のストーリーを読んで》について」です。
「福音と社会」の編集長の依頼で上記の「書評」を書いたのは私ですが、自分では正平協からお叱りを頂くようなことを書いた覚えは全くないので奇異な感じを受けました。
上の声明文にサインしているのはれっきとした日本の司教様たち、すなわち
日本正義と平和協議会の会長ウエイン・フランシス・バーント沖縄司教(69歳)、日本に来て42年のカプチン会士。来日直後2年間日本語を学んでいる。アメリカ人。
と、日本正義と平和協議会担当司教エドガル・ガクタン仙台司教(59歳)日本に来て33年の淳心会士。日本語を何年学ばれたかは不明。フィリッピン人。
バーント司教 ガクタン司教
戦時中の外国人の司教様方が軍部の圧力でみな降ろされて以来、戦後一貫して日本の司教は日本人という長年の慣例を破って、日本の司教団に新風を吹き込むために最近バチカンが相次いで行った人事で日本の司教になった人たちです。
お二人に私は個人的に面識はないが、写真にもバチカンが目を止めた人柄があらわれており、ひとづての評判も良く、エッ?この人たちがこんな声明を出すだろうか、と我とわが目を疑うような内容の声明文でした。
「声明文」の全文はこのブログの最後に引用しますが、興味深いのはその「声明文」発表の4日後に<付記 20232.17>として、「正義と平和協議会は、当該書評に対する批判文書とは言え、当事者にとって酷いともいえる表現そのものを繰り返すことの当事者への加害性を避けるために、敢えて具体的な指摘をせず、私たちの立場のみを示すにとどめます」と付け加えている事実です。この<付記>は二人が「声明文」にサインしたときにはなかったもので、その後誰かが、というよりも、そもそも声明文を作文した人が(それは文体からいって絶対に外国人の司教のものではない)が、付け加えたものと思われます。
素直に読むと、まずこの声明文は「当該書評に対する批判文書」であることが明言されています。さらに、当該書評には「当事者にとって酷いともいえる表現」が記載されていると指摘しています。しかし、その書評のどの個所のどの表現がその「酷い表現」に該当すると判断したかを明確に指摘することは敢えてしないと言っています。素直にこの声明文を読む人は、まずその書評には読むに堪えない、あえて紹介するのもはばかれる「酷い表現」があったのだな、という印象を植え付けられるでしょう。つまり、この声明文で「あの書評には酷い表現」が使われているから「批判声明を出す」ということ自体が、二次的に当事者を傷つけることになるから具体的指摘はしない。しかし、「正平協は当該書評を批判します」、と言っています。
これは、声明文の読者に「天下の正平協が厳しく批判するのだから、その書評はきっと酷く悪いものに違いない」という先入観を植え付ける強力な情報操作の役割を果たすことになります。しかし、書評の筆者からすれば、その巧妙な意識操作に対抗する手段は、その「書評」が司教協議会の公文書番号のついた正式声明文で糾弾しなければならないほどひどくカトリック教会の正統信仰に反する悪いものであるのか、それとも、実は非常に健全なカトリックの正当信仰を反映した善いものであるかは、一人一人の読者に良識をもって予断と偏見なしに直接に全文を読んでもらう以外に方法はありません。
ところで、同じ<付記 20232.17>には、続きがあります。
次の「正義と平和協議会は、声明文が分かりにくくて多くの人に読まれなくても、私たちの立場が当該書評で傷ついた当事者の方々に届くことを望んでおります。」という文章から何がうかがい知られるでしょうか。
先ず、正平協は同声明文がわざとわかりにくく書かれていることを認めています。それは、書評のどの個所のどの表現が「酷い」ものであるかを指摘せず、それを隠して分からなくしていることを告白しています。実は、そういう表現が実際にはないのに、まるであるかのように読者の心証を誘導している操作を隠すためであるからかもしれません。
もし、公平な読者が書評の全文を読んで、その中に性的マイノリティの人たちを差別し傷つけるような「酷い」具体的表現を見つけられなかったとしたら、正平協の声明文は虚偽の内容を含むものであり、「福音と社会」誌に掲載された「書評」に対する正平協の非難は不当であること、そして、書評が悪しきものであるかのごとき印象を操作を行い、不当なレッテルを執筆者に貼り、読者を遠ざけようとする歪んだ意図のもとに出されたものであることが明らかになります。
極め付きは、同じ<付記 20232.17>の最後に、「私たちの声明文を機会に、書評が広く何度も読まれることになる必要はないと考えております。」と結んでいることです。
正平協は明らかに問題の書評が広く何度も読まれることを望んでいません。望んでいないどころか、広く何度も読まれることによって、「声明文」の不当性が客観的に明らかになることを恐れているかのようです。
私はこの声明文に後から付け加えられた<付記>に基づく推論から、一つの疑惑を抱いています。それは、この声明文の成立過程に関するものです。
声明文に署名しているのは正平協会長ウエイン・バーント司教のように、大人になってから日本に来て、初めてたった2年ばかり日本語を勉強しただけで、私の長い「書評」を日本語の原文でニュアンスの機微にわたって読みこなせるとはどうしても思えません。それは、ガクタン司教についても言えます。まして、下のわざとわかりにくく言いまわされた声明文を自分で草案できるとはとても思えません。
私だって、中学から英語を習い始めて、受験英語を身につけ、25歳の時の海外旅行で会話を磨き、リーマンブラザーズでは英語で仕事をし、ローマのグレゴリアーナ大学ではほとんどすべての試験をイタリア語ではなく英語で受け、長い修士論文を英語で書いた人間でも、LGBTに関する専門の論文を英語で読みこなすには苦労をします。ドイツの銀行ではドイツ語を話して仕事をし、ローマではイタリア語で即興の説教をしていても、ドイツ語の新聞、イタリア語の新聞は読みこなせません。日本にいる外国人の宣教師で、聖書がフリガナなしで完全に読める人は少なく、まして、専門的な論文が読めるほどの日本語力を身につけた人はほとんどいません。上の両名の司教様方が、やすやすと私の書評を読み、問題点があればそれを抽出し、それに基づいて自分で声明文を作文するなんてほとんど無理です。誰かに言われて、誰かが書いた声明文の背景も文章のニュアンスもわからぬまま、めくらサインをさせられたのではないかという疑念を払拭できません。
では、問題の「声明文」をお読みください。
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カトリック正義と平和協議会
【声明文】『福音と社会』に掲載された「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」について(2023.2.13))
投稿日 : 2023年2月13日 最終更新日時 : 2023年2月17日 カテゴリー : 会長名声明文
公文書番号 Prot.no.SC-JP23-01
日本カトリック正義と平和協議会は、『福音と社会』No.323,324,325掲載の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」には、看過し得ない偏見、差別的表現が随所に認められ、『LGBTとキリスト教 20人のストーリー』(日本キリスト教団出版局、2022年3月)に寄稿、あるいは対談に応じられたLGBTQ+(セクシュアルマイノリティー)当事者20人の方々を著しく傷つけるものであったと考えます。
また、20人の方々はキリスト者であり、そのうちの多くが、キリスト教会のLGBTQ+に対する無理解と差別によって、教会から排除された経験を語っています。カトリック司祭によって執筆された本書評は、そうした経験にさらに追い討ちをかけるものであり、深刻な二重加害にあたると考えます。
この記事の掲載を決定した『福音と社会』編集部には、この20人の方たちの訴えに真摯に耳を傾け、またその背後にあって、差別によって今なお見えにくくされている数多くのLGBTQ+当事者の方々に想いを寄せ、責任ある行動に向かってくださいますよう、お願いいたします。
日本カトリック司教団は、『いのちへのまなざし【増補新版】』(カトリック中央協議会、2017年3月)において、「イエスはどんな人をも排除しませんでした。教会もこのイエスの姿勢に倣って歩もうとしています。性的指向のいかんにかかわらず、すべての人の尊厳が大切にされ、敬意をもって受け入れられるよう望みます。同性愛やバイセクシャル、トランスジェンダーの人たちに対して、教会はこれまで厳しい目を向けてきました。しかし今では、そうした人たちも、尊敬と思いやりをもって迎えられるべきであり、差別や暴力を受けることのないよう細心の注意を払っていくべきだと考えます」(27)と述べています。
カトリック教会のメンバーである私たちもまた、LGBTQ+の方々に教会の扉を閉ざし、差別し、ときには自死に至るまでに尊厳を傷つけてきたことに気づき、「すべての人はひとしく神の子である」というイエスのメッセージを、この地上に実現するための回心の恵みを、主なる神に願います。
日本カトリック正義と平和協議会
会長 ウェイン・バーント
担当司教 エドガル・ガクタン
協議会一同
<付記 2023.2.17 >
正義と平和協議会では、当該書評に対する批判文書とはいえ、当事者にとって酷ともいえる表現そのものを繰り返すことの当事者への加害性を避けるために、あえて具体的な指摘をせず、私たちの立場のみを示すにとどめました。
正義と平和協議会は、声明文がわかりにくくて多くの人に読まれなくても、私たちの立場が当該書評で傷ついた当事者の方々に届くことを望んでおります。
私たちの声明文を機会に、書評が広く何度も読まれることになる必要はないと考えております。
明日には「福音と社会」に掲載された私の「書評」を一括してブログに上げます。
一人でも多くの人に、私のメッセージが読まれることを願っています。ツイッターで、フェイスブックで、その他の媒体で日本中に拡散してください。
きっと多くの心ある成熟した信仰をもった人々の共感を呼ぶだろうと確信しています。
私は中・高生のころ、どの映画を見るべきかを計る基準に「カトリック生活」という雑誌の映画評を使いました。そこには、(今はありませんが)「家族向けの良い映画」「大人向きの映画」「悪い映画」「見てはいけない映画」みたいな具合に上映中の映画を区分けしていました。
多くの若い信者たちは、なるほど、見るに値するのは「見てはいけない」「悪い」カテゴリーのものだと見当をつけて、そればっかり見に行ったものです。
その意味では、この度の正平協の「声明文」は私の「書評」が読むに値するもの、読むべきものとのお墨付きを与えてくれたようなものです。ただでPRしてくださったことに、感謝すべきかもしれません。
<付記>
このブログには立派な<付記>を加えたい
このブログをアップした翌日、友達からメールがあった。お-い!「正平協」の公式声明から <付記 2023.2.17> がきれいさっぱり削除されているぞー!調べてみると、なるほど、忽然と<付記 2023.2.17>が消えていた。さては私のブログを見てやったな、と思った。
しかし、これは権威ある「日本カトリック正義と協議会」という司教団の正式委員会ではないか。麗々しく「公文書番号」を付して世に発表した権威にある文書ではないか。いったん書かれた文書の一部が、一編のブログに左右されてあっさりと改竄されていいものだろうか。安倍政権下の「森友」文書の改竄問題を彷彿とさせるものがある。すでに改竄前の全文の写しがしっかり手元に残っているというのに。