:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

岸田総理、あなたは大丈夫ですか? 私もLGBTQ+論争に巻き込まれてしまいました。

2023-02-16 00:37:12 | ★ LGBTQ+

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岸田総理、あなたは大丈夫ですか?

私もLGBTQ+論争に巻き込まれてしまいました。

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 岸田総理がLGBTQ問題に巻き込まれてお気の毒に思っています。ご同情もうしあげます。しつこく付き纏われることになるかもしれません。これは実に根の深い問題です。賢明に対処されることを期待しています。

 不肖、私もあらぬことからこの問題で悩まされています。たまたまこの時期に起こったので、同情をこめて総理のお名前を出させていただきました。以下に展開されるものは、もちろん総理と何の関係もありません。

 さて、最近私は「福音と社会」というカトリックの真面目なオピニオン誌の依頼を受けて、「LGBTとキリスト教」という新刊書の書評を書きました。

 すると、LGBT推進派のあるグループからネット上で大変な攻撃を受けました。私は最低限の弁明のために反論を投稿しようと思ったのですが、そのサイトはどうやら「対話」や「反論」、「弁明」や「投稿」を一切受け付けない一方通行のページのようで、私は根も葉もないことを「言われっ放し」の状態に置かれていることを理解しました。

 このままでは、そのサイトの読者は、私が本当は何を書いたのか、何を言いたかったのかを知る手立てのないまま、一方的に私個人への偏見と反感だけを吹き込まれるという不公正な状況の中に取り残されます。

 それで、私はこの際、自分のブログを使って、私が一体どんなことを言われているか、そして、私は実際には何を書いたのか、どちらがまともなはなしか、を公平な読者に判断してもらうべきだと考えました。

 ブログですから長文は禁物です。少しずつ区切って、丁寧に連載したいと思います。もちろん今まで通りほかの話題についても書きます。だから長い道のりになりますが、最後には私が書いたことの全貌が見えるように工夫したいと思います。

さて、第1回目は次の通りです。

私について書かれたこと:

 「福音と社会」誌(323-325号)に谷口幸紀神父による書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」が発表された。

 それは「書評と題されている;だが、そこに述べられているのは、当該の本の内容に関する批評は全くなく、しかして、sexuality とgender に関する保守的カトリックの紋切り型の考え―つまり、homosexualityとtransgenderに関する無理解と偏見と侮辱と差別、および、生殖に関する原理主義的なnatalism(避妊と人為的妊娠中絶を絶対に許さない主張)―にすぎない。

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 とあります。これを読んだ人はどう思うでしょうか。谷口という神父は救いがたい偏見に凝り固まったひどい神父だ。カトリックの神父とはもともとそういうものだ、という印象をうけないでしょうか。

 そこで、私が実際に書いたことを 冒頭からそのまま引用します。

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 希少な資料

 LGBTという言葉は最近よく聞かれるようになったが、まだその実態と全貌に触れる機会は少ない。特に、キリスト教世界では宗教的偏見もあって一層見えにくいのが実情だから、そこに一石を投じたこの一冊の功績は大きいと言えよう。また偏見、差別、生活上の不平等などによる生き辛さ、カミングアウトをためらわせる社会的重圧など、日ごろ見えにくいマイノリティーの現実にキリスト教的視点から近づく希少な資料として、心から推薦したいと思う。

 さらに、この本は冒頭で、出版元・日本基督教団出版局編集部の声として「マイノリティーというと自分は当たらないと思う人が多いかもしれませんが、マイノリティーの要素というものはだれもが持っていて、その意味ではすべての人が当事者だと言えるのではないでしょうかと問うている。それもある意味で正しいと思うので、後で触れたいと思う。

 しかし、問題の根は深く、その領域は広範に及び、全体像を描き出す作業は容易ではない。そもそも、本書に収録された20の証言は、ほとんどが原稿用紙10枚ちょっとの超短編の集合体だから、どの筆者も自分がどのようなタイプの性的マイノリティーであるか、どんな困難を経験したか、どうやってカミングアウトに漕ぎ着けたか、今はどんな人間関係の中でどんな生き甲斐を見出しているかなどを中心に、さらっと表面をなぞるだけで終わっている。

 また、執筆者はプロテスタントの人物がほとんどで、その中にカトリックの「LGBTQ当事者会」元共同代表のレズビアンの女性と、クリスチャンホームに育ったゲイの男性で現在はHIV陽性者の支援サービスを提供するNPOの代表をしている人物の寄稿もあるが、彼らもまた、あっさりした自己紹介的記述に終始して、問題の深部には踏み込んでいない。

 表層的な捉え方では理解できないLGBT

 たとえば、お祭りで“お稚児(ちご)さん行列”が練り歩いたとしよう。まっ白な化粧に紅を差され、綺麗(きれい)に女装した男の子たちは、晴れがましさに大喜び。お母さんたちも美形に仕上がった我が子の姿に自を細め、主催者は祭りに花を添えることが出来て大満足――という光景は津々浦々で見られる。しかし、それは祭りの日だけの出来事で、普段の生活に全く影を落とさない限りにおいて、まことに微笑ましい話である。

また、トランスジェンダーの女性の場合でも、ただ長髪と女装を好み、女ことばを話し、身のこなしがどこか色っぽいだけで、他者を生活に巻き込むこともなく、一人で楽しく生きているだけなら、別に差し障(さわ)りはないし、テレビに露出していてもどうということもない。

 しかし、一歩踏み込んで、歴史的に「稚児」と呼ばれるものがどのような存在であったか、レズビアンの女性や同性愛の男性が誰かを全身全霊を傾けて真剣に愛そうとする場合、どういう問題にぶつかるかまで深く掘り下げていくと、たちまち深刻な影の部分が見えてくる。

 敢えて「陰の部分」を掘り下げれば

 LGBTでも、その他もろもろの組み合わせの事例でも、性自認の背後には、子供の「お遊び」のように微笑みをもって見過ごすことが許されない重い現実が常に付き纏(まと)っている。

 本書は、LGBTが抱えている底知れぬ問題に全く触れていない点で物足りない。さらに、『LGBTとキリスト教――20人のストーリー』が表題のとおりキリスト教との関連でLGBTを見ようとするのであれば、たまたま当事者がクリスチャンであったと言うだけに終わらせることなく、〈キリスト教が性について何を教えているか〉までを読者に正しく伝えなければ、話は完結を見ない。

 そう考えると、この本の書評を書く作業は、いやでも厄介な問題に手をつっこむことになるので、出来れば引き受けたくないなというのが私の正直な初期反応だった。しかし、この本が触れないで済ませている深部こそ、避けて通ってはいけない重要な課題だということを明らかにするためなら、敢えて火中の栗を拾うのも意味があるかと思い直し、書評を引き受けた。

 おくりびと

 記憶をたどると、私がLGBTの問題に直接触れたのは、映画「おくりびと」の一シーンを見た瞬間だったように思う。それは、2008年封切の日本映画で、第81回アカデミー賞外国語映画賞、第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞した、評判の映画だった。

 就職したオーケストラが解散になり、新婚早々に失業したチェリストの小林大吾(大ちゃん)は、ひょんなことからおくりびと(納棺師)になる。初めて任されたのは若い綺麗な女性の遺体だった。

 見守る親族の面前で、ご遺体のこの世の疲れと煩悩(ぼんのう)を洗い流すために、水を絞った白い布を手に裸体を上から覆う一枚の着物の下に手を入れ、美しい仕草で丁寧に払拭を進める。その手が『うん?』と言ったまま止まる。社長の耳元に小声で「ついているんですけど」というと、社長は「なにが?」と問い返す。大吾「あれです」、社長「あれって?」、大吾「だから、あれです」。そう言いながら払拭布を社長に渡す。社長は遺体の前に坐り、覆いの下に手を差し入れ、うん、うん、と二度うなずくと、やおら居並ぶ親族の席に行き、小声で「あのう。これからお着付けのあと、お化粧がありまして……」。故人の叔父が聞こえよがしに「留男さんの化粧どうするって。男さする? 女さする?」と訊く。母親はいたたまれず、「おいが最初から女に産んどきゃこんなことにならなかったのに、種がのう……」と言って、なじるように父親の顔を見る。素っぴんの留男の遺影を抱いた父親は憮然とするばかり。思いがけず秘密が暴露されてうろたえた母親は、叔父に促されて女化粧に同意する。美しく仕上がった留男の化粧をみた父親は、「この子がこんなになってから、親子喧嘩が絶えなかったけど、やっぱりおらの子だぁー」と言って号泣する。私はここにLGBT問題の一端を垣間(かいま)見る思いがした。

 戸隠神社奥社の参道で

 そもそも、LGBTは性的マイノリティーの問題である。その問題を正しく理解するためには、真反対の極にあるもう一つの超マイノリティー、すなわち、自然の性を円満に生き切っている希少価値のような具体例を見るのが助けになるだろう。

 私は毎夏、信州の戸隠神社の奥社の森をトレッキングする。10年も前だったか、参道の脇で、薄い敷物の上に端座し、何やら描いて売っている若い女性がいた。近寄ってみると、どうやら似顔絵でも風景画でもなく、絵文字描きのようだった。

 人に名前を訊(たず)ねて、それを不思議な崩し字にして描き、その名から湧いたインスピレーションを即興詩に託して余白に書いていく。中国の花絵文字は縁起の良い贈物として人気があるが、彼女のものは、絵というよりは書道を独創的に進化させたような態(てい)で、添えられた即興詩には彼女の暖かいメッセージが込められていた。

 戯れに一枚描いてもらった。彼女は一瞬目を閉じて天を仰ぎ、イメージが浮かぶと稲妻のような速さで私の名前をまん中に描き、余白を一編の詩で埋めていった。額(がく)に入れて5000円だったか……

 私は今なぜ、こんな話を書くのか? それは、お代を払ったときに彼女がしてくれた話がジェンダーの問題に深くつながっていたからだ。

 彼女はサラリーマンの夫を深く愛しているが、何しろ子供が6人もいて家計が苦しいから、道端で客を待ち、“名前絵”を売っている。愛する夫との性生活が余りにも幸せで、二人の体が一つに溶け合う一体感の目くるめく恍惚は最高の喜びだと言い切った。一切避妊しない。授かるこどもを全部育てる苦労も豊かに報われている。この二人が平凡な日本人のカップルであることに、私は衝撃を覚えた。

 コンドームにもピルにも全く縁のないこの性生活の喜びを、赤の他人の私に何の衒(てら)いもなく吐露してくれた彼女に、深い畏敬の念さえ抱いた。彼らはクリスチャンではない。しかし、彼らは知らずしてキリスト教の創造主なる神が人間に期待した性と生殖のありかたを日々完全に実践する中で、期せずして神がそのようなものにだけとっておいた秘められた喜びの絶頂感、二つの肉体が融合して完全に一つの体になる愛の恍惚感を豊かに享受している。その幸せが、ひしひしと私に迫ってきた。彼らはまだ若いから7人目、8人目、もしかしたらそれ以上の子宝を、責任と生活的負担とともに英雄的に受け入れていくのだろう。

 日本のカトリック信者の夫婦が、一般の日本人と同じように平均1・4人しか子供を持たないということは、教会の教えに反してピルやコンドームを駆使し、せっせと避妊や堕胎に励んでいるということだろうか。どんなに薄いゴムの膜であっても、二人の体の決定的な部位において完全な一致を拒み合ってするセックス、避妊用ピルでホルモンのバランスを壊した最悪のストレスの中でするセックスには、神が愛しあう戸隠の二人に与えられた最高の至福感が訪れるはずはない。神が自然な夫婦愛に対する祝福と恵みとして用意された霊肉の至福感を生涯知らずに老いていく哀れな夫婦がいかに多いかを、思わずにはいられない。

 パウロ六世の『フマネヴィテ』を始めとして、歴代の教皇が夫婦の性生活の理想として掲げた生き方を、教会の末端が組織ぐるみで封印し、信者たちも実行できないでいる中で、キリスト教を知らない戸隠の無名の若いカップルの性の営みは、LGBTとはまさに正反対の極に位置するもう一つのスーパーマイノリティーとして、あらためて評価されなければならないだろう。

 人間劇場=独り舞台の結末

 私は身近に、ある優秀なイタリア人のカップルを知っている。LGBTではないノーマルな男女だ。彼は無神論者で、革命的イデオロギーに染まったビジネスマンであり、パートナーの彼女は女性解放運動の闘士だった。高い教育を受け、社会的成功者として欲しいものは何でも手に入れ性生活も充実していて、人々の羨望(せんぼう)を浴びるような幸せ者たちだった。

 その彼らがある日、そろそろ子どもを作ろうと思い立った。ところが、どんなに精出して頑張っても、子宝に恵まれなかった。彼らは人生で初めて、欲しても自分の力で手に入らないものがこの世にあることに気がついて愕然とした。自分たちが全能ではないこと、自分たちは神ではないことを思い知り、初めて決定的挫折を味わった。

 教会の門を叩き、信仰の道に入り、教会の勧めに従って3人の養子を迎えた。そして今度は、その子供たちに金を注ぎ込み、高い教育をほどこし、自分たちと同じ価値観を持った上流社会のエリートに育て上げようと努力した。ところが、貧しい国から迎えた養子たちは、成長するにつれて養父母の期待をことごとく裏切り、親の価値観には全く興味を示さず――そもそもその素養も能力もなかったのかもしれない――、ただひたすら自分のルーツ探しに狂奔した。親子関係はかみ合わず、怒りと失望の日々が続いた。そして、養子といえども、自分の所有物のように思い通りにできないことを思い知るのに、多くの時間とエネルギーを費さなければならなかった。やがて子供たちは結婚し、家を出ていった。残された彼らはいま謙虚な老夫婦として静かに信仰に生きている。そして、夫は目の持病が進行して、暗くなると妻の肩に手を置いておぼつかなげに歩いている。今は、心の目で神を見ているのだろうか。

 なぜこのカップルの話を出したのか。それは、神を度外視して人間の思いのままにすべてを自由に支配しようとしても、その尊大な意思は必ず挫(くじ)かれる。自然に反し (つまりは、神のみ旨に反して)人間の欲望に任せて社会と世界を秩序付けようとしても、決してうまくいかない。生と繁栄に秩序づけられている世界を、人間が思いのままに改変しようとすれば、死と滅亡を招き寄せることになることを、例示したかったからだ。

* * * * *

 やや長い引用になってしまいましたが、いかがでしたか。私について上に書かれたことによって皆さんが受けた印象と、私が実際に書いた「書評」の書きだし部分との間にイメージのギャップをお感じになりませんでしたか。

 まず、「それは書評と題されている;だが、そこに述べられているのは、当該の本の内容に関する批評は全くなく・・・」というのは大嘘です。私は上の文の中でもちゃんと「批評」を書いているし、この後も随所にこの本について私の「評」をちりばめています。それは明白な事実ですから、これから明らかになるでしょう。それにしても真っ赤な嘘から始めるなんて、ちょっとひどい話ではないですか。

 また、「保守的カトリックの紋切り型の考え―つまり、homosexualityとtransgenderに関する無理解と偏見と侮辱と差別、および、生殖に関する原理主義者」というまことに名誉なレッテルを張っていただきました。しかし、それもとんでもない事実歪曲であることは次第に明らかになるでしょう。

 私は、その方が攻撃している「保守的原理主義者」たちからは、目の敵(かたき)にされている札付きのカトリック左派で、彼らから見れば私は危険な一匹おおかみとして機会があれば消してしまいたいと思われている人間です。「保守」だなんてとんでもない。わたしは「原理主義」に呪縛された者たちの対極にいる自由人間です。そのこともまた次第に明らかになるでしょう。

 それにしても、冒頭から、あんまりなイメージ操作に、私はいささか傷ついています。

 では今回はこの辺で。(つづく)

コメント (5)
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