狐石(きつねいし)。
場所:静岡市葵区足久保奥組。県道205号線(大川静岡線)「美和中学校北」交差点から西へ約6km。路傍に大きな木製の案内板が出ている。1~2台程度の駐車スペースあり。
天明8年(1788年)、現存する茶舗「竹茗堂」の先祖である山形屋庄八(竹茗と号した。)が建てた石碑で、句碑としては日本一の大きさ(幅約8m、高さ約4.5m)だろうとされているものである。この石には、松尾芭蕉が元禄7年(1694年)に詠んだ「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」という句が彫られている。しかし、この石碑は単なる句碑ではない。
日本茶は、栄西禅師が建久2年(1191年)に南宋から帰国し、茶の種を持ち帰り、栽培や飲み方を伝えたのが発祥とされる。それ以前にも遣唐使などが茶を持ち帰ってきていたらしいが、普及しなかった。現在、日本一の生産量を誇る静岡茶は、駿河国安倍郡の出身の聖一国師が、晩年に(没年は弘安3年(1280年)。南宋から日本への帰国は仁治2年(1241年)。)故郷に戻り、茶の栽培を勧めたのが初めとされる。
足久保茶は、天和元年(1681年)に江戸の将軍家に対する煎茶の上納が始まり、相当量の高級煎茶が生産されるようになった。しかし、八代将軍吉宗の諸事倹約政策により、享保元年(1716年)には上納茶が停止されてしまい、足久保茶は大きな打撃を受けた。煎茶には、「黒茶」と「青茶」があり、「黒茶」は生葉のまま釜煎りして筵の上で揉んで乾燥させたもの(いわゆる番茶に近いもの)、「青茶」は蒸してから焙炉の上で揉んで仕上げたもので、「青茶」のほうが高級茶となる。上納茶の停止で、足久保の「青茶」はいったん廃絶してしまった。これを惜しんだ山形屋庄八が「青茶」を復活させたのが天明8年のことで、「狐石」はこれを記念して、その経緯も句とともに刻んで建てたものであるという。
ところで、この石がなぜ「狐石」という名なのか、その由来を記した資料に巡りあっていないのだが・・・。
「足久保ティーワークス 茶農業協同組合」さんのHPから(足久保散策マップ)
「お茶の国しずおか」のHPから(お茶を学ぶ)
写真1:「狐石」。案内板があり、小さな庭園のようになっている。
写真2:「狐石」。碑文はよく読めない・・・。
写真3:横に「聖一国師之碑」がある。聖一国師は、静岡茶の祖とされている。
場所:静岡市葵区足久保奥組。県道205号線(大川静岡線)「美和中学校北」交差点から西へ約6km。路傍に大きな木製の案内板が出ている。1~2台程度の駐車スペースあり。
天明8年(1788年)、現存する茶舗「竹茗堂」の先祖である山形屋庄八(竹茗と号した。)が建てた石碑で、句碑としては日本一の大きさ(幅約8m、高さ約4.5m)だろうとされているものである。この石には、松尾芭蕉が元禄7年(1694年)に詠んだ「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」という句が彫られている。しかし、この石碑は単なる句碑ではない。
日本茶は、栄西禅師が建久2年(1191年)に南宋から帰国し、茶の種を持ち帰り、栽培や飲み方を伝えたのが発祥とされる。それ以前にも遣唐使などが茶を持ち帰ってきていたらしいが、普及しなかった。現在、日本一の生産量を誇る静岡茶は、駿河国安倍郡の出身の聖一国師が、晩年に(没年は弘安3年(1280年)。南宋から日本への帰国は仁治2年(1241年)。)故郷に戻り、茶の栽培を勧めたのが初めとされる。
足久保茶は、天和元年(1681年)に江戸の将軍家に対する煎茶の上納が始まり、相当量の高級煎茶が生産されるようになった。しかし、八代将軍吉宗の諸事倹約政策により、享保元年(1716年)には上納茶が停止されてしまい、足久保茶は大きな打撃を受けた。煎茶には、「黒茶」と「青茶」があり、「黒茶」は生葉のまま釜煎りして筵の上で揉んで乾燥させたもの(いわゆる番茶に近いもの)、「青茶」は蒸してから焙炉の上で揉んで仕上げたもので、「青茶」のほうが高級茶となる。上納茶の停止で、足久保の「青茶」はいったん廃絶してしまった。これを惜しんだ山形屋庄八が「青茶」を復活させたのが天明8年のことで、「狐石」はこれを記念して、その経緯も句とともに刻んで建てたものであるという。
ところで、この石がなぜ「狐石」という名なのか、その由来を記した資料に巡りあっていないのだが・・・。
「足久保ティーワークス 茶農業協同組合」さんのHPから(足久保散策マップ)
「お茶の国しずおか」のHPから(お茶を学ぶ)
写真1:「狐石」。案内板があり、小さな庭園のようになっている。
写真2:「狐石」。碑文はよく読めない・・・。
写真3:横に「聖一国師之碑」がある。聖一国師は、静岡茶の祖とされている。