神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

建穂神社(駿河国式内社・その18)

2011-01-18 23:41:12 | 神社
建穂神社(たきょうじんじゃ)。祭神:保食神。
場所:静岡市葵区建穂271。国道362号線(通称:藁科街道)沿い、「陽光堂」(株式会社西村商店)という仏具店のところの交差点を北に入る。交差点から直進、約800m。この道が当神社参道で、社殿は正面にある。左右に回り込むと、境内に駐車できるが、道が狭いので注意。
当神社の創建時期は不明。当神社については、長く神仏混淆が続き、「建穂寺」抜きには語ることができない。元々、この地区は帰化人秦氏の一団が入植し、特に養蚕や機織に深い関わりがある土地であった。現在、「建穂」の南は「羽鳥(はとり)」という町名になっているが、本来は「服織」で、小中学校や郵便局にはその名が残っている。「類聚国史」(寛平4年(892年)成立)によれば、天平7年(735年)に藤原武智麻呂(不比等の長子で、藤原南家の祖)が私田5町歩を建穂寺馬鳴大明神に寄進したとあり、貞観元年(859年)には建穂馬鳴神社に正五位下が授けられた、という記事があるという。延喜式神名帳(延長5年(927年)成立)では、単に「建穂神社」となっているが、いずれも同じ神社とみられている。
秦氏が信奉したのが「馬鳴明神」とも「馬鳴菩薩」ともいう養蚕機織の神で、そこには神仏を分ける意識はあまり無かっただろうと思われる。「馬鳴(めみょう)菩薩」は、古代(2世紀頃?)インドの仏教僧侶で、説法が巧みであった。カニシカ王が深く帰依し、インド以外への周辺諸国に仏教が広がる契機ともなった。王の命により、飢えさせた馬に対して説法したところ、馬でさえ、餌を食べるのも忘れて説法に聴き入ったといい、馬が法を解したときにあげた声から「馬鳴」と呼ばれたともいう。しかし、これでは養蚕機織との関係が明らかでない。実は、馬と蚕が結びついたのは中国においてであり、詳述はできないが、日本の「オシラ様」のような伝説が中国にあり(「捜神記」など)、中国の俗信として「馬鳴神」は養蚕機織の神となったらしい。仏像としての「馬鳴神(菩薩)」は、二臂または六臂で、桑の木の枝や生糸の束を握り、白馬に乗っている形に作られる。そこでは、(超人的ではあるが)生身の人間ではなくなり、神として祀られることになったのである。
こうして、当神社も、神仏渾然一体とした社であったはずが、仏教の隆盛とともに「神」の部分が次第に衰退していった。しかし、「吾妻鏡」(1300年頃?成立)の承元4年(1210年)の条に、駿河国建穂寺の鎮守である馬鳴大明神が戦乱を予言したという記事が見え、都にもその名は知られていたようである。
なお、祭神については、「建穂」の「建」の字から「建部」を連想して日本武尊、「穂」の字から保食神とする説などがあった。「建穂」という地名は、いわゆる「2字の好字」で、元はアイヌ語の「トキウ」=葦の生えた湿地、ともいわれ、「建穂」の文字には特別の意味はないようである。現在では、保食神(ウケモチ)を主祭神とする。「日本書紀」の一書によれば、保食神は、月夜見尊を饗応するのに、口から吐き出したものを食べ物として出したため、月夜見尊に切り殺されてしまう。その後、保食神の屍体の頭から牛馬、眉から蚕、腹から稲などが生じていた、ということになっている。そういう意味では、当神社の主祭神が保食神というのも、当初の蚕神に近くなったというべきかもしれない。


玄松子さんのHPから(建穂神社)


写真1:「建穂神社」境内入口。参道のやや右側に石段がついているが、元々の参道は現在の2倍の幅があり、石段も参道の真正面についていたらしい。


写真2:正面鳥居


写真3:社殿正面


写真4:本殿。寺院建築風の花頭窓が珍しい。







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