足坏神社(あしつぎじんじゃ)。祭神:蛭子大神。
場所:静岡市葵区足久保奥組2007。安倍川右岸(西岸)を通る県道29号線(梅ヶ島温泉昭和線)を北上し、「美和中学校北」交差点を左折(西へ)、県道205号線(大川静岡線)に入り、交差点から約5km。通称「美和街道」を足久保川に沿って遡ることになるが、足久保川に架かる「相沢橋」を渡ってすぐ左の狭い道に入って、約500m。駐車スペースあり。
社伝によれば、創建時期は霊亀元年(715年)。神社名の由来は不明で、「美和郷土誌」(昭和60年3月)によれば、「坏」という字は「くぼ」とも訓む、として、鎮座地名の「足久保」の由来になった、という説も紹介している。その当否は不明だが、周囲の状況からすれば、昔から「葦の生える谷(窪地)」にあったのだろうとは思われる。なお、当神社は、かつては「白髭神社」と称し、現在地の東、約500mのところに東向きに社殿があったが、いつの頃か現在地に移されたという。祭神の蛭子大神は、いわゆる恵比寿=事代主神ではなく、伊耶那岐命(イザナギ)と伊耶那美命(イザナミ)の最初の子であるヒルコであるらしい。「古事記」では、ヒルコは不具であったため、葦舟で海に流されてしまう。一方、「日本書紀」では、イザナミが黄泉の国から帰ってきて穢れを落としたときに三貴子(天照大神・月読命・素戔嗚尊)とともに生まれたともしており、天照大神のことを大日孁貴神(オオヒルメムチ)と記していることから、ヒルコは「日児」であって、男性の太陽神であるという説もある(太陽が2つあると困るので、結局ヒルコは流されてしまうのだが。)。もともと謎の多い神だが、なぜ当神社の祭神なのかは、全く不明。「美和郷土誌」では、池沼や谷川に棲む環形動物の蛭(ヒル)を祀ったという説もあるという。また、一説によれば、元は、四道将軍の1人で、阿倍(安倍)氏の始祖、大彦命(オオビコ)を祀ったのではないか、ともいう。ただし、その根拠はよくわからない。安倍川の奥にあり、安倍氏の本拠と考えられたのかもしれない。時代は下るが(鎌倉時代中期以降)、駿河国守護の今川氏に仕えた安倍一族は信濃国諏訪の出身で、諏訪明神の社人を起源とすると称して「神(シン、またはミワ)」姓を本姓とした。賤機山の西側を広く「美和」地区ということを考えると、何か関係があるかもしれない。
因みに、当神社はかつて「白髭神社」と呼ばれていたというが、安倍川流域周辺に「白髭神社」はとても多い。静岡県神社庁加盟の神社のうち「白髭神社」は61社あるが、静岡市内に56社ある(残りは藤枝市に2社、富士市・沼津市に各1社、遠江国森町に1社あるだけ。)。ただし、祭神は猿田彦命が多いが、武内宿禰、塩土老翁、宇迦之御魂神というところもある。一説に、「白髭」は「新羅(しらぎ)」と関連があり、朝鮮からの渡来人、特に秦氏との関係が深いともいう。
なお、当地の佐藤家の先祖は、「弥六太夫」という名で神主あるいは禰宜となり、神社の扉の鍵を管理する「鍵取」と呼ばれて、神事を司っていたらしい。しかし、少なくとも江戸時代には、「弥六太夫」も普段は農業に従事し、「増善寺」の檀越として仏事にも関与していたといい、神仏混淆が進んでいたらしいという。
玄松子さんのHPから(足坏神社):http://www.genbu.net/data/suruga/asitugi_title.htm
写真1:茶畑の奥に、杉の木に囲まれた「足坏神社」の赤い社殿が見える。
写真2:正面鳥居
写真3:社殿正面。社殿の裏に沢があるらしく、水音がしていた。そのせいか、(実は初夏に訪問したのだが、)社殿のほうから清涼な冷気が流れてきた。
場所:静岡市葵区足久保奥組2007。安倍川右岸(西岸)を通る県道29号線(梅ヶ島温泉昭和線)を北上し、「美和中学校北」交差点を左折(西へ)、県道205号線(大川静岡線)に入り、交差点から約5km。通称「美和街道」を足久保川に沿って遡ることになるが、足久保川に架かる「相沢橋」を渡ってすぐ左の狭い道に入って、約500m。駐車スペースあり。
社伝によれば、創建時期は霊亀元年(715年)。神社名の由来は不明で、「美和郷土誌」(昭和60年3月)によれば、「坏」という字は「くぼ」とも訓む、として、鎮座地名の「足久保」の由来になった、という説も紹介している。その当否は不明だが、周囲の状況からすれば、昔から「葦の生える谷(窪地)」にあったのだろうとは思われる。なお、当神社は、かつては「白髭神社」と称し、現在地の東、約500mのところに東向きに社殿があったが、いつの頃か現在地に移されたという。祭神の蛭子大神は、いわゆる恵比寿=事代主神ではなく、伊耶那岐命(イザナギ)と伊耶那美命(イザナミ)の最初の子であるヒルコであるらしい。「古事記」では、ヒルコは不具であったため、葦舟で海に流されてしまう。一方、「日本書紀」では、イザナミが黄泉の国から帰ってきて穢れを落としたときに三貴子(天照大神・月読命・素戔嗚尊)とともに生まれたともしており、天照大神のことを大日孁貴神(オオヒルメムチ)と記していることから、ヒルコは「日児」であって、男性の太陽神であるという説もある(太陽が2つあると困るので、結局ヒルコは流されてしまうのだが。)。もともと謎の多い神だが、なぜ当神社の祭神なのかは、全く不明。「美和郷土誌」では、池沼や谷川に棲む環形動物の蛭(ヒル)を祀ったという説もあるという。また、一説によれば、元は、四道将軍の1人で、阿倍(安倍)氏の始祖、大彦命(オオビコ)を祀ったのではないか、ともいう。ただし、その根拠はよくわからない。安倍川の奥にあり、安倍氏の本拠と考えられたのかもしれない。時代は下るが(鎌倉時代中期以降)、駿河国守護の今川氏に仕えた安倍一族は信濃国諏訪の出身で、諏訪明神の社人を起源とすると称して「神(シン、またはミワ)」姓を本姓とした。賤機山の西側を広く「美和」地区ということを考えると、何か関係があるかもしれない。
因みに、当神社はかつて「白髭神社」と呼ばれていたというが、安倍川流域周辺に「白髭神社」はとても多い。静岡県神社庁加盟の神社のうち「白髭神社」は61社あるが、静岡市内に56社ある(残りは藤枝市に2社、富士市・沼津市に各1社、遠江国森町に1社あるだけ。)。ただし、祭神は猿田彦命が多いが、武内宿禰、塩土老翁、宇迦之御魂神というところもある。一説に、「白髭」は「新羅(しらぎ)」と関連があり、朝鮮からの渡来人、特に秦氏との関係が深いともいう。
なお、当地の佐藤家の先祖は、「弥六太夫」という名で神主あるいは禰宜となり、神社の扉の鍵を管理する「鍵取」と呼ばれて、神事を司っていたらしい。しかし、少なくとも江戸時代には、「弥六太夫」も普段は農業に従事し、「増善寺」の檀越として仏事にも関与していたといい、神仏混淆が進んでいたらしいという。
玄松子さんのHPから(足坏神社):http://www.genbu.net/data/suruga/asitugi_title.htm
写真1:茶畑の奥に、杉の木に囲まれた「足坏神社」の赤い社殿が見える。
写真2:正面鳥居
写真3:社殿正面。社殿の裏に沢があるらしく、水音がしていた。そのせいか、(実は初夏に訪問したのだが、)社殿のほうから清涼な冷気が流れてきた。