神が宿るところ

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慈悲山 増善寺(駿河七観音・その3)

2011-01-28 23:48:08 | 寺院
慈悲山 増善寺(じひさん ぞうぜんじ)。本尊:延命地蔵。
場所:静岡市葵区慈悲尾302。安倍川右岸を走る県道29号線(梅ヶ島温泉昭和線)「斎場入口」交差点から「静岡斎場」前を通り過ぎて道なりに(北西へ)約1km。駐車場あり。
寺伝によれば、天武天皇10年(681年)に道昭法師の開創で、行基菩薩が刻んだという駿河七観音の1つが置かれた。その後、長く真言宗の寺院として「慈悲寺」(山号不明)と称したが、戦国時代には寺勢は衰えていた。明応9年(1500年)、駿河国守護・今川氏親(今川家第7代当主)が辰応性寅(しんのうしょういん)禅師を開山として七堂伽藍を再興し、曹洞宗に改めた。また、寺名は、今川氏親の戒名である「増善寺殿喬山紹僖大禅定門」から名づけられたものである。大永6年(1526年)に今川氏親が亡くなると、今川領内の僧侶7千人が参加するという戦国大名として史上例のない規模での葬儀が行われたという。
また、当寺は徳川家康公とも因縁が深い。竹千代と名乗り、今川義元の人質として駿府にいた頃、今川家の官寺として殺生禁断の場所であった当寺の境内で鳥を捕っているのを村人に見つかり、散々に面罵された。このとき、当寺の等膳和尚が竹千代を諭したが、等膳和尚も竹千代の身の上に同情した。あるとき、竹千代の希望に応え、用宗港から舟に乗せて密かに故郷・岡崎に送り、先祖の墓参をさせた。後に、徳川家康公が遠江・三河を平定して浜松城主になると、天正11年(1583年)、等膳和尚に「可睡」和尚の名を贈り、東海4ケ国(駿河、遠江、三河、伊豆)の曹洞宗寺院の僧録(寺院の統括者)の地位を与えた(その寺が「萬松山 可睡斎」(袋井市)である。)。 ところが、当寺については、家康公の生前には御朱印(寺領安堵)が与えられなかった。これは、竹千代時代の屈辱を根に持ってのことだとされている。加えて、元々当寺の門前には豊かな田畑が広がっていた(「慈悲尾」の南に「千代」という地名があるが、これは「千の田」という意味らしい。)のだが、「薩摩土手」(2010年12月28日記事参照)の築造により、田畑は安倍川の川底に沈み、道もなくなって当寺は陸の孤島になってしまった。昭和初期に至るまで、府中に出るには峠を越えて「建穂寺」を経由して行く必要があったという。「薩摩土手」のことは別にして、単に感情だけでなく、今川氏の官寺であったこと、背後に「安倍城」があって駿府防衛のために力を弱めておこうという意図もあったのではなかろうか。
ところで、所在地の「しいのお」を「慈悲尾」と書くのは勿論当て字だが、一説によれば、阿部志斐連(あべしいのむらじ)に由来するという。阿部志斐連は、崇神天皇によって派遣された四道将軍の1人である武渟川別命(たけぬなかわわけ、大彦命の子)の子孫だとされる。そうすると、現在に残る「安倍」の地名の本拠ということになる。因みに、文化10年(1813年)に「駿河国新風土記」を著した新庄道雄は、当地で「宮川古墳」という古墳を実見して記録している。「宮川古墳」は、幅9尺(2.7m)、奥行きは5間(9.1m)の竿を入れても奥に届かなかった、という大きな石室を持った小山のような古墳であったという。その古墳の主が阿部志斐連だったかどうかはわからないが、そういう伝説が生まれてもおかしくない場所ではあったようだ。なお、「宮川古墳」は、その後の山崩れ等により埋もれ、どこにあったかさえわからないという。


写真1:「増善寺」山門


写真2:「高僧道昭法師之遺跡」の石碑。大正13年に安倍郡役所によって建てられた。


写真3:観音堂。伝・行基刻の千手観音像(秘仏)が安置されている。


写真4:今川家廟所
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