木枯の森(こがらしのもり)。静岡県の名勝地指定(昭和29年)。
場所:静岡市葵区羽鳥。藁科川左岸沿いの国道362号線(通称:藁科街道)と右岸沿いの県道207号線(奈良間手越線)を結ぶ「牧ヶ谷橋」の西、約200m。藁科川の川中にある。駐車場なし。
「舟山」と同様、藁科川の川中にある小山(標高43m)で、元は牧ケ谷側の山の先端が川中に取り残されたものと思われるが、所属争いがあり、18世紀後半、羽鳥地区に属することになった。式内社「建穂神社」前の参道をまっすぐ南下して、国道362号線を越え、土手を上ると、ちょうど目の前に現れる。
清少納言の「枕草子」(平安中期)の「森は・・・」の中にも「木枯の森」は採り上げられており、古くから有名な歌枕であった。この「木枯の森」は、山城国(現・京都府)にある森とする説もあるが、「新後拾遺和歌集」(1384年成立)にある「人知れぬ 思ひするがの 国にこそ 身を木枯の 森はありけれ」(読人知らず)は「駿河国」も読み込んでおり、明らかにこの森のことである。
この森の山上に「八幡神社」(通称「木枯八幡宮」または「木枯神社」)が鎮座しているが、藁科川の水量が多い期間には参拝が不便なので、北西約1kmの藁科川左岸(北岸)羽鳥本町にある別宮に御神体を遷しておく。そして、毎年旧暦8月15日に「木枯の森」に戻す祭が行われる(下記ブログ参照)。この八幡神の御神体は、本地仏である阿弥陀如来立像(鎌倉時代)とされる。
因みに、京都・太秦の式内社「大酒神社」には「木枯神社(木枯明神)」が合祀されている。この「大酒神社」こそ、秦氏の祖神である秦始皇帝、弓月王、秦酒公を祀り、元は広隆寺境内にあって、秦氏の総鎮守であったという。駿河国式内社「建穂神社」の由緒や同神社との地理的関係からして、「木枯の森」も秦氏との関連が濃厚といえるかもしれない。
静岡市葵区自治会連合会さんのブログから(羽鳥八幡神社祭礼)
写真1:「木枯の森」
写真2:「八幡神社」入口
写真3:「八幡神社」社殿(「木枯の森」山上)。本居宣長撰文の「木枯森碑」が社殿の向かって左奥にある(天明7年(1787年)建立)。
写真4:「八幡神社」別宮(場所:静岡市葵区羽鳥本町26。服織第二保育園の東側)
場所:静岡市葵区羽鳥。藁科川左岸沿いの国道362号線(通称:藁科街道)と右岸沿いの県道207号線(奈良間手越線)を結ぶ「牧ヶ谷橋」の西、約200m。藁科川の川中にある。駐車場なし。
「舟山」と同様、藁科川の川中にある小山(標高43m)で、元は牧ケ谷側の山の先端が川中に取り残されたものと思われるが、所属争いがあり、18世紀後半、羽鳥地区に属することになった。式内社「建穂神社」前の参道をまっすぐ南下して、国道362号線を越え、土手を上ると、ちょうど目の前に現れる。
清少納言の「枕草子」(平安中期)の「森は・・・」の中にも「木枯の森」は採り上げられており、古くから有名な歌枕であった。この「木枯の森」は、山城国(現・京都府)にある森とする説もあるが、「新後拾遺和歌集」(1384年成立)にある「人知れぬ 思ひするがの 国にこそ 身を木枯の 森はありけれ」(読人知らず)は「駿河国」も読み込んでおり、明らかにこの森のことである。
この森の山上に「八幡神社」(通称「木枯八幡宮」または「木枯神社」)が鎮座しているが、藁科川の水量が多い期間には参拝が不便なので、北西約1kmの藁科川左岸(北岸)羽鳥本町にある別宮に御神体を遷しておく。そして、毎年旧暦8月15日に「木枯の森」に戻す祭が行われる(下記ブログ参照)。この八幡神の御神体は、本地仏である阿弥陀如来立像(鎌倉時代)とされる。
因みに、京都・太秦の式内社「大酒神社」には「木枯神社(木枯明神)」が合祀されている。この「大酒神社」こそ、秦氏の祖神である秦始皇帝、弓月王、秦酒公を祀り、元は広隆寺境内にあって、秦氏の総鎮守であったという。駿河国式内社「建穂神社」の由緒や同神社との地理的関係からして、「木枯の森」も秦氏との関連が濃厚といえるかもしれない。
静岡市葵区自治会連合会さんのブログから(羽鳥八幡神社祭礼)
写真1:「木枯の森」
写真2:「八幡神社」入口
写真3:「八幡神社」社殿(「木枯の森」山上)。本居宣長撰文の「木枯森碑」が社殿の向かって左奥にある(天明7年(1787年)建立)。
写真4:「八幡神社」別宮(場所:静岡市葵区羽鳥本町26。服織第二保育園の東側)