伝・駿河国分寺の塔心礎(するがこくぶんじのとうしんそ)。
場所:臨済宗「正覚山 菩提樹院」(しょうがくさん ぼだいじゅいん)境内。静岡市葵区沓谷1344-4。県道74号線(通称:流通センター通り)から、静岡農業高校の向かい側(西側)に少し入る。駐車場有り。
駿河国分寺の塔心礎との言い伝えがある、この石(写真2)は、昭和5年に、駿府城址内にあった日本赤十字社静岡支部(現・静岡県総合社会福祉会館付近)の庭で発見された。この場所は、駿府城の旧・横内門を入った左側の、外堀と内堀の間の敷地で、元々は興津河内守直正(駿河大納言こと徳川忠長の御用役)屋敷の大きな泉水付きの庭があった。この石には、明和8年(1771年)に、駿府城代武田越前守信村によって駿府城三之丸城代屋敷内の社の手水鉢として奉納されたことが刻まれている。したがって、駿府城築城~昭和初期まで、家老・城代クラスの屋敷の庭に、庭石のように持ち込まれたもののようだ。この石がいつから駿河国分寺の塔心礎であるといわれていたのかはわからないし、その根拠も不明。そもそも、①この石が塔心礎だったのかどうか、②塔心礎だったとして、どの寺院のものか、③その寺院はどこにあったのか、全く不明なのである。
この石は、粗面岩(安山岩)製で、大きさは約2m×1.4m×1m、石の上面に楕円形の孔があるが、元々は円形だったのを、手水鉢とするために楕円形にしたらしいという。後世の手が加わっているが、この孔は釈迦の骨(舎利)を入れる孔だったとみられており、見た目、確かに塔心礎だったように思われる。国分寺の塔は七重塔だったはずなので、思ったよりは小さめな気もするが、遠江国分寺の塔心礎と見られる石も同様な大きさとされるので、駿河国分寺の塔心礎であってもおかしくはないようだ。こうしたことから、静岡市指定文化財となっているが、駿河国分寺の塔心礎とする決め手はない。
「片山廃寺跡」の項(2011年5月31日記事)で書いたように、それを(当初の)駿河国分寺であるとする説と地方豪族の氏寺であるとする説の対立があるが、そこにはどうやら感情的な対立が絡んでいるように思われる。つまり、旧制中学校教諭という言わば在野の歴史研究家が発見したものを認めたくないという、権威(「静岡県史」執筆者等)側の反発があるように思えてならない。素人が総合的に考えるならば、「片山廃寺跡」は元の駿河国分寺であり、この石はその塔心礎であったと考えても矛盾はない。元の国分寺の塔心礎に使われた石なら、その由緒からして「名石」とされていたかもしれず、だからこそ駿府城の家老・城代クラスの屋敷の庭にまで運ばれたのかもしれない(ただし、その場合は、何らかの由緒書のようなものがあってもおかしくはないだろうが・・・。)。
さて、この石が現在置かれている「菩提樹院」は、その名から、駿河国分尼寺の後身との説もある(中世の文書には、国分僧寺は「泉動院」、国分尼寺は「菩提樹院」の名で出てくる。)。詳しい経緯は不明だが、この石は熱心な信者から昭和28年に寄進されたものという。ちなみに、「菩提樹院」の境内には「由比正雪公の首塚」という石塔も安置されている(写真3)。江戸時代のことには余り興味がないので、由来等は書かないが、今も大切に供養されているようであり、伝・駿河国分寺の塔心礎とともに一度は見ておいて損はない。
現・「菩提樹院」が駿河国分尼寺の後身であるという説については、個人的にはかなり疑わしいと思っているが、詳細は省略する。そうすると、駿河国分尼寺はどこにあったのか、所在地は全く不明のままである。一説によれば、静岡市葵区屋形町は、かつて今川氏の居館があったことに町名の由来があるという。そして、今川氏の居館は、駿河国分尼寺の跡地に建てられたのだともいうのだが、その証拠は何もない。「片山廃寺跡」が駿河国分寺であったとするなら、駿河国分尼寺もその近くにあった可能性が高いと思われる。
写真1:静岡県総合社会福祉会館(シズウエル)。場所:静岡市葵区駿府町1-70。駿府城址の旧・「横内門」を入ってすぐ左側。駿河国分寺の塔心礎とされる石が発見された場所は、この辺りにあった。
写真2:「伝・駿河国分寺の塔心礎」
写真3:「由比正雪公首塚」
場所:臨済宗「正覚山 菩提樹院」(しょうがくさん ぼだいじゅいん)境内。静岡市葵区沓谷1344-4。県道74号線(通称:流通センター通り)から、静岡農業高校の向かい側(西側)に少し入る。駐車場有り。
駿河国分寺の塔心礎との言い伝えがある、この石(写真2)は、昭和5年に、駿府城址内にあった日本赤十字社静岡支部(現・静岡県総合社会福祉会館付近)の庭で発見された。この場所は、駿府城の旧・横内門を入った左側の、外堀と内堀の間の敷地で、元々は興津河内守直正(駿河大納言こと徳川忠長の御用役)屋敷の大きな泉水付きの庭があった。この石には、明和8年(1771年)に、駿府城代武田越前守信村によって駿府城三之丸城代屋敷内の社の手水鉢として奉納されたことが刻まれている。したがって、駿府城築城~昭和初期まで、家老・城代クラスの屋敷の庭に、庭石のように持ち込まれたもののようだ。この石がいつから駿河国分寺の塔心礎であるといわれていたのかはわからないし、その根拠も不明。そもそも、①この石が塔心礎だったのかどうか、②塔心礎だったとして、どの寺院のものか、③その寺院はどこにあったのか、全く不明なのである。
この石は、粗面岩(安山岩)製で、大きさは約2m×1.4m×1m、石の上面に楕円形の孔があるが、元々は円形だったのを、手水鉢とするために楕円形にしたらしいという。後世の手が加わっているが、この孔は釈迦の骨(舎利)を入れる孔だったとみられており、見た目、確かに塔心礎だったように思われる。国分寺の塔は七重塔だったはずなので、思ったよりは小さめな気もするが、遠江国分寺の塔心礎と見られる石も同様な大きさとされるので、駿河国分寺の塔心礎であってもおかしくはないようだ。こうしたことから、静岡市指定文化財となっているが、駿河国分寺の塔心礎とする決め手はない。
「片山廃寺跡」の項(2011年5月31日記事)で書いたように、それを(当初の)駿河国分寺であるとする説と地方豪族の氏寺であるとする説の対立があるが、そこにはどうやら感情的な対立が絡んでいるように思われる。つまり、旧制中学校教諭という言わば在野の歴史研究家が発見したものを認めたくないという、権威(「静岡県史」執筆者等)側の反発があるように思えてならない。素人が総合的に考えるならば、「片山廃寺跡」は元の駿河国分寺であり、この石はその塔心礎であったと考えても矛盾はない。元の国分寺の塔心礎に使われた石なら、その由緒からして「名石」とされていたかもしれず、だからこそ駿府城の家老・城代クラスの屋敷の庭にまで運ばれたのかもしれない(ただし、その場合は、何らかの由緒書のようなものがあってもおかしくはないだろうが・・・。)。
さて、この石が現在置かれている「菩提樹院」は、その名から、駿河国分尼寺の後身との説もある(中世の文書には、国分僧寺は「泉動院」、国分尼寺は「菩提樹院」の名で出てくる。)。詳しい経緯は不明だが、この石は熱心な信者から昭和28年に寄進されたものという。ちなみに、「菩提樹院」の境内には「由比正雪公の首塚」という石塔も安置されている(写真3)。江戸時代のことには余り興味がないので、由来等は書かないが、今も大切に供養されているようであり、伝・駿河国分寺の塔心礎とともに一度は見ておいて損はない。
現・「菩提樹院」が駿河国分尼寺の後身であるという説については、個人的にはかなり疑わしいと思っているが、詳細は省略する。そうすると、駿河国分尼寺はどこにあったのか、所在地は全く不明のままである。一説によれば、静岡市葵区屋形町は、かつて今川氏の居館があったことに町名の由来があるという。そして、今川氏の居館は、駿河国分尼寺の跡地に建てられたのだともいうのだが、その証拠は何もない。「片山廃寺跡」が駿河国分寺であったとするなら、駿河国分尼寺もその近くにあった可能性が高いと思われる。
写真1:静岡県総合社会福祉会館(シズウエル)。場所:静岡市葵区駿府町1-70。駿府城址の旧・「横内門」を入ってすぐ左側。駿河国分寺の塔心礎とされる石が発見された場所は、この辺りにあった。
写真2:「伝・駿河国分寺の塔心礎」
写真3:「由比正雪公首塚」