諏訪神社(すわじんじゃ)。通称:沼の婆さん。
場所:静岡市葵区南沼上994。入口がわかりにくいが、流通センター(卸団地)の北側に何軒か民家があるところの狭い道路から西へ進む。駐車場なし。
細長く南に伸びた賤機山(静岡市)の東側の山麓に沿って「麻機街道」が南北に走っている。静岡平野では、「○○街道」というのは殆どが安倍川等の自然堤防の微高地にできた道で、「麻機街道」もかつての安倍川の支流である北川に沿って形成されたとみられている。徳川家康公が薩摩土手(2010年12月28日記事)を築くまでは、安倍川は賤機山の西側山麓を流れ下ってきて、そのうちの1本の枝川が賤機山の先端を巡って、今度は東側山麓を北上していた。これを北川という。「徳願寺」(2011年2月1日記事)開基とされる北川殿(北条早雲の妹)は、この北川河畔に館を構えていたことから、その名で呼ばれたという。南下してきた川が一転して北上するのは妙だが、賤機山と竜爪山に挟まれた麻機地区は、南に安倍川と長尾川の扇状地ができて、相対的に低い場所になり、かつては「麻機沼」という大きな沼が広がっていたという。麻機街道を北上すると、賤機山を越えて梅ヶ島方面に行けるのだが、長い急な坂を上って、峠にあるトンネルを抜けると大きな池があって、吃驚する。この池は「鯨ヶ池」といって、元は鯨の形をした丘だったのが、天平19年(747年)、突然水が噴出し、鯨が潮を吹いたようだということから、その名がついたというのだが・・・、それはさておき、この池の水源は安倍川の伏流水なのだという。つまり、この池の標高は安倍川と等高であって、麻機地区のほうが約50mも低いらしい。昭和49年7月7日、静岡市を豪雨が襲い、24時間連続雨量は静岡地方気象台観測史上最高記録508mmを記録した。いわゆる「七夕豪雨」だが、麻機地区から巴川沿いに旧・清水市方面まで、湖のようになってしまったのを記憶している人も多いだろう。
さて、建武2年(1335年)、新田義貞の弟の脇屋義助と足利尊氏の弟の足利直義が戦った「手越河原の合戦」の際、麻機の豪族、岩崎国隆の子の時光が脇屋側に味方をし、脇屋側が勝利した。脇屋義助は岩崎家の屋敷を訪れ、時光の手柄を褒めたが、時光の姉の秋野とその娘の小菊も来ており、脇屋義助は小菊を見初めた。やがて小菊は女の子を産み、小葭(こよし)と名付けたが、産後の肥立ちが悪くて小菊はお産して3日目に死んだ。小葭は祖母の秋野に育てられたが、美しい娘に育った。小葭が14歳の夏、祖母が病気になり、心配した小葭は、信仰する浅間神社にお参りしようと、舟に乗って川の中ほどまで進んだ時、突然川の水が濁り、渦の中に引き込まれた。これを聞いた秋野は、病を押して河畔に赴き、小葭を水中に引き込んだのは河童であるとして、「この婆が、憎い河童を退治して沼の守り神となろう。」と言って、川に飛び込んでしまった。村人たちが秋野と小葭を哀れんで、河畔で大施餓鬼を催したとき、急に川の水が激しく逆巻き、何者かが水中で戦っているようにみえた。やがて、水が鎮まると、その後河童に殺される者はいなくなった。村人たちは、秋野を「諏訪大明神」として祀った。これが、現在の南沼上「諏訪神社」であるという。
寺院のほうでは、「瑞現山 大正寺」(静岡市駿河区大谷3660-1)と「多聞山 大安寺」(静岡市葵区南沼上661、写真3)で祀られている。因みに、「大安寺」は、最澄が彫ったという毘沙門天を本尊としており、山上に毘沙門天堂がある(写真4)。この毘沙門天堂は元々、南向きに建てられていたが、馬に乗った者が前を通ると必ず落馬するというので、西向きに建て替えたという。
静岡東方見聞録さんのHPから(「沼のばあさん」7年ぶりの大祭)
写真1:南沼上「諏訪神社」正面
写真2:麻機遊水地。規模はかなり小さくなったが、今も池や湿地が広がる。遊水地や大谷川放水路・巴川治水工事などの整備によって、川の氾濫はなくなった。
写真3:「多聞山 大安寺」
写真4:同上「毘沙門天堂」
場所:静岡市葵区南沼上994。入口がわかりにくいが、流通センター(卸団地)の北側に何軒か民家があるところの狭い道路から西へ進む。駐車場なし。
細長く南に伸びた賤機山(静岡市)の東側の山麓に沿って「麻機街道」が南北に走っている。静岡平野では、「○○街道」というのは殆どが安倍川等の自然堤防の微高地にできた道で、「麻機街道」もかつての安倍川の支流である北川に沿って形成されたとみられている。徳川家康公が薩摩土手(2010年12月28日記事)を築くまでは、安倍川は賤機山の西側山麓を流れ下ってきて、そのうちの1本の枝川が賤機山の先端を巡って、今度は東側山麓を北上していた。これを北川という。「徳願寺」(2011年2月1日記事)開基とされる北川殿(北条早雲の妹)は、この北川河畔に館を構えていたことから、その名で呼ばれたという。南下してきた川が一転して北上するのは妙だが、賤機山と竜爪山に挟まれた麻機地区は、南に安倍川と長尾川の扇状地ができて、相対的に低い場所になり、かつては「麻機沼」という大きな沼が広がっていたという。麻機街道を北上すると、賤機山を越えて梅ヶ島方面に行けるのだが、長い急な坂を上って、峠にあるトンネルを抜けると大きな池があって、吃驚する。この池は「鯨ヶ池」といって、元は鯨の形をした丘だったのが、天平19年(747年)、突然水が噴出し、鯨が潮を吹いたようだということから、その名がついたというのだが・・・、それはさておき、この池の水源は安倍川の伏流水なのだという。つまり、この池の標高は安倍川と等高であって、麻機地区のほうが約50mも低いらしい。昭和49年7月7日、静岡市を豪雨が襲い、24時間連続雨量は静岡地方気象台観測史上最高記録508mmを記録した。いわゆる「七夕豪雨」だが、麻機地区から巴川沿いに旧・清水市方面まで、湖のようになってしまったのを記憶している人も多いだろう。
さて、建武2年(1335年)、新田義貞の弟の脇屋義助と足利尊氏の弟の足利直義が戦った「手越河原の合戦」の際、麻機の豪族、岩崎国隆の子の時光が脇屋側に味方をし、脇屋側が勝利した。脇屋義助は岩崎家の屋敷を訪れ、時光の手柄を褒めたが、時光の姉の秋野とその娘の小菊も来ており、脇屋義助は小菊を見初めた。やがて小菊は女の子を産み、小葭(こよし)と名付けたが、産後の肥立ちが悪くて小菊はお産して3日目に死んだ。小葭は祖母の秋野に育てられたが、美しい娘に育った。小葭が14歳の夏、祖母が病気になり、心配した小葭は、信仰する浅間神社にお参りしようと、舟に乗って川の中ほどまで進んだ時、突然川の水が濁り、渦の中に引き込まれた。これを聞いた秋野は、病を押して河畔に赴き、小葭を水中に引き込んだのは河童であるとして、「この婆が、憎い河童を退治して沼の守り神となろう。」と言って、川に飛び込んでしまった。村人たちが秋野と小葭を哀れんで、河畔で大施餓鬼を催したとき、急に川の水が激しく逆巻き、何者かが水中で戦っているようにみえた。やがて、水が鎮まると、その後河童に殺される者はいなくなった。村人たちは、秋野を「諏訪大明神」として祀った。これが、現在の南沼上「諏訪神社」であるという。
寺院のほうでは、「瑞現山 大正寺」(静岡市駿河区大谷3660-1)と「多聞山 大安寺」(静岡市葵区南沼上661、写真3)で祀られている。因みに、「大安寺」は、最澄が彫ったという毘沙門天を本尊としており、山上に毘沙門天堂がある(写真4)。この毘沙門天堂は元々、南向きに建てられていたが、馬に乗った者が前を通ると必ず落馬するというので、西向きに建て替えたという。
静岡東方見聞録さんのHPから(「沼のばあさん」7年ぶりの大祭)
写真1:南沼上「諏訪神社」正面
写真2:麻機遊水地。規模はかなり小さくなったが、今も池や湿地が広がる。遊水地や大谷川放水路・巴川治水工事などの整備によって、川の氾濫はなくなった。
写真3:「多聞山 大安寺」
写真4:同上「毘沙門天堂」