葛飾八幡宮(かつしかはちまんぐう)。
場所:千葉県市川市八幡4-2-1。JR「本八幡」駅の北東、約500m。あるいは、京成本線「京成八幡」又は都営地下鉄新宿線「本八幡」駅の東、約300m。駐車場有り。
社伝によれば、寛平年間(889~898年)に宇多天皇の勅願により京都の「石清水八幡宮」を勧請して建立されたといい、いわゆる「国府八幡宮」として下総国府(国衙)の鎮守社、ひいては下総国全体の総鎮守社であるとされる。ただし、下総国府(想定地)から約3kmも離れており、国府内に「六所神社」という総社もあったことを考えると、当神社の創建は国府または国分寺とは無関係だった可能性もあると思われる。祭神はいわゆる八幡三神で、誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・玉依比売命。
八幡宮の例に漏れず、武家の信仰が篤く、特に源頼朝との関係が深かったようだ。また、平安時代後期から中世、律令国家の崩壊に従い、国府や国分寺の領地を侵食する形で勢力を伸ばしたらしい。下総国で千葉氏が勢力を大きく伸長させたのにも当神社との関係が深かったことがあるとも考えられている。
寛政5年(1793年)、当神社境内の枯れた古木を伐採して根を掘り出したところ、元亨元年(1321年)銘の梵鐘が埋められていたのを発見した。その銘文として、「(当神社は)下総国の第一の鎮守であり、寛平年間に宇多天皇の勅願で建てられて以来久しく、源頼朝将軍の崇敬が殊に篤かった」というようなことが記されている。また、当神社の立地の様子として、「前に巨海が横たわり、後ろに遠村が連なっている」とも記されており、当神社の目前まで海が迫っていたことがうかがわれる。
社殿の向って右には神木の公孫樹(イチョウ)の巨樹があるが、樹齢1200年以上と言われ、高さ22m、目通り10.8mもあって、国指定天然記念物となっている。「千本公孫樹」という名は、これが1本の木でなく、多くの木が寄り集まって1本の木のように見えているからだという(実際には、主幹の周りに支幹が取り巻くように生えているものらしい。珍しいことは間違いない。)。当神社の祭礼(現在は9月15日)のときにはボロ市(農具市)が開かれるが、江戸時代には、祭礼の音楽が奏されると、幹の洞から数万の小蛇が現れたという。
また、境内には「源頼朝公 駒どめ石」というものがある。頼朝が戦勝祈願のため当神社を参拝した際、この石に馬が前脚を掛け、蹄の跡が残ったという。
千葉県神社庁のHPから(葛飾八幡宮)
写真1:「葛飾八幡宮」の国道14号線(千葉街道)に面した一の鳥居と社号標
写真2:随神門。元は、別当寺であった「八幡山 法漸寺」(天台宗・上野「東叡山 寛永寺」末寺)の仁王門だった。明治の神仏分離により「法漸寺」は廃寺となり、随神門に変えられたもの。
写真3:神門
写真4:社殿
写真5:神木の「千本公孫樹」
写真6:「駒どめの石」
写真7:同上、馬の蹄の跡?
場所:千葉県市川市八幡4-2-1。JR「本八幡」駅の北東、約500m。あるいは、京成本線「京成八幡」又は都営地下鉄新宿線「本八幡」駅の東、約300m。駐車場有り。
社伝によれば、寛平年間(889~898年)に宇多天皇の勅願により京都の「石清水八幡宮」を勧請して建立されたといい、いわゆる「国府八幡宮」として下総国府(国衙)の鎮守社、ひいては下総国全体の総鎮守社であるとされる。ただし、下総国府(想定地)から約3kmも離れており、国府内に「六所神社」という総社もあったことを考えると、当神社の創建は国府または国分寺とは無関係だった可能性もあると思われる。祭神はいわゆる八幡三神で、誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・玉依比売命。
八幡宮の例に漏れず、武家の信仰が篤く、特に源頼朝との関係が深かったようだ。また、平安時代後期から中世、律令国家の崩壊に従い、国府や国分寺の領地を侵食する形で勢力を伸ばしたらしい。下総国で千葉氏が勢力を大きく伸長させたのにも当神社との関係が深かったことがあるとも考えられている。
寛政5年(1793年)、当神社境内の枯れた古木を伐採して根を掘り出したところ、元亨元年(1321年)銘の梵鐘が埋められていたのを発見した。その銘文として、「(当神社は)下総国の第一の鎮守であり、寛平年間に宇多天皇の勅願で建てられて以来久しく、源頼朝将軍の崇敬が殊に篤かった」というようなことが記されている。また、当神社の立地の様子として、「前に巨海が横たわり、後ろに遠村が連なっている」とも記されており、当神社の目前まで海が迫っていたことがうかがわれる。
社殿の向って右には神木の公孫樹(イチョウ)の巨樹があるが、樹齢1200年以上と言われ、高さ22m、目通り10.8mもあって、国指定天然記念物となっている。「千本公孫樹」という名は、これが1本の木でなく、多くの木が寄り集まって1本の木のように見えているからだという(実際には、主幹の周りに支幹が取り巻くように生えているものらしい。珍しいことは間違いない。)。当神社の祭礼(現在は9月15日)のときにはボロ市(農具市)が開かれるが、江戸時代には、祭礼の音楽が奏されると、幹の洞から数万の小蛇が現れたという。
また、境内には「源頼朝公 駒どめ石」というものがある。頼朝が戦勝祈願のため当神社を参拝した際、この石に馬が前脚を掛け、蹄の跡が残ったという。
千葉県神社庁のHPから(葛飾八幡宮)
写真1:「葛飾八幡宮」の国道14号線(千葉街道)に面した一の鳥居と社号標
写真2:随神門。元は、別当寺であった「八幡山 法漸寺」(天台宗・上野「東叡山 寛永寺」末寺)の仁王門だった。明治の神仏分離により「法漸寺」は廃寺となり、随神門に変えられたもの。
写真3:神門
写真4:社殿
写真5:神木の「千本公孫樹」
写真6:「駒どめの石」
写真7:同上、馬の蹄の跡?
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