草薙神社(くさなぎじんじゃ)。祭神:日本武尊。
場所:静岡市清水区草薙349。県道407号線(静岡草薙清水線)「草薙駅前」交差点のの北東にある次の交差点のところ(スーパー「しずてつストア草薙店」の向かい側)に、道路を跨ぐ大きな鳥居がある。その下を通って道なりに(南東へ)登っていくと、約1.2kmで到着。駐車場あり。
当神社の創建にも日本武尊東征時の伝承が関係している。古事記と日本書紀では多少の異同があるが、「駿河国(古事記では相模国)で、日本武尊は国造に欺かれて草原に誘き出され、野火に囲まれてしまう。しかし、天叢雲剣で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くした。」という説話が語られる。そして、その地が「焼津」と呼ばれるようになった、と続くわけだが、当神社では「草薙」の地であるとする。そして、日本武尊の父である景行天皇が東国巡幸の折、「天皇原」(「草薙」駅の東側の平野、大きな鳥居のある周辺)の西に1社を創建し、「草薙」の故事に因んで天叢雲剣から草薙剣に改称された剣を祀ったとされる(景行天皇53年(123年))。これが当神社であるが、葦毛(灰色)の馬が社前を通ると必ず落馬したので、平安時代に現在地に遷座したという。
また、社伝によれば、元の祭神は草薙剣そのものであったが、朱鳥元年(686年)に熱田神宮に移されたので、以後は日本武尊を祭神としたともされる。
だいたい、相模国は論外としても、草薙と焼津でも随分離れている。クサナギ神社だけでも、式内社「久佐奈岐神社」と「草薙神社」があるのはどういうことか。日本武尊を欺き、逆に征伐されたのが「国造」ということで、これはつまり、ヤマト王権に敵対する地方豪族だったということだろう。もともと「廬原」の豪族は日本武尊に征伐されて、ヤマト王権に服属するようになり、その従順を示すために日本武尊を祀る神社を創建したのだろう。
また、「草薙」も「焼津」も元は海人族が支配していたが、焼畑技術を持つ農業中心のヤマト政権に取って代わられた、ということではないか、とする説もある。
玄松子さんのHPから(草薙神社):http://www.genbu.net/data/suruga/kusanagi2_title.htm
写真1:県道に面した巨大な鳥居。
写真2:「草薙神社」境内入口(北側)の鳥居。
写真3:日本武尊の像
写真4:社殿正面(東向き)
場所:静岡市清水区草薙349。県道407号線(静岡草薙清水線)「草薙駅前」交差点のの北東にある次の交差点のところ(スーパー「しずてつストア草薙店」の向かい側)に、道路を跨ぐ大きな鳥居がある。その下を通って道なりに(南東へ)登っていくと、約1.2kmで到着。駐車場あり。
当神社の創建にも日本武尊東征時の伝承が関係している。古事記と日本書紀では多少の異同があるが、「駿河国(古事記では相模国)で、日本武尊は国造に欺かれて草原に誘き出され、野火に囲まれてしまう。しかし、天叢雲剣で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くした。」という説話が語られる。そして、その地が「焼津」と呼ばれるようになった、と続くわけだが、当神社では「草薙」の地であるとする。そして、日本武尊の父である景行天皇が東国巡幸の折、「天皇原」(「草薙」駅の東側の平野、大きな鳥居のある周辺)の西に1社を創建し、「草薙」の故事に因んで天叢雲剣から草薙剣に改称された剣を祀ったとされる(景行天皇53年(123年))。これが当神社であるが、葦毛(灰色)の馬が社前を通ると必ず落馬したので、平安時代に現在地に遷座したという。
また、社伝によれば、元の祭神は草薙剣そのものであったが、朱鳥元年(686年)に熱田神宮に移されたので、以後は日本武尊を祭神としたともされる。
だいたい、相模国は論外としても、草薙と焼津でも随分離れている。クサナギ神社だけでも、式内社「久佐奈岐神社」と「草薙神社」があるのはどういうことか。日本武尊を欺き、逆に征伐されたのが「国造」ということで、これはつまり、ヤマト王権に敵対する地方豪族だったということだろう。もともと「廬原」の豪族は日本武尊に征伐されて、ヤマト王権に服属するようになり、その従順を示すために日本武尊を祀る神社を創建したのだろう。
また、「草薙」も「焼津」も元は海人族が支配していたが、焼畑技術を持つ農業中心のヤマト政権に取って代わられた、ということではないか、とする説もある。
玄松子さんのHPから(草薙神社):http://www.genbu.net/data/suruga/kusanagi2_title.htm
写真1:県道に面した巨大な鳥居。
写真2:「草薙神社」境内入口(北側)の鳥居。
写真3:日本武尊の像
写真4:社殿正面(東向き)
残念ですが、安全のためには仕方ありませんね。