茂侶神社(もろじんじゃ)。
場所:千葉県流山市三輪野山619。流山電鉄「流山駅」から県道5号線(松戸野田線、通称:流山街道)を北上し(約1.3km)、流山市消防本部の交差点を右折(東へ)、約600mの交差点付近。コンビニ「ファミリーマート流山南店」の向かい側。駐車場なし。
創建時期は不明だが、大和国一宮「大神神社」の分霊により創建され、大物主命を祀るとされる。本社と同じく、江戸時代までは「三輪明神」と呼ばれ、鎮座地の台地を三輪野山という。千葉県神社庁HPには「三輪茂侶神社」名で登録されている。
下総国の式内社11座については論社は少ないが、「茂侶神社」にはいくつかの論社があるとされている。その中で最も有力なのが当神社で、古代に西国から移住してきた人々が江戸川側から現鎮座地の丘を見て、大和国の三輪山(御諸山)に似ているとして祖神を祀ったものともいわれている。古文書等もないので詳細は不明であるが、①当神社の正面に南北の直線的な道路が延びているが、これが古代道路の跡であることが確認されたこと、②当神社の東の田地に「茂侶下」という小字があること、③当神社の東、約400mのところに古墳時代前期の方墳とされた「三輪野山向原古墳」があった(現・流山卸センター付近。同センター建設により消滅)こと、④当神社の南西約1kmのところから大規模な古代祭祀跡が見つかり、須恵器等が出土したこと、⑤鎮座地の丘を北限にして、その前(南側)に向って集落が作られていったことなどが傍証となる。
なお、「式内社調査報告 第11巻」(「茂侶神社」の項:梅田義彦氏)では、論社として当神社と埼玉県吉川市鎮座の「三輪神社」(写真5、6)を挙げているが、吉川市の「三輪神社」は、慶長3年(1598年)に現在の江戸川が掘鑿されたことによって、当神社の氏子区域が分断されたため元和年間(1615~1624年)に当神社から分祀して創建されたものである(その旨を記した石碑が境内にある。)。
さて、式内社「茂侶神社」に関する史料は乏しいが、日本三代実録に、貞観13年(871年)に従五位上、元慶3年(879年)に正五位上の神階を授与されたことがみえる。社名の「茂侶」というのも、「御諸山」の「もろ」とか(敬称の「み」を省くのはおかしいという反論がある。)、「森」の「もり」が訛ったとかという説があるが、はっきりしない。現・埼玉県毛呂山町(もろやままち)の中心部の丘(臥龍山)に式内社「出雲伊波比神社」が鎮座しており(ただし、論社あり。)、その祭神は大名牟遲神だが、大物主命と同神とされる。何か関係があるのだろうか? 因みに、「和名類聚抄」には、同じ下総国だが、結城郡に「茂侶郷」があることが記されており、現・茨城県結城市東茂侶・北南茂侶付近と思われる。この地名について、吉田茂樹著「日本古代知名事典<コンパクト版>」(2006年9月)によれば、「も(盛)ろ(接尾語)」の意で、低平地の小高い所を言う、とある。特に反論するつもりもないが、それだけの意味なら、そこら中に「茂侶」という地名があっても良さそうなものだとも思うのだが・・・。まあ、低平地の小高い所という意味で当神社の鎮座地である「三輪野山」を指すと考えれば、全く矛盾はない。
ところで、下総国式内社「寒川神社」に比定されている「二宮神社」(千葉県船橋市)(2012年3月17日記事)も「御山(みやま)」という台地上にあり、背後に深い森があったと伝えられている。このため、江戸時代には、この「二宮神社」が式内社「茂侶神社」ではないかと考えられていたらしい(2012年3月17日記事の写真5参照)。「二宮神社」自身にしてからが、天明元年(1781年)に吉田家に提出した文書に「二宮明神の義は茂侶神社と申す。往古より鎮座・・・」とあり、江戸時代末期まで「二宮神社」が式内社「茂侶神社」と思われていたようだ。しかし、「二宮神社」の鎮座地は千葉郷にあり、式内社「茂侶神社」が葛飾郷鎮座となっていることに反する。こうしたことから、「二宮神社」が式内社「茂侶神社」ではないことについては、現在では殆ど異論がない。
玄松子さんのHPから(茂侶神社(流山市))
写真1:「茂侶神社」境内入口の石鳥居。社号標は、「式内社 茂侶神社」
写真2:参道にある朱塗りの両部鳥居
写真3:社殿
写真4:境内の万葉歌碑、「鳰鳥の 葛飾早稲を 饗すとも その愛しきを 外に立てめやも」。この歌については次々項で。
写真5:分社された「三輪神社」(場所:埼玉県吉川市三輪野江1372。JR「三郷」駅の北、約3.5km。県道21号線(三郷松伏線沿い。駐車場有り。)。当神社前にある東武バスのバス停の名は「三輪之江神社前」となっている。
写真6:同上、社殿
場所:千葉県流山市三輪野山619。流山電鉄「流山駅」から県道5号線(松戸野田線、通称:流山街道)を北上し(約1.3km)、流山市消防本部の交差点を右折(東へ)、約600mの交差点付近。コンビニ「ファミリーマート流山南店」の向かい側。駐車場なし。
創建時期は不明だが、大和国一宮「大神神社」の分霊により創建され、大物主命を祀るとされる。本社と同じく、江戸時代までは「三輪明神」と呼ばれ、鎮座地の台地を三輪野山という。千葉県神社庁HPには「三輪茂侶神社」名で登録されている。
下総国の式内社11座については論社は少ないが、「茂侶神社」にはいくつかの論社があるとされている。その中で最も有力なのが当神社で、古代に西国から移住してきた人々が江戸川側から現鎮座地の丘を見て、大和国の三輪山(御諸山)に似ているとして祖神を祀ったものともいわれている。古文書等もないので詳細は不明であるが、①当神社の正面に南北の直線的な道路が延びているが、これが古代道路の跡であることが確認されたこと、②当神社の東の田地に「茂侶下」という小字があること、③当神社の東、約400mのところに古墳時代前期の方墳とされた「三輪野山向原古墳」があった(現・流山卸センター付近。同センター建設により消滅)こと、④当神社の南西約1kmのところから大規模な古代祭祀跡が見つかり、須恵器等が出土したこと、⑤鎮座地の丘を北限にして、その前(南側)に向って集落が作られていったことなどが傍証となる。
なお、「式内社調査報告 第11巻」(「茂侶神社」の項:梅田義彦氏)では、論社として当神社と埼玉県吉川市鎮座の「三輪神社」(写真5、6)を挙げているが、吉川市の「三輪神社」は、慶長3年(1598年)に現在の江戸川が掘鑿されたことによって、当神社の氏子区域が分断されたため元和年間(1615~1624年)に当神社から分祀して創建されたものである(その旨を記した石碑が境内にある。)。
さて、式内社「茂侶神社」に関する史料は乏しいが、日本三代実録に、貞観13年(871年)に従五位上、元慶3年(879年)に正五位上の神階を授与されたことがみえる。社名の「茂侶」というのも、「御諸山」の「もろ」とか(敬称の「み」を省くのはおかしいという反論がある。)、「森」の「もり」が訛ったとかという説があるが、はっきりしない。現・埼玉県毛呂山町(もろやままち)の中心部の丘(臥龍山)に式内社「出雲伊波比神社」が鎮座しており(ただし、論社あり。)、その祭神は大名牟遲神だが、大物主命と同神とされる。何か関係があるのだろうか? 因みに、「和名類聚抄」には、同じ下総国だが、結城郡に「茂侶郷」があることが記されており、現・茨城県結城市東茂侶・北南茂侶付近と思われる。この地名について、吉田茂樹著「日本古代知名事典<コンパクト版>」(2006年9月)によれば、「も(盛)ろ(接尾語)」の意で、低平地の小高い所を言う、とある。特に反論するつもりもないが、それだけの意味なら、そこら中に「茂侶」という地名があっても良さそうなものだとも思うのだが・・・。まあ、低平地の小高い所という意味で当神社の鎮座地である「三輪野山」を指すと考えれば、全く矛盾はない。
ところで、下総国式内社「寒川神社」に比定されている「二宮神社」(千葉県船橋市)(2012年3月17日記事)も「御山(みやま)」という台地上にあり、背後に深い森があったと伝えられている。このため、江戸時代には、この「二宮神社」が式内社「茂侶神社」ではないかと考えられていたらしい(2012年3月17日記事の写真5参照)。「二宮神社」自身にしてからが、天明元年(1781年)に吉田家に提出した文書に「二宮明神の義は茂侶神社と申す。往古より鎮座・・・」とあり、江戸時代末期まで「二宮神社」が式内社「茂侶神社」と思われていたようだ。しかし、「二宮神社」の鎮座地は千葉郷にあり、式内社「茂侶神社」が葛飾郷鎮座となっていることに反する。こうしたことから、「二宮神社」が式内社「茂侶神社」ではないことについては、現在では殆ど異論がない。
玄松子さんのHPから(茂侶神社(流山市))
写真1:「茂侶神社」境内入口の石鳥居。社号標は、「式内社 茂侶神社」
写真2:参道にある朱塗りの両部鳥居
写真3:社殿
写真4:境内の万葉歌碑、「鳰鳥の 葛飾早稲を 饗すとも その愛しきを 外に立てめやも」。この歌については次々項で。
写真5:分社された「三輪神社」(場所:埼玉県吉川市三輪野江1372。JR「三郷」駅の北、約3.5km。県道21号線(三郷松伏線沿い。駐車場有り。)。当神社前にある東武バスのバス停の名は「三輪之江神社前」となっている。
写真6:同上、社殿
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