神が宿るところ

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長幡部神社(茨城県常陸太田市)(常陸国式内社・その22)

2019-09-21 23:19:22 | 神社
長幡部神社(ながはたべじんじゃ)。
場所:茨城県常陸太田市幡町539。国道349号線「金井町」交差点から茨城県道61号線(日立笠間線)を東~南東へ、約1.2km。「参道入口」の案内碑が建っているところから、社殿までは徒歩数分(約200m)。参道入口からは狭い道路で、行き止まりになるので、自動車では入らないように注意。なお、かなり大回りになるが、社殿の裏手を通る道路があり、そちらの方に駐車スペースがあるようだ(未確認)。
「常陸国風土記」(養老5年:721年成立?)によれば、皇孫・瓊瓊杵尊(ニニギ)が天降った時、その御服を織るために機具を携えて綺日女命(カムハタヒメ)が付き従ってきた。始めは筑紫国(現・福岡県)に降り立ち、美濃国(現・岐阜県)に移った。崇神天皇の御代(3世紀後半頃?)に、子孫の多弖命(タテ)が美濃国から常陸国に移住し当地に機殿(はたどの)を建ててて「長幡」(絹織物の1種。絁(あしぎぬ)」)を織った。「長幡部」は「長幡」を織る職業集団で、当神社はその祖を祀ったものという。「延喜式神名帳」に登載された「長幡部神社」に比定される式内社であるが、中世以降は「小幡足明神」、「駒形神社」と称され、また康平年間(1058~1065年)に源頼義が奥羽出兵の際に戦勝祈願を行い、凱旋時に鹿島・三島・神明(伊勢)・若宮(八幡)の「四所明神」を勧請したとことから「長幡部神社」の社号が忘れられ、後には「鹿島明神」と称するのみになったと伝えられる。延享年間(1744~1748年)になって、古老の口碑により旧号の「長幡部神社」に復したという。現在の祭神は、綺日女命と多弖命。
なお、現社地の北西、約700mのところに「元宮」と呼ばれるところがあり、旧社地であるというが、現在は「幡町団地」の南側の畑の中で、何の痕跡もない。現社地は小高いところにあるが、旧社地は里川の左岸(東岸)の平坦地で、「長幡部」の部民が機織りをしていた集落があったのかもしれない。


写真1:「長幡部神社」参道入口


写真2:参道石段


写真3:一の鳥居。笠木・島木・神額が落ちてしまっていた。


写真4:二の鳥居


写真5:社殿正面


写真6:同上


写真7:境内
コメント (3)    この記事についてブログを書く
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3 コメント

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Unknown (mitgak)
2019-10-04 23:33:34
こんばんは。社殿の東側にあるいう神座石ってご覧になりました。自分は所在が分からなくて辿り着けてません。総代さんも知らないと言っていたが外部には言えないものだったのかなー
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Unknown (ブログ管理人)
2019-10-05 09:12:05
おはようございます。
そうなんですよね。神社も好きですが、石はもっと好きなので、「神座石」というのがあると聞いてそれなりに探したのですが、わかりませんでした。
因みに、「神座石」は石棺の蓋石ではないかとか書かれていたのですが、この付近は貝塚や横穴古墳は見つかっていますが、大型の古墳は見つかっていないようです。
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Unknown (mitgak)
2019-10-05 16:47:00
そうですよね。見つかりませんよね。本当にあるのか疑わしくなります。
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