神が宿るところ

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八幡神社(茨城県土浦市田中二丁目)

2022-04-23 23:31:58 | 神社
八幡神社(はちまんじんじゃ)。通称:田中八幡神社。
場所:茨城県土浦市田中2-6-34。茨城県道24号線(土浦境線、土浦学園線)「学園大橋南」交差点(国道6号線「土浦バイパス」の高架下)から東へ(途中から、通称「八幡通り」を進む。)、約1.2km。駐車スペース有り。
社伝等によれば、仁平3年(1153年)、信太庄(古代「信太郡」の大部分)の庄司となった紀貞頼により創建されたという。紀貞頼は、古代豪族・紀氏の後裔で、紀長谷雄を祖とすると称し、後に信太氏を名乗って、その子孫が小田氏の有力家臣となったとされる。また、一説によれば、建久3年(1192年)、源頼朝が鎌倉幕府を開いた後、「鎌倉街道」と呼ばれる道路を整備した際に、本道には1里ごとに八幡祠を、支道には六地蔵又は供養塔を建てたとされ、当神社もそのときに創建されたものという。土浦の中心部では最古の神社として信仰を集め、明治時代には村社に列せられた。現在の主祭神は誉田別命。
なお、当地の東、約250m(直線距離)にあった「五社明神(五総明神)」社を明治42年に合祀した。同神社は平国香を主祭神として、他に貞盛(長男)、繁盛(次男)、兼任(三男)と藤原秀郷の5柱を祀ったということから、その名がついたとされる。現在、跡地には「平国香公碑」が建てられているが、元は同神社境内に五輪塔があり、これが「平国香の墓」(供養塔)といわれていた。「墓」と称されたため、国香は当地で亡くなったとする説もあるが、国香は承平5年(935年)、平将門に攻められて、本拠地の現・茨城県筑西市東石田で亡くなったとされているので、墓所ではないと思われる。国香は、土浦の最初の開発領主であるとされていて、更にその血筋は、常陸平氏はもちろん、足利将軍家の足利氏や、伊勢平氏(平清盛など)等にまで連なるので、後裔の誰かが供養したものだろう。現地説明板によれば、将門に所縁がある奥州相馬氏は、参勤交代の途中に必ず参拝したとのこと。
因みに、当神社の東側を南北に走る道路があるが、これが「鎌倉街道」とされる道路である。そして、古代東海道の「曾禰」駅家の所在地は、現・土浦市上高津の「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」(2022年3月26日記事参照)付近とされるのが有力説であるが、そこは現・桜川の右岸(南岸)であり、桜川を渡った左岸(北岸)とする説もあって、その場合の有力な比定地が当神社付近とみられている(なお、古代には、桜川の本流は現在よりも北側を流れる現・新川だったらしい。)。


写真1:「八幡神社」鳥居


写真2:同上、狛犬と拝殿


写真3:同上、拝殿の彫刻


写真4:同上、本殿(覆屋)


写真5:同上、本殿(覆屋)内にある土浦市指定文化財(工芸品)の石造燈籠。江戸時代中期のもので、花崗岩製。これを平国香の墓としている資料もあるようだが、明らかに別物。


写真6:同上、境内社「愛宕神社」(石祠)。文政元年(1818年)建立。


写真7:同上、不動明王種子(カンマーン)塔。宝暦3年(1753年)建立。


写真8:同上、道標。「右 きよたき山向 左 一ノ矢 つくば」となっていて、境内へ移設されたもの(建立時期不明)。


写真9:同上、東側の旧「鎌倉街道」とされる道路(現・土浦市真鍋方面へ)。この先(北)の土浦市殿里には、この道路に沿って「長道路(ながどうろ)」という小字があるという。


写真10:旧・「五社明神(五総明神)」跡地(場所:土浦市田中1-9-1付近。「田中一丁目児童公民館」の裏(北側)。)


写真11:同上、「平国香公碑」。「五社明神」が「八幡神社」に合祀された際、記念に建てられたものという。

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