神が宿るところ

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愛宕神社(茨城県土浦市下高津)

2022-04-16 23:31:10 | 神社
愛宕神社(あたごじんじゃ)。
場所:茨城県土浦市下高津2-8-1。「常福寺」(前項)参道入口付近。鳥居の正面、道路の向かい側に駐車場有り。なお、社殿は「常福寺」に隣接(南東側)して同じ丘の上にある。
社伝によれば、天慶年間(938~947年)、平将門と争っていた平貞盛(常陸平氏の祖・平国香の嫡男)が東国平定を祈願して創建したとされる。戦国時代には、小田氏の家臣で土浦城主となった菅谷勝貞の崇敬を受けた。江戸時代になると、土浦城の鬼門除けとして土浦城主・土屋氏の庇護を受け、社殿等が改修された。桜川右岸(南岸)から土浦城下に入るためには、下高津と大町の間に架かる「銭亀橋」を渡るしかなかったため近在から人が集まり、商家も多く賑わっていたようで、特に鍛冶屋が多かった。それで、火の神である「愛宕神社」が勧請されたといわれている。元禄12年(1699年)に火災で焼失、現在の社殿は文化8年(1811年)に再建されたもの。近世までは「愛宕権現」(本地仏:勝軍地蔵)として下高津村の鎮守であり、明治15年には村社に列した。現在の祭神は軻遇突知命(カグツチ)。
さて、当神社の社殿及び隣接する「常福寺」(前項)の本堂ともに東向きになっているが、これは参道が東側を通る旧・「水戸街道」(現・国道354号線旧道)に面していたことによるものらしい。そして、桜川右岸(南岸)の台地上にあって、霞ヶ浦をも一望できる場所として、かつては当神社の御神燈が灯台の機能を果たしていたという。古代東海道「曾禰」駅家の所在地は、土浦市上高津の「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」付近とする説が有力であるが(2022年3月26日記事参照)、「曾禰」駅家から終点である「常陸国府」(現・茨城県石岡市)に向かうルートは、現・土浦市中心部を抜けると、現・茨城県道64号線(土浦笠間線)~国道6号線、あるいはその東側の通称「国体道路」とみられているので、当神社及び「常福寺」付近を屈曲点とする方が自然な感じではある。そして、「常福寺」の創建が平安時代まで遡るとみられること(当神社の方は、やや疑問。)、「常福寺」の西側の「下高津小学校遺跡」からは、古墳時代後期~奈良・平安時代にかけての集落跡が見つかっていることからすれば、当神社と「常福寺」の辺り、あるいは、その西側辺りに「曾禰」駅家があったとしてもおかしくはないと思われる。


写真1:「愛宕神社」境内入口、鳥居


写真2:同上、社殿。向かって右手奥に「高津稲荷神社」


写真3:同上、社殿背後から。拝殿・本殿一体だが、凸型をしており、茅葺屋根が複雑な形になっている。


写真4:「下高津の道標」(土浦市指定文化財)。「愛宕神社」境内入口の道路を隔てた向かい側にある。享保18年(1733年)に建てられたもので、「右 江戸道」「左 なめ川 阿ば道」と彫られている。右は「江戸街道」(旧「水戸街道」)で、左は「根絡道(ねがらみち)」(根崎、小松方面)と「阿波街道」(小松台、大岩田方面)に分かれていたが、昭和16年に「霞ヶ浦海軍病院」が創設され(現・「国立病院機構 霞ヶ浦医療センター」)、通行不能となった。

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