井上神社(いのうえじんじゃ)。通称:大宮大明神、井上の大宮様。
場所:茨城県行方市井上1725。茨城県道183号線(山田玉造線)「井上」交差点から北東へ約850m。駐車場有り(県道の向かい側)。
社伝によれば、第14代・仲哀天皇元年の創祀(4世紀?)。「井上」というのは、「常陸国風土記」にある「玉清井」(前項)の上にあることに因むという。大同元年(806年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州征伐の途上で参詣し、大任遂行と武運長久を祈願した。また、源頼朝が当神社を「大宮」と尊称し、神領を寄進した(戦国時代に喪失。)。明治6年、村社となったが、氏子の減少等もあり、明治44年に「八幡神社」と「永井戸神社」を合併した。これにより、祭神は彦火火出見尊(ヒコホホデミ)と鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)に加え、誉田別名命(ホムタワケ)と倉稲魂命(ウカノミタマ)の2柱が合祀された。なお、現在の本殿は合併した「八幡神社」の本殿を移築したものとされ、行方市指定有形文化財。元の「八幡神社」は、建保元年(1213年)に当時の領主(地頭)・下河辺安房守が勧請・創祀したもので、代々下河辺氏の氏神だったという。
なお、当神社のすぐ北西側に「井上廃寺」と呼ばれる古代寺院遺跡があるが、当神社境内に「井上廃寺」の礎石とされるものが多数置かれている。また、当神社の北に「長者郭」という地名があり、そこから古代官道とほぼ同じ道筋とされる茨城県道50号線(水戸神栖線)(この辺りでは、現・行方市井上と同・行戸の大字界でもある。)の西側に「井上長者館跡」(次項予定)があったとされている。あるいは、これが行方郡家跡かもしれないという。とすれば、当神社も行方郡家に関連があり、その権威が高かったのかもしれない(なお、「国神神社」(2022年11月12日記事)参照)。
行方市のHPから(井上神社本殿)
写真1:「井上神社」鳥居と社号標
写真2:拝殿
写真3:本殿
写真4:社殿背後の石祠
写真5:境内にある「井上廃寺」の礎石?
写真6:同上
場所:茨城県行方市井上1725。茨城県道183号線(山田玉造線)「井上」交差点から北東へ約850m。駐車場有り(県道の向かい側)。
社伝によれば、第14代・仲哀天皇元年の創祀(4世紀?)。「井上」というのは、「常陸国風土記」にある「玉清井」(前項)の上にあることに因むという。大同元年(806年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥州征伐の途上で参詣し、大任遂行と武運長久を祈願した。また、源頼朝が当神社を「大宮」と尊称し、神領を寄進した(戦国時代に喪失。)。明治6年、村社となったが、氏子の減少等もあり、明治44年に「八幡神社」と「永井戸神社」を合併した。これにより、祭神は彦火火出見尊(ヒコホホデミ)と鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)に加え、誉田別名命(ホムタワケ)と倉稲魂命(ウカノミタマ)の2柱が合祀された。なお、現在の本殿は合併した「八幡神社」の本殿を移築したものとされ、行方市指定有形文化財。元の「八幡神社」は、建保元年(1213年)に当時の領主(地頭)・下河辺安房守が勧請・創祀したもので、代々下河辺氏の氏神だったという。
なお、当神社のすぐ北西側に「井上廃寺」と呼ばれる古代寺院遺跡があるが、当神社境内に「井上廃寺」の礎石とされるものが多数置かれている。また、当神社の北に「長者郭」という地名があり、そこから古代官道とほぼ同じ道筋とされる茨城県道50号線(水戸神栖線)(この辺りでは、現・行方市井上と同・行戸の大字界でもある。)の西側に「井上長者館跡」(次項予定)があったとされている。あるいは、これが行方郡家跡かもしれないという。とすれば、当神社も行方郡家に関連があり、その権威が高かったのかもしれない(なお、「国神神社」(2022年11月12日記事)参照)。
行方市のHPから(井上神社本殿)
写真1:「井上神社」鳥居と社号標
写真2:拝殿
写真3:本殿
写真4:社殿背後の石祠
写真5:境内にある「井上廃寺」の礎石?
写真6:同上
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