神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

愛宕神社(静岡市葵区沓谷)

2011-06-10 21:56:19 | 神社
愛宕神社(あたごじんじゃ)。
場所:静岡市葵区沓谷3-9-21(社務所)。社殿は谷津山の北東の峰(通称:愛宕山)上にあり、県道67号線(静岡清水線、通称「北街道」の新道)沿いにある「なか卯静岡沓谷店」と「くら寿司静岡沓谷店」の間の道を入る。駐車場なし。
当神社の創建は、天正13年(1585年)。徳川家康公により、京都の「愛宕神社」から勧請されたもの。ただし、当時、京都「愛宕神社」は別当寺である「朝日山 白雲寺」支配下にあり、修験道も盛んであったため、勧請されたのは「愛宕山大権現」で、その本地仏とされた勝軍地蔵菩薩であった。勝軍地蔵は、甲冑姿で騎馬の像が多く造られ、戦国時代以降、武家の信仰が篤かった。もともと地蔵菩薩は道祖神(賽の神)と習合しており、このため、外敵や疫病の侵入を防ぐ御利益があるとされた。そこで、家康公は、駿府城の鬼門(艮=北東)封じのために「愛宕山大権現」を勧請したらしい。明治の神仏分離により、本家の京都「愛宕神社」同様、仏教色は排除され、迦具突智命(カグツチ)を主祭神としている。
谷津山には「柚木山神古墳」(2010年10月29日記事)などがあり、古代から聖地だったが、北側に古代東海道(駅路)、南側に北街道(中世東海道。古代の伝路?)を見下ろす位置にあることから、戦略上の要衝でもあった。そこで、鎌倉時代初期から山城が築かれ、その後も今川氏、武田信玄、徳川家康公まで使用されたらしい。現在の「愛宕神社」の鎮座地は通称「愛宕山城」の本曲輪だったようだ。
さて、当神社の表参道の入口には「秘境 愛宕山」という石碑が建っており(写真1~2)、薄暗く長い石段を上っていく。この石段には「鬼の鐙」という別名があり、「修験道では、鬼が一夜で石の坂道を造ったという伝承がある。」という朽ちかけた説明板もある。更に、三ツ鳥居(三輪鳥居)があることにも、吃驚する(写真2)。藤枝市役所のHPの観光情報では、式内社「神神社」の項で、同神社本殿裏の三ツ鳥居は「県内で唯一の珍しいもの」と紹介しているが、ここにもあったのである。更に上っていくと、「愛宕神社」より一段低いところ(愛宕山城の三の曲輪があったところ)に小祠があり、向かって右が「大頭龍神社」、左が「愛宕山太郎坊」となっている。詳細は不明だが、「大頭龍神社」は、静岡県菊川市加茂にある同名の神社が有名で、延暦11年(792年)に創建された古社と伝えられている。あるいは、徳川家康公が浜松から静岡に移ってきたときに勧請したのかもしれない。祭神は大物主命(オオモノヌシ)で、多分、三ツ鳥居は「大頭龍神社」のものなのだろうと思われる。ところで、東京都港区の「愛宕神社」と同様、当神社では「辰年、巳年の守り神」と宣伝しているが、東京都港区のそれは「普賢菩薩」も祀っているからで、当神社の場合は「大頭龍神社」に由来するものではないかと思うが、どうなのだろうか。「愛宕山太郎坊」は、京都・愛宕山に棲む大天狗で、日本の天狗の首領格である。「愛宕山大権現」が勧請されたとき、一緒に勧請されてきたものと思われる。京都の「愛宕神社」では、主祭神は伊弉冊命(イザナミ)で、カグツチをイザナミの第五皇子であるとして「若宮」に「太郎坊大権現」と称して祀っていたという。
山上には「愛宕神社」が鎮座している(写真4)が、江戸時代の社殿は平成11年に不審火により焼失し、現在の社殿はその再建になるが、拝殿に壁がなく、簡素だが明るい印象の社殿となっている。


「静岡市葵区自治会連合会」さんのブログから(愛宕神社大祭)


写真1:「愛宕神社」表参道入口。「秘境 愛宕山」の石碑が建っている。


写真2:「秘境 愛宕山」の石碑(拡大)


写真3:参道途中の三ツ鳥居(三輪鳥居)


写真4:「大頭龍神社」(右)と「愛宕山太郎坊」(左)


写真5:「愛宕神社」社殿


写真6:同上

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先宮神社(静岡市葵区横内)

2011-06-07 21:53:52 | 神社
先宮神社(さきのみやじんじゃ)。
場所:静岡市葵区横内111。県道67号線(静岡清水線。通称:北街道)沿い、浄土宗「来迎院」(「大用山 来迎院 英長寺」)の西隣。駐車場なし。
社伝によれば、創建は宝亀9年(778年)。創建については次のような伝説がある。往古、全国に旱魃が広がり、苦しむ庶民は降雨を祈った。すると、ある農夫の前に1人の美女が現れ、「我は神である。天下万民を救うためにやってきた。3日以内に雨が降るであろう。汝は正直者であるから、これを授ける。」と言って、榊葉を与えて消えた。すると、急に雨が降り、大地は潤った。この御神徳を讃えて小社を建てたという。農夫の前に現れた神の名は明らかでないが、この伝説に因み、農業神である保食神(ウケモチ)が現在も当神社の祭神となっている。
また、別の伝説によれば、浅間大神がここで足を濯いだということから、元は「足濯神社(あしすぎじんじゃ)」といい、当神社の北東にある「足洗」地区の地名の由来になったともいう。「静岡浅間神社」(富士新宮)の門前参道(通称「長谷通り」)は東に真っ直ぐ延びているが、「NTT西日本静岡支店」付近で直線道路は突き当たりになるが、地図上でそのまま東に延ばせば当神社に至る。そのため、「静岡浅間神社」の先にある神社ということで「先宮神社」と称するようになったという。
そして、当神社が「北街道」に面しているということが重要で、要するに、当神社は「長谷通り」と「北街道」の結節点にあるということになるのである。「北街道」は、別名「鎌倉街道」といい、中世東海道であったとされている(因みに、江戸時代に近世東海道が整備されると、その北にあることから「北街道」という名で呼ばれるようになった。)。そして、「北街道」は古代東海道と同じ条里の方向に沿っている、すなわち、古代東海道と「北街道」は平行になっていることから、「北街道」は古代の伝路だったのではないかともいわれている。駿河国府の所在地は確定されていないけれども、古代東海道(駅路)が駿河国府に面していなかったことはほぼ確実なので、伝路が駿河国府、総社(式内社「神部神社」)、安倍郡衙などを結ぶ機能を持っていたものと思われる。そういう意味で、当神社の位置の重要性が再認識されるものと思われる。


静岡県神社庁のHPから(先宮神社)


写真1:「先宮神社」鳥居


写真2:「先宮神社」本殿。なお、現在の本殿は、元は「静岡浅間神社」の山上にある「麓山神社」の本殿を移築したものという。


写真3:「北街道と横内川」の石碑。場所:「北街道」に面した「しずおか信用金庫横内支店」前(静岡市葵区太田町33-1)。
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伝・駿河国分寺の塔心礎

2011-06-03 23:04:56 | 名石・奇岩・怪岩
伝・駿河国分寺の塔心礎(するがこくぶんじのとうしんそ)。
場所:臨済宗「正覚山 菩提樹院」(しょうがくさん ぼだいじゅいん)境内。静岡市葵区沓谷1344-4。県道74号線(通称:流通センター通り)から、静岡農業高校の向かい側(西側)に少し入る。駐車場有り。
駿河国分寺の塔心礎との言い伝えがある、この石(写真2)は、昭和5年に、駿府城址内にあった日本赤十字社静岡支部(現・静岡県総合社会福祉会館付近)の庭で発見された。この場所は、駿府城の旧・横内門を入った左側の、外堀と内堀の間の敷地で、元々は興津河内守直正(駿河大納言こと徳川忠長の御用役)屋敷の大きな泉水付きの庭があった。この石には、明和8年(1771年)に、駿府城代武田越前守信村によって駿府城三之丸城代屋敷内の社の手水鉢として奉納されたことが刻まれている。したがって、駿府城築城~昭和初期まで、家老・城代クラスの屋敷の庭に、庭石のように持ち込まれたもののようだ。この石がいつから駿河国分寺の塔心礎であるといわれていたのかはわからないし、その根拠も不明。そもそも、①この石が塔心礎だったのかどうか、②塔心礎だったとして、どの寺院のものか、③その寺院はどこにあったのか、全く不明なのである。
この石は、粗面岩(安山岩)製で、大きさは約2m×1.4m×1m、石の上面に楕円形の孔があるが、元々は円形だったのを、手水鉢とするために楕円形にしたらしいという。後世の手が加わっているが、この孔は釈迦の骨(舎利)を入れる孔だったとみられており、見た目、確かに塔心礎だったように思われる。国分寺の塔は七重塔だったはずなので、思ったよりは小さめな気もするが、遠江国分寺の塔心礎と見られる石も同様な大きさとされるので、駿河国分寺の塔心礎であってもおかしくはないようだ。こうしたことから、静岡市指定文化財となっているが、駿河国分寺の塔心礎とする決め手はない。
「片山廃寺跡」の項(2011年5月31日記事)で書いたように、それを(当初の)駿河国分寺であるとする説と地方豪族の氏寺であるとする説の対立があるが、そこにはどうやら感情的な対立が絡んでいるように思われる。つまり、旧制中学校教諭という言わば在野の歴史研究家が発見したものを認めたくないという、権威(「静岡県史」執筆者等)側の反発があるように思えてならない。素人が総合的に考えるならば、「片山廃寺跡」は元の駿河国分寺であり、この石はその塔心礎であったと考えても矛盾はない。元の国分寺の塔心礎に使われた石なら、その由緒からして「名石」とされていたかもしれず、だからこそ駿府城の家老・城代クラスの屋敷の庭にまで運ばれたのかもしれない(ただし、その場合は、何らかの由緒書のようなものがあってもおかしくはないだろうが・・・。)。
さて、この石が現在置かれている「菩提樹院」は、その名から、駿河国分尼寺の後身との説もある(中世の文書には、国分僧寺は「泉動院」、国分尼寺は「菩提樹院」の名で出てくる。)。詳しい経緯は不明だが、この石は熱心な信者から昭和28年に寄進されたものという。ちなみに、「菩提樹院」の境内には「由比正雪公の首塚」という石塔も安置されている(写真3)。江戸時代のことには余り興味がないので、由来等は書かないが、今も大切に供養されているようであり、伝・駿河国分寺の塔心礎とともに一度は見ておいて損はない。
現・「菩提樹院」が駿河国分尼寺の後身であるという説については、個人的にはかなり疑わしいと思っているが、詳細は省略する。そうすると、駿河国分尼寺はどこにあったのか、所在地は全く不明のままである。一説によれば、静岡市葵区屋形町は、かつて今川氏の居館があったことに町名の由来があるという。そして、今川氏の居館は、駿河国分尼寺の跡地に建てられたのだともいうのだが、その証拠は何もない。「片山廃寺跡」が駿河国分寺であったとするなら、駿河国分尼寺もその近くにあった可能性が高いと思われる。


写真1:静岡県総合社会福祉会館(シズウエル)。場所:静岡市葵区駿府町1-70。駿府城址の旧・「横内門」を入ってすぐ左側。駿河国分寺の塔心礎とされる石が発見された場所は、この辺りにあった。


写真2:「伝・駿河国分寺の塔心礎」


写真3:「由比正雪公首塚」
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