対局開始の遙か前に対局室に入った。勿論、まだ誰も来ていない。私には私の仕事があった。一日を通して戦う対局に支障がないように、準備を抜かりなく整えることだ。座布団、脇息、ゴミ箱、お盆、机、タブレット、記録用紙、エアコン、将棋盤、駒台、すべてを完全に整える。
そして、駒。
駒の形は不思議だ。丸でも四角でもなく、蜻蛉とも木の葉とも他の何とも違う。駒にはそれぞれの顔がある。駒がなければ何も始まらない。
最後に一番大事な駒を磨く。1枚1枚魂を込めて。王将、金将、銀将。今日は美濃囲いが見られるだろうか。久しぶりに対抗形が見てみたい。飛車がいつにも増して大きく見える。激しい打ち込みがあったのだろうか、角の頭がすっかり丸くなっていた。まあ、角とはそういうものだ。これから始まる物語を思い描きながら、1枚1枚魂を込めて磨く。
1枚の香が私の手を止めた。頭がすり減って丸くなっていた。もはやどちらが前かわからない。
「お前は駄目だ」
角や桂馬はよくても香は許せない。
私は筆箱から勇者の彫刻刀を取り出して香を研いだ。こういう事態も起こり得るから、時間には余裕を持って準備を始めるのが定跡だ。研ぐほどに香車はらしくなって行く。前だけなら飛車にだって負けない。
「明日を目指せ」
香車に筋を語り、私は更に磨きをかけた。