以前に読んだ、百田尚樹さんの日本国紀、その中の面白かったテーマを追いかけている。前回は、「江戸時代の犬のお伊勢参り」、今回は「古代史の任那の日本府」だ。
任那の日本府、歴史でちょっとだけ出てきたのを覚えている。これをじっくり読もうと、写真の本を買った。執筆は大平裕さん、当然面識はないが、大平総理のご子息だそうな。また古代史は、私、ちとうるさい。学生時代に邪馬台国に興味があり、何冊も古代史本を読み、邪馬台国の候補地を訪ねて、九州に何度も脚を運んだことがある。
任那の日本府、4世紀半ばから6世紀半ばまで、朝鮮半島の南部にあった。半島の西半分の百済や東半分の新羅、それに北半分の高句麗と交流したり、戦争したりしていた。6世紀半ばには勢力が衰え、滅亡した。地図上で見ると一時期は結構な面積を占めている。
(知っていますか、任那の日本府 の中の地図 から)
ところが、山川の日本史図録(山川日本史は捨ててしまった)によると、年表と地図には、伽耶(かや、任那の別名)の名は出て来るが、任那はカッコ書きで一度だけしか出てこない。よく見ると、倭国(日本)は負けたことばかりが書かれている。何度も戦争しているということは、それなりに強いということだ。ただし、説明文などは一切ない。
これじゃわからん。歴史の流れで言うと、大和朝廷の前、その前は古墳文化、さらにその前である。応神天皇、仁徳天皇、雄略天皇、継体天皇、欽明天皇の時代のことだ。こんな時代に、日本は強力な国家になっており、朝鮮半島へ度々遠征していた。そして、日本府を設け、朝鮮南部を支配していたのである。へえ・・
そして、日本書記には、朝鮮半島とのやり取りのことなどが事細かく書かれている。しかし、戦後、日本書記は、神話とされ、歴史的価値は低い、とされて終わっている。こんなすごいこと、なぜか、ほとんどの日本人は知らないようだ。
その秘密は日本国紀に載っている。戦後、韓国の学会が日本が任那を支配していたことが気に入らないようで、そのことを認めないように、日本の学会に要求した。このため、日本の教科書には日本の任那支配の記述がない。そうか、それで納得だが、歴史の歪曲、いつものように韓国はムチャクチャだな。