物事に対して「一生懸命にやる」というのは大切だと思っています。私は極力「頑張る」という言葉を使わないようにしています。「勉強を頑張ります」「部活を頑張ります」と言葉にするのは簡単です。しかし、「頑張る」という言葉は抽象的すぎます。100のうち1やっても「頑張る」ことになるし、98やっても「頑張る」ことになる。数値目標が立てにくい部分ではあると思います。だから「自分は中学校の時よりも頑張っている」という感じで満足しています。8年くらい前には生徒の前で「嫌いな言葉は頑張る」ということを言った気がします。「頑張る」のではなく、自分ができることを精一杯やるということが大事だと話したと思います。
誰かに半強制的にやらされることははっきりいって面白くありません。勉強も同じ。自分が自分で必要と思えば勝手にやり始めます。しかし、毎日のように保護者から「勉強しなさい」と言われても本人のその気がなければ全く効果はありません。目の前にすごく美味しい料理があっても本人が「お腹いっぱい」だと思っていたらそれは「美味しそう」とは思えない。喉が渇いている人に前に水道水があったら「最高においしい」と思って飲むでしょうが、のどが渇いていない人の前に「1本1万円」の高級ミネラルウォーターが置いてあっても「飲みたい」とは思わないでしょう。結局、「本人次第」という部分が多分にありあす。
昨日久々に読んだ本の中に「努力すること」が書いてありました。努力をするのであれば本当に必要な努力をするというような内容です。進むべき方向は前なのに後ろ向きに向かって最大限の努力をしても「疲労感」が残るだけで何も残らない。大多数の人はその「疲労感」に満足してしまう。「自分はこんなに頑張っているんだ」という感覚に酔いしれる。そのことが何を生み出すのか。自己満足でしかないのです。私が耶照っていることも大きな目で見ると「自己満足」なのだと思います。誰かに何かを残したい、きちんとした指導をしていきたい、少しでもいい方向に導きたい(偉そうですね)という感覚があるからこそ大きなエネルギーを使ってやっています。
実際問題、放置していたら遠回りすることが多い。これを「無駄」と感じるか「必要悪」と感じるかでしょう。私は競技の面ではかなり遠回りをしたと思っています。指導を受ける経験がほとんどなく、試行錯誤の中でやってきました。最終的に運よく日本インカレ&日本選手権に出場することができましたが、これは本当に「偶然」というか「タイミング」だと思っています。通常私くらいの競技レベルではそこまで到達するのは不可能。競技力があったというよりは「たまたま」だったと思います。自分が遠回りしてきた分、他の人にはもっとスムーズに進む方法を知ってもらいたいと思っていました。
しかし、ある時先輩と話していて「その遠回りがあったから今がある」という話になりました。その先輩も特定の指導者がいたわけではありませんが、自分で考えながら感覚を磨いていきかなりのレベルまで到達しました。その時の経験が今の指導に生きている。そんな話でした。確かに指導者の指導に従って何も考えずに競技に取り組んでいたら楽だと思います。言われている通りにやれば自然と力が付く。しかし、自分で試行錯誤しながらやる経験がないので大きな壁にぶつかった時にその壁を乗り越えられないのではないか。ここ最近はそう感じることが増えてきました。「与えられるのが当然」という感覚になってしまうのではないか。だから相手の都合も考えず「自分が」という話になる。こういう部分が本当は大切なのに表面的に何かできればそれでよいという感覚を持つ。本当の意味での教育活動とは違うのかもしれないと感じています。
「過保護」というと言い過ぎかもしれません。そういうこともあるので総合実践の授業では「自分たちの力で乗り越える」という授業展開にしています。そう考えると私のやっていることも大きな矛盾を抱えながらの行動なのかもしれません。一方では「自分たちの力で」と言いながらもう一方では手厚く扱う。この自己矛盾。良いことではない気もしています。
自分自身の時間、自分自身の価値観、自分自身の生き方。この部分を考える。あと数年で40歳になります。人生の半分は終わってしまう。その時に自分自身の中に何かが残っているのか。本当は空っぽなのではないか。見栄を張って「自分はこんなに考えていますよ」「こんなにできるんですよ」という虚勢を張っているだけではないのか。こう考えると「自分自身の時間」という部分の使い方をもっと考えないといけない気がしています。
誰かに半強制的にやらされることははっきりいって面白くありません。勉強も同じ。自分が自分で必要と思えば勝手にやり始めます。しかし、毎日のように保護者から「勉強しなさい」と言われても本人のその気がなければ全く効果はありません。目の前にすごく美味しい料理があっても本人が「お腹いっぱい」だと思っていたらそれは「美味しそう」とは思えない。喉が渇いている人に前に水道水があったら「最高においしい」と思って飲むでしょうが、のどが渇いていない人の前に「1本1万円」の高級ミネラルウォーターが置いてあっても「飲みたい」とは思わないでしょう。結局、「本人次第」という部分が多分にありあす。
昨日久々に読んだ本の中に「努力すること」が書いてありました。努力をするのであれば本当に必要な努力をするというような内容です。進むべき方向は前なのに後ろ向きに向かって最大限の努力をしても「疲労感」が残るだけで何も残らない。大多数の人はその「疲労感」に満足してしまう。「自分はこんなに頑張っているんだ」という感覚に酔いしれる。そのことが何を生み出すのか。自己満足でしかないのです。私が耶照っていることも大きな目で見ると「自己満足」なのだと思います。誰かに何かを残したい、きちんとした指導をしていきたい、少しでもいい方向に導きたい(偉そうですね)という感覚があるからこそ大きなエネルギーを使ってやっています。
実際問題、放置していたら遠回りすることが多い。これを「無駄」と感じるか「必要悪」と感じるかでしょう。私は競技の面ではかなり遠回りをしたと思っています。指導を受ける経験がほとんどなく、試行錯誤の中でやってきました。最終的に運よく日本インカレ&日本選手権に出場することができましたが、これは本当に「偶然」というか「タイミング」だと思っています。通常私くらいの競技レベルではそこまで到達するのは不可能。競技力があったというよりは「たまたま」だったと思います。自分が遠回りしてきた分、他の人にはもっとスムーズに進む方法を知ってもらいたいと思っていました。
しかし、ある時先輩と話していて「その遠回りがあったから今がある」という話になりました。その先輩も特定の指導者がいたわけではありませんが、自分で考えながら感覚を磨いていきかなりのレベルまで到達しました。その時の経験が今の指導に生きている。そんな話でした。確かに指導者の指導に従って何も考えずに競技に取り組んでいたら楽だと思います。言われている通りにやれば自然と力が付く。しかし、自分で試行錯誤しながらやる経験がないので大きな壁にぶつかった時にその壁を乗り越えられないのではないか。ここ最近はそう感じることが増えてきました。「与えられるのが当然」という感覚になってしまうのではないか。だから相手の都合も考えず「自分が」という話になる。こういう部分が本当は大切なのに表面的に何かできればそれでよいという感覚を持つ。本当の意味での教育活動とは違うのかもしれないと感じています。
「過保護」というと言い過ぎかもしれません。そういうこともあるので総合実践の授業では「自分たちの力で乗り越える」という授業展開にしています。そう考えると私のやっていることも大きな矛盾を抱えながらの行動なのかもしれません。一方では「自分たちの力で」と言いながらもう一方では手厚く扱う。この自己矛盾。良いことではない気もしています。
自分自身の時間、自分自身の価値観、自分自身の生き方。この部分を考える。あと数年で40歳になります。人生の半分は終わってしまう。その時に自分自身の中に何かが残っているのか。本当は空っぽなのではないか。見栄を張って「自分はこんなに考えていますよ」「こんなにできるんですよ」という虚勢を張っているだけではないのか。こう考えると「自分自身の時間」という部分の使い方をもっと考えないといけない気がしています。