kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

雑記

2014-11-18 | 陸上競技
物事に対して「一生懸命にやる」というのは大切だと思っています。私は極力「頑張る」という言葉を使わないようにしています。「勉強を頑張ります」「部活を頑張ります」と言葉にするのは簡単です。しかし、「頑張る」という言葉は抽象的すぎます。100のうち1やっても「頑張る」ことになるし、98やっても「頑張る」ことになる。数値目標が立てにくい部分ではあると思います。だから「自分は中学校の時よりも頑張っている」という感じで満足しています。8年くらい前には生徒の前で「嫌いな言葉は頑張る」ということを言った気がします。「頑張る」のではなく、自分ができることを精一杯やるということが大事だと話したと思います。

誰かに半強制的にやらされることははっきりいって面白くありません。勉強も同じ。自分が自分で必要と思えば勝手にやり始めます。しかし、毎日のように保護者から「勉強しなさい」と言われても本人のその気がなければ全く効果はありません。目の前にすごく美味しい料理があっても本人が「お腹いっぱい」だと思っていたらそれは「美味しそう」とは思えない。喉が渇いている人に前に水道水があったら「最高においしい」と思って飲むでしょうが、のどが渇いていない人の前に「1本1万円」の高級ミネラルウォーターが置いてあっても「飲みたい」とは思わないでしょう。結局、「本人次第」という部分が多分にありあす。

昨日久々に読んだ本の中に「努力すること」が書いてありました。努力をするのであれば本当に必要な努力をするというような内容です。進むべき方向は前なのに後ろ向きに向かって最大限の努力をしても「疲労感」が残るだけで何も残らない。大多数の人はその「疲労感」に満足してしまう。「自分はこんなに頑張っているんだ」という感覚に酔いしれる。そのことが何を生み出すのか。自己満足でしかないのです。私が耶照っていることも大きな目で見ると「自己満足」なのだと思います。誰かに何かを残したい、きちんとした指導をしていきたい、少しでもいい方向に導きたい(偉そうですね)という感覚があるからこそ大きなエネルギーを使ってやっています。

実際問題、放置していたら遠回りすることが多い。これを「無駄」と感じるか「必要悪」と感じるかでしょう。私は競技の面ではかなり遠回りをしたと思っています。指導を受ける経験がほとんどなく、試行錯誤の中でやってきました。最終的に運よく日本インカレ&日本選手権に出場することができましたが、これは本当に「偶然」というか「タイミング」だと思っています。通常私くらいの競技レベルではそこまで到達するのは不可能。競技力があったというよりは「たまたま」だったと思います。自分が遠回りしてきた分、他の人にはもっとスムーズに進む方法を知ってもらいたいと思っていました。

しかし、ある時先輩と話していて「その遠回りがあったから今がある」という話になりました。その先輩も特定の指導者がいたわけではありませんが、自分で考えながら感覚を磨いていきかなりのレベルまで到達しました。その時の経験が今の指導に生きている。そんな話でした。確かに指導者の指導に従って何も考えずに競技に取り組んでいたら楽だと思います。言われている通りにやれば自然と力が付く。しかし、自分で試行錯誤しながらやる経験がないので大きな壁にぶつかった時にその壁を乗り越えられないのではないか。ここ最近はそう感じることが増えてきました。「与えられるのが当然」という感覚になってしまうのではないか。だから相手の都合も考えず「自分が」という話になる。こういう部分が本当は大切なのに表面的に何かできればそれでよいという感覚を持つ。本当の意味での教育活動とは違うのかもしれないと感じています。

「過保護」というと言い過ぎかもしれません。そういうこともあるので総合実践の授業では「自分たちの力で乗り越える」という授業展開にしています。そう考えると私のやっていることも大きな矛盾を抱えながらの行動なのかもしれません。一方では「自分たちの力で」と言いながらもう一方では手厚く扱う。この自己矛盾。良いことではない気もしています。

自分自身の時間、自分自身の価値観、自分自身の生き方。この部分を考える。あと数年で40歳になります。人生の半分は終わってしまう。その時に自分自身の中に何かが残っているのか。本当は空っぽなのではないか。見栄を張って「自分はこんなに考えていますよ」「こんなにできるんですよ」という虚勢を張っているだけではないのか。こう考えると「自分自身の時間」という部分の使い方をもっと考えないといけない気がしています。
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停滞

2014-11-18 | 陸上競技
かなり気分的に停滞しています。土曜日に文化祭がありこの準備に明け暮れました。クラス経営的には比較的安定していると思っています。適度な距離感があるのと「何が何でも」という部分がないからなのかもしれません。これが良いことなのかどうなのか相変わらず分かりませんが。これまでクラス経営で「これはまずい」と感じることはありませんでした。師匠が「上手くいかない人は学年が変わっても上手くいかない」という話をされていたことがあります。こういう部分ではクラス経営に関してはそれなりの適応力があるのかもしれません。

文化祭当日、何人かの卒業生が来てくれていました。前回担任をしていた子も数人。ありがたいことです。前日に「危機的状況だからタイミングが合えば来てほしい」という話をしていました。模擬店の売り上げに協力してもらうことに。そういう感じの中で卒業生が「先生、誕生日おめでとうございます」という話が出ました。「生徒にお祝いしてもらってんですよね」という話まで。何故そのことを知っているのか?と確認するとTwitterで「kanekoの誕生日」というのが拡散していたようです。確かに色々な生徒に「おめでとうございます」と言われました。この話をうちの妻にしたところ、「まー普通はそうやって祝ってもらえないんだから良いことなんじゃない」と軽く言われました。見えないところで情報が流れているというのはちょっと怖いなと思う部分がありましたが、生徒に祝ってもらえることというのはそうないのかもしれません。

が、気分的に停滞感があるのは間違いまりません。この文化祭準備の1週間、微妙な気持ちの中でやっていました。放課後すぐにあれこれ仕事が入る。こればっかりは仕方ないことだと思っています。やるべき仕事はやはりこちらですから。その部分を度外視して他のことをやり続けるというのは良いことではないと思っています。部活動業務はこういう所から考えると二の次。部活の指導をして給料をもらっているわけではありません。あくまで「ボランティア」の部分、趣味の延長の部分です。このことは一般的に受け入れられないでしょうね。中学校の顧問などは「専門外」であっても「半強制的」にその役割を求められます。

これも感覚の問題なのですが、自分の意志で「生徒のために何かしたい」と思う部分と周りから「生徒のために何かやれ」と言われるのでは全く違います。自分の内側から湧き出てくる「エネルギー」が存在して初めて「誰かのためにないかをやりたい」と思えるのではないか。これを「やるのが当たり前だからやれ」と言われるのは違う気がしています。教職員だから全ての人が同じ感情を持って人と関わっているかどうかというのは分かりません。私と同じ感覚で生徒と関わっている人がいるのかどうかも不明。これも客観的な指標があるわけではありませんから何を持って比べるのかもわからないという状況です。

あまりにも多くのことがありすぎて自分の「立ち位置」を見失っているのかもしれません。「授業をする」「付随業務をする」というのは給料をもらう対価であり、自分の人生の中の「時間」を売っていることになります。生きている時間は限られていてその時間をどのように使うか。今は最低限の生活をするために自分の人生の中の「時間」をお金で買ってもらっている。「時間」というのは限りがあります。いつも思うことですが明日今の命が失われてしまうかもしれない。その時、「時間」は止まってしまう。そうであれば限りある「時間」をどのように誰のために使うのかというのを考えなければいけません。ドライな考え方をすれば勤務時間の8時間のみで十分なのです。それ以外の時間を働くために使ってもその対価を得ることはありません。一般企業であれば多少なりと残業代が出るのかもしれませんが。今の仕事の中でそういう「対価」は一切発生しません。勤務時間をオーバーして働くことで得られる「対価」というものは形あるものとしては一切ないのです。

そうであれば「自分が納得できる形」で時間を使いたい。「生徒のために何かをしたい」と思うのであればその部分が「対価」だと思っています。しかし、ここを誰かから強制されて「生徒のために何かしなさい」と言われるのであれば自分自身の中の「気持ち」が上手く処理できないと思います。別に「何かしなさい」と強制されているわけではありません。そういう状況になった時に「納得できるか」どうかというのが自分の中の価値基準として存在しているというだけ。

気分的にかなり停滞気味です。何故そこまでしてあれこれやらなければいけないのか?そこに対価があるのか?分かりませんし、見えてきません。
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