過去と比較する。成功体験を重視し続ける。この部分は誰にでもあります。同じ仕事をしているとどうしてもこの部分から抜け切れない。「経験」は宝です。しかし、一方でその「経験」に頼りすぎてそこから抜け出せなくなるという恐ろしさもある。これは実体験をしてみないと分からないと思っています。今の仕事では対象は毎年変わってくる。それでもやるべきことは何も変わらない。学生時代に「不易」と「流行」というものが教育現場にはあると習いました。「不易」とはどの時代でも変わらないモノ、「流行」とはその時代時代で必要とされるモノ。何が正しくて何が間違っているのかはだれが判断するのでしょうか。分かりません。
少なからなず私にも成功体験といものがあります。これをやったら上手くいったということが。しかし、100人いれば100人感覚が異なる。受容する範囲も異なる。ここがどれだけ自分の中で処理できるかだと思っています。自分の性格的に「一生懸命にやる」という感覚が強くあります。誰かから求められるのではなく自然とそのような感覚になっていました。これは「自分自身が強くなりたい」という気持ちが強かったからだと思っています。実際に高校時代、大学時代は周りの人とのギャップに苦しんでいることがありました。「なんでもっと一生懸命やらないんだろう」と・・・。
いつも師匠から言われるのは「現役で一生懸命やっていた選手は指導者として上手くいかないことが多い」ということ。自分の感覚で指導する選手に関わるからだと思います。自分がやってきたこと、感じてきたことと同じ部分を指導する選手に求める。でも結局はその感覚は分かち合えないからもどかしくて上手くいかない。深く考えないタイプの人であれば「自分の指導に従っている」という感覚でできるのかもしれませんが、私のようなタイプでは「本当にこのままでいいのか」と考えすぎてしまう。これがマイナスになるという感じがあるのです。自分でもわかっているのですが・・・。
そう感じ始めて前に進めなくなりました。「教育」と「競技」の狭間の中で自分がどのように立ち振る舞えばいいのか。非常に難しい部分です。そんな時にあれこれ話をする機会がありました。また、親しい人から「この記事読んでみて」とメールをもらいました。その内容を少し紹介しておきます。
なわとび1本で何でもできるのだ
http://shoichikasuo.hatenablog.com/entry/2014/11/22/121010
以下、そのblogの文章を引用させていただきます。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
あるところに逆上がりの出来ない女の子が居ました。
授業で必死に練習しましたが、残念ながらできるようにはなりませんでした。落ち込む女の子を見た担任の先生は「放課後、一緒に練習しよう」と声をかけます。それからの放課後、先生とのマンツーマン練習が始まりました。
練習は毎日の放課後、担任の先生とマンツーマン。女の子は真面目に練習をして、先生も頑張ってアドバイスを掛けます。そんな練習も数週間が経ったある日、ついにその時が来ました。
ついに彼女は逆上がりを成功させました。初めての成功に女の子は大喜びです。先生も我が事のように一緒に喜びます。
次の瞬間、女の子は喜びながらこうつぶやきました。
「もうこれで、逆上がりの練習しなくて良いんだね!!」
これは大学時代に教授から聞いた実話です。
この話はスポーツを初め、運動指導に携わる人全てに大きな疑問を投げかけていきます。スポーツを教えるとは何か、子どもが本当に求めているものは何なのかを改めて考えたいと思います。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
実際にこのようなことはあると思います。本人はそれほど求めていないのにこちらが一方的に与えてしまい本人の意思とは別の方法に向かう。これが本当にいいことなのか。誰も正解は分かりません。実際に子供と逆上がりの練習をしていても本人が「飽きているな」と感じることはありました。それでもこちらとしては「できたほうが良いよね」と思い込んでいる。別に本人がそこまで求めていないかもしれないという感覚をこちらが理解できていない。よくよく考えてみると「教えることの押し売り」となっている。
「部活動」は自主的な活動である。同じ方向性を向いた者が集まって活動する場所である。それは当然という感覚でいました。しかし、その度合いが大きく異なるということはある。実際にやっているうちに「すごく強くなりたい」と思えるようになれば本人にとっては変化です。しかし、そこまでしなくてもいいやと思う子も数多くいるのではないか。中学段階で「競技をやろう」と決めたとしてもその想いにやはり差はある。それを受け入れることができないから私自身見えない葛藤があるのだと思います。
年を重ねていくほどになんだか無駄に考えるようになっているのかもしれません。必要な考え方と無駄な考え方。ここを自分の中で変えていかないといけないんだと思います。若干吹っ切れた気がします。選手に変わることを求めるだけでなく、私自身がもっと変わっていかなければいけないのだと感じています。過去と比べてあーだこーだ言っていたらきっと前には進めません。
うちの部は本当に0からスタートしました。県総体に出場する選手が一人もいないところからスタート。それがいつの間にかそれなり評価されるチームとなっていった。自慢しているように聞こえるかもしれませんが、私がいたからこそそれなりのレベルまで来たのだと思います。たまたまうちの学校に赴任したから、注目を集める学校になった。運も大きく影響していると思います。たまたまそういう選手が来てくれるようになったからそこまで到達したのです。あの頃の「純粋に競技と向き合う」という気持ちがいつの間にか「全国で」という気持ちにすり替わっていて気がつけばもっと上を目指すという感じになっていた。
普通の選手が集まっているのです。そこで全国優勝はなかなかできません。それなら今の競技力を大きく越えていくだけで選手にとっては大きな成長なのではないかと思います。いつも間にか理想が大きくなってきていて現状に満足しなくなっているのかもしれません。止まりたくはありません。それでも身の丈にあったことをやっていかなければいけません。何となく自分の中で答えが見えてきたのかなと感じています。
なんとなくですが。原点に戻る。これが変わることと真反対にあると感じていてそれができませんでした。戻ることも実は変化なのです。多分。そう思って進んでいきたいと思います。それしか今の私にできることはないだろうなと。
面白くない内容を書き続けていて申し訳ありません。多分、もう少しで壁を越えられそうです。
少なからなず私にも成功体験といものがあります。これをやったら上手くいったということが。しかし、100人いれば100人感覚が異なる。受容する範囲も異なる。ここがどれだけ自分の中で処理できるかだと思っています。自分の性格的に「一生懸命にやる」という感覚が強くあります。誰かから求められるのではなく自然とそのような感覚になっていました。これは「自分自身が強くなりたい」という気持ちが強かったからだと思っています。実際に高校時代、大学時代は周りの人とのギャップに苦しんでいることがありました。「なんでもっと一生懸命やらないんだろう」と・・・。
いつも師匠から言われるのは「現役で一生懸命やっていた選手は指導者として上手くいかないことが多い」ということ。自分の感覚で指導する選手に関わるからだと思います。自分がやってきたこと、感じてきたことと同じ部分を指導する選手に求める。でも結局はその感覚は分かち合えないからもどかしくて上手くいかない。深く考えないタイプの人であれば「自分の指導に従っている」という感覚でできるのかもしれませんが、私のようなタイプでは「本当にこのままでいいのか」と考えすぎてしまう。これがマイナスになるという感じがあるのです。自分でもわかっているのですが・・・。
そう感じ始めて前に進めなくなりました。「教育」と「競技」の狭間の中で自分がどのように立ち振る舞えばいいのか。非常に難しい部分です。そんな時にあれこれ話をする機会がありました。また、親しい人から「この記事読んでみて」とメールをもらいました。その内容を少し紹介しておきます。
なわとび1本で何でもできるのだ
http://shoichikasuo.hatenablog.com/entry/2014/11/22/121010
以下、そのblogの文章を引用させていただきます。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
あるところに逆上がりの出来ない女の子が居ました。
授業で必死に練習しましたが、残念ながらできるようにはなりませんでした。落ち込む女の子を見た担任の先生は「放課後、一緒に練習しよう」と声をかけます。それからの放課後、先生とのマンツーマン練習が始まりました。
練習は毎日の放課後、担任の先生とマンツーマン。女の子は真面目に練習をして、先生も頑張ってアドバイスを掛けます。そんな練習も数週間が経ったある日、ついにその時が来ました。
ついに彼女は逆上がりを成功させました。初めての成功に女の子は大喜びです。先生も我が事のように一緒に喜びます。
次の瞬間、女の子は喜びながらこうつぶやきました。
「もうこれで、逆上がりの練習しなくて良いんだね!!」
これは大学時代に教授から聞いた実話です。
この話はスポーツを初め、運動指導に携わる人全てに大きな疑問を投げかけていきます。スポーツを教えるとは何か、子どもが本当に求めているものは何なのかを改めて考えたいと思います。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
実際にこのようなことはあると思います。本人はそれほど求めていないのにこちらが一方的に与えてしまい本人の意思とは別の方法に向かう。これが本当にいいことなのか。誰も正解は分かりません。実際に子供と逆上がりの練習をしていても本人が「飽きているな」と感じることはありました。それでもこちらとしては「できたほうが良いよね」と思い込んでいる。別に本人がそこまで求めていないかもしれないという感覚をこちらが理解できていない。よくよく考えてみると「教えることの押し売り」となっている。
「部活動」は自主的な活動である。同じ方向性を向いた者が集まって活動する場所である。それは当然という感覚でいました。しかし、その度合いが大きく異なるということはある。実際にやっているうちに「すごく強くなりたい」と思えるようになれば本人にとっては変化です。しかし、そこまでしなくてもいいやと思う子も数多くいるのではないか。中学段階で「競技をやろう」と決めたとしてもその想いにやはり差はある。それを受け入れることができないから私自身見えない葛藤があるのだと思います。
年を重ねていくほどになんだか無駄に考えるようになっているのかもしれません。必要な考え方と無駄な考え方。ここを自分の中で変えていかないといけないんだと思います。若干吹っ切れた気がします。選手に変わることを求めるだけでなく、私自身がもっと変わっていかなければいけないのだと感じています。過去と比べてあーだこーだ言っていたらきっと前には進めません。
うちの部は本当に0からスタートしました。県総体に出場する選手が一人もいないところからスタート。それがいつの間にかそれなり評価されるチームとなっていった。自慢しているように聞こえるかもしれませんが、私がいたからこそそれなりのレベルまで来たのだと思います。たまたまうちの学校に赴任したから、注目を集める学校になった。運も大きく影響していると思います。たまたまそういう選手が来てくれるようになったからそこまで到達したのです。あの頃の「純粋に競技と向き合う」という気持ちがいつの間にか「全国で」という気持ちにすり替わっていて気がつけばもっと上を目指すという感じになっていた。
普通の選手が集まっているのです。そこで全国優勝はなかなかできません。それなら今の競技力を大きく越えていくだけで選手にとっては大きな成長なのではないかと思います。いつも間にか理想が大きくなってきていて現状に満足しなくなっているのかもしれません。止まりたくはありません。それでも身の丈にあったことをやっていかなければいけません。何となく自分の中で答えが見えてきたのかなと感じています。
なんとなくですが。原点に戻る。これが変わることと真反対にあると感じていてそれができませんでした。戻ることも実は変化なのです。多分。そう思って進んでいきたいと思います。それしか今の私にできることはないだろうなと。
面白くない内容を書き続けていて申し訳ありません。多分、もう少しで壁を越えられそうです。