デジャブ。そんな感覚の中で本を読みました。自分自身が何を思い、何を感じるのか。ここは大きなことだと思っています。
薦められたので凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」を読みました。これまで「流浪の月」「滅びの前のシャングリラ」の2冊を読んでいました。どちらの作品も「明るく軽快な話」ではありません。軽く読んで読後感がすっきりする話ではない。それでも引き付けられるものがありました。今回「汝、星のごとく」を薦められて「読んでみよう」と思ったのは単純に「薦められたから」ではなく「引き付けられるもの」があったからだと思います。
純粋に感じたことを書き記しておきたいと思います。たぶん、それほど面白い内容にはなりません。内面的なことになるかもしれないので。でも、この作品と出会って自分自身の「心」がどのように動いているかだけは残しておきたいなと思います。いつの日か私もこのblogを書くのを辞める。それが自らの意思で辞めるのか物理的に書けなくなるのかは分かりません。「作品」を残すという気持ちはありませんが、人の感情や想いは薄れていく。それをそのまま受け入れるのか。でも、どれだけ時間が経過しても変わらないものがある。それを自分自身がどのように感じるか。「想い」とは何か。感じるままに。
ネタバレになるようなことは書きたくないので。あしからず。
「強くありたい」と願う気持ちがあります。が、決して「強い」わけではない。それが自分自身分かっていて。誰もが「何か」を背負っている。それを捨て去ってしまえば軽くなる。作品の中に「越えてしまえば一瞬」というような表現があります。それを「越えられるか」どうかなのだと思います。「自分自身の人生を歩む」ということ。ここも何度も何度も出てきます。実際に私自身もある人からその言葉を聞いたことがあります。それは心から尊敬し、凛とした姿をもっている人でした。登場人物と重なる部分があります。誰かのために何かをする。誰かのために役割を演じる。それは「誰かのため」に何かをしているということで自分自身を保っているのかもしれない。これまでの自分自身の「生き方」を考えると結局「自分自身の人生を歩む」ということができていないのではないか。強くそう感じました。
私は聖人君子ではありません。誰からも尊敬されるような優れた人物でもない。今までの生き方を振り返ってみると結局「空っぽ」に近い人間だと思っています。器も中身もそれほどでもない。否定的にとらえるというのではなく実際にそうだと感じています。ただ、「自分がやりたいこと」を求めて生きていきたい。そう思っていたにも関わらず、「やりたいこと」が本当にできていない。全てを「置き去り」にして何かをやろうということができない。小さな小さな存在だと思います。しんどくて苦しくて。それをいつも自分の力で乗り越えることができなくて。自分の「心」を曝け出すことができない。それは誰もが同じなのかもしれません。自分らしく存在し続けられる場所。それは本当に限られているのだと思います。自分自身の「弱さ」を出せる場所。そこに出会えるかどうか。
この作品の中には「曝け出せる場所」がある。それがいつもそこにあると思い続けていて、実際はそうではなくて。現実は本当にしんどくて。でも「目に見える部分」にはそれが出てこなくて。誰もがそれを感じながら生きている。多くの人が「苦しさ」を持っている。でもそれを表に出さないだけなのかもしれない。人は「目に見えるもの」だけで様々なことを評価する。その評価基準は「自分自身の価値観」でしかない。相手の内情を考えながら行動を判断するわけではない。その人が発した「言葉」や「行動」にどのような「裏側」があるかなんてわからない。その場その場では「自分中心」で物事を見てしまう。そんな自分が「誰か」を救うことなんてできない。
今の仕事は多くの人と出会い、同じくらい別れを経験する。その中で「自分自身を曝け出せる」人と出会えることは限りなく0に近い。他の仕事のことは分からない。そう考えると本当に「狭い世界」で生きているのかもしれないなと思う。作品の中にも出てくる。「それは優しさではない、弱さだ」という言葉。心に突き刺さる感じがあります。私は「優しい人間」ではないと思う。「弱い人間」だと思う。だから「何か」を乗り越えることができない。周りから見える「自分自身」と私自身が持っている「自分自身」は明らかに違う。周囲が私をどのように評価するのかはそれほど気にならない。「弱さを見せない」ために虚勢を張る気にもなれない。しかし、本当の部分は「見せない」と思う。誰もが同じなのかもしれない。もっというとそこまで何かを考えて行動していないのかもしれない。
強くありたいと思う。が、それができるほど強くはない。それが現実。どれだけ時間がたっても「埋められない心の穴」がある。誰もが同じかもしれない。それを公言するかどうか。今の仕事をやっていて「誰かのために」と思うことが「当たり前」になっている。そういう仕事だと思うから。そうなると「自分自身の人生を歩む」ということが本当にできているのだろうか。結局は「誰かのために」という逃げ道を作って毎日を惰性で過ごしているだけではないか。全てを捨てて「自分がやりたいこと」を最優先して生きていける人は少ないのかもしれない。この作品を読む中で「自分自身」と「登場人物」の「想い」が錯綜する。本は「文字の羅列」でしかない。そこに対して読む側が何かを意味付けしている。自分以外の「誰か」に自分自身を重ねているだけなのかもしれない。
今回の作品は本当に心に強く残る。それは私だからなのかもしれない。他の人が読んで同じように感じるのかは分からない。が、今の自分自身にとって「強く突き刺さる」内容だった。作品の内容が様々な人と重なる。人は何を感じ、何を想い日々を過ごしているのか。自分の存在が誰かの「星」になれているか。誰が見ても同じ空にある「星」になれるのか。私と出会ったことを「良かった」と思ってくれる人がいるのかどうかはわからない。それほど大きな人物ではないのは当然わかっている。出会った人達にとって何かしらの意味を持つことができたか。
話の中に「互助会」という言葉が出てくる。そのような感覚。自分に足りないものを他の人が補ってくれる。他者に足りないものを自分自身が補う。「感覚の共有」とは少し違うのかもしれない。「足りない何か」を埋めることができる。考え方であったり、物質的なものであったり。自分が持っていない「何か」を埋めることができるか。それは同性だからとか異性だからとかではない気がする。作品中にも「同性愛」に関する内容が出てくる。今、この歳になって「恋愛」云々を語ることはない。誰かを好きになってという話ではないから。心が曝け出せる人は「同性」でも「異性」でも構わないのではないか。それは「恋愛」とは大きく違う軸の中にある。
今の自分が様々なことを考える。きっと多くの人が「表」には見えないけれど「内面」では考えている。それを「言葉」にするかどうかの違いはあるが、多かれ少なかれ「内面」で何かを感じながら行動を起こしている。自分自身の感覚は自分で分かる。が、それが他者から見るとどうなのか。全てを同じ「ものさし」で測ることはできない。そこに「正解」があるかどうかわからない。今の自分を過去に出会った人たちが見てどう感じるだろうか。5年前の自分が今の自分を見てどう感じるだろうか。情けない姿なのかもしれない。葛藤する姿を見ながら「きちんと進んでいる」と思うのかもしれない。これは分からない。「自分自身」が分かっているつもりでもきっと「自分のこと」は自分でもわからない。これまで時間を共有してきた教え子が今の私の姿をみたらどう感じるだろう。「おっさんやね」で終わるかもしれない。本当はそんな単純なことなのかもしれないなと思う。
上手く書けない。でも、「自分自身の人生を歩む」という言葉は大きく刺さる。それだけは確か。最近本を読むようになっている。そのきっかけをくれた教え子は「たまには自分のことを1番に考える時間を作ってもばちは当たらないと思いますよ」というメッセージを送ってくれた。救われている。世の中には「恋愛」感情だけで人を評価する部分もある。こうやって教え子からメッセージをもらうことはすでに「悪」だといわれる時代なのかもしれない。「繋がり」は目には見えない。救われているのだけは確か。今回、こうやって「汝、星のごとく」を読むことを薦めてくださった方にも救われている。一番しんどいなと思うときに「救い」がある。それは本当にありがたい、言葉では表現できない。
また書くかもしれません。書かないかもしれません。長くなりました。すみません。