色々と考えさせられています。教育そのものについても。今までの指導スタイルの見直しも含めて考えさせられています。「教育」は「教え育てる」ことです。何かを伝えていくことで変化が生まれる。変化を待つ間、かなりのストレスを感じることがあります。更には変化が感じられない部分が続くとこちらも「もういいや」という気持ちになる。
何度も書いていますが我々は聖人君主ではありません。普通の人間です。学校で全てを負担するのは間違っていると思います。このご時世、発言の一部分を切り取ってそこに対して「問題だ」と取り上げる。その前後の流れは一切関係なくなる。自由度や裁量などはほぼなくなりつつある。
教えること。話をする中で疑問が湧くようなことがあった。「教えて欲しい」と求められる。それに対して教える。それに対して「1人だけ教えるのは不平等だ」という流れになる。聞いてきたから教える。聞きに来なかった者には教えるチャンスがない。個別に聞かれて伝えたことに対して不平等だと言われたら「教える」ことは放棄せざるを得ない。
この話をある人にすると「ご飯お代わり無料」の話になった。ニュースになっていたらしい。あるお店が「ご飯お代わり無料」にしていたら利用客からクレームが付いたとのこと。自分はお代わりをしない。お代わりをしている人は自分たちよりもたくさん食べてサービスを受けている。不平等だ、と。お代わり無料はその食事の値段に「お代わり代」が含まれている。一杯しか食べない人と3杯食べる人では量が違うので不平等だと。
それによりお店は「ご飯お代わり無料」を辞めたとのこと。ここに対して「当然だ」と思う人もいれば「別にいいではないか」と感じる人もいる。この感覚の差なのだと思う。自分以外が幸福感を感じることを許容できない世の中になっている。それは強く感じる。自分がお代わりをしないのだから、他の人がお代わりをするなら有料にして高くしろ。一理あるかもしれないが全てを許容しない傾向が強くなっている。
教員は「サービスを提供する」という位置づけになっている。全員に平等に与えることが当然だと言われる。それが本当なのか。
かなり前。就職試験の面接練習をする約束をしていた。日時を指定していたが来ない。何度か時間指定をしていたが来ない。私の用事があって早く帰宅しなければいけない時に「明日試験だから面接練習して欲しい」と言いにくる。これまでの経緯を伝えて断ったら保護者から電話があった。「子どもが面接練習をして欲しいと申し出たのに断るとはどういうことか」と。これまでの経緯を伝えても「やってもらえない」ことに対して不平不満が生まれる。その前段階は全て考慮されず「サービスを受けられなかった」ことに対しての怒りをぶつけられる。
「教える」ということ。「与えられる」ことが「当たり前」になる。サービスを受けられるのが当たり前になっている。受けられないことに対しては怒りを示す。お代わり無料を許せない部分と根底で繋がっているのがはないか。
こうなると最初から「やらない方がいい」ということになる。やってクレームを付けられるのであれば必要最低限のことだけを提供してそれ以上のことをやらないようにする方が自分自身の身を守ることができる。本当に窮屈な世の中になっていく。ノイジーマイノリティ。声高に不平不満を掲げる人の意見が全てを代表しているかのような正義感があるのかもしれない。
今、職場に来たら生徒が外から入るための門を開けている。元々これは私の仕事ではない。7時前後に来るので早く来た生徒が入りやすいように「サービス」で開けているだけの話。別に開けなくても問題はない。善意でやっていることだがヘタをすると「来たのに開いていなかった」と不満を言われる可能性がある。「開いている」のが当たり前なのでそのサービスが受けられないことに対して「どうなっているんだ」という意見が出る。それなら最初から「やらない方がいい」という話になる。
教えること。何をもって「教える」ということになるのか。大きな疑問を抱きながらやっている。答えは今のところ見つからない。息苦しい世の中になりつつあるのだけは確か。考えさせられる。