あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

石井妙子著「原節子の真実」を読んで

2020-08-05 13:03:04 | Weblog

照る日曇る日第1437回


コロナ禍の夏にこの本を手にすると、

原節子の恋人は小津ではなく、清島長利であったこと。
小津作品には終始冷淡で、彼女の義兄熊谷久虎の演出で「細川ガラシャ夫人」を撮ってもらうことを終生望んでいたこと。

情人に擬せられたほど心服していたその義兄には、映画のみならず政治思想にも大きな影響を受け、彼の「九州独立政権構想」にも共鳴していたこと。
元は進歩史観を信奉していた義兄が国粋的な右翼思想にかぶれていったのは、「新しき土」ドイツ公開から帰国する途次、NYの横断歩道でぶつかった女性から罵られ唾を吐きかけられたからであること。

熊谷は戦争映画を2本しか撮って居ないにもかかわらず、大量に撮った山本嘉次郎など26人の監督から人身御供としてただ一人GHQ戦犯リストに挙げられ、「東宝」から追放されたこと。

原節子の代表作は「東京物語」とされているが、彼女は小津と小作品なんて歯牙にもかけていないこと。「細川ガラシャ夫人」は無理にしても黒沢の「羅生門」に出ていれば彼女の代表作になったろうこと。

軍部と最も癒着していた東宝の要請で黒澤や山本嘉次郎、宮島義男は兵役を免れたが、小津、山中貞男、山本薩夫は兵隊に取られ、地獄を見たこと。
よって小津は黒澤を憎んだが、その「麦秋」のラストシーンは親友山中への挽歌であること。

戦後高峰秀子はアーニ・パイル劇場の売れっ子になって、米兵からもらった箪笥の中のチョコから蛾が飛び出すほど贅沢をしていたが、原節子は占領軍の残飯を食べ、満員電車で買出しをしていたこと、

等々の興味深い事実に接することができるが、個人的にもっと興味深いのは、彼女と同い年の私の義母が、原が育った保土ヶ谷の家で赤いオベベを切り刻む彼女の母親の姿を見たことがあり、原節子が長い晩年を過ごした熊谷家のお子さんとうちの息子が幼稚園で同級生だった!ことかしら。


小津監督の『東京物語』みておれば笠智衆になりて「ありがたう」と言う我 蝶人
コメント
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