照る日曇る日第1447&8回
コロナ騒動を巷に低く見下ろしながら芭蕉を読んでみました。
まずは富山奏氏校注による「芭蕉文集」ですが、芭蕉37歳の「柴の戸」から51歳の遺書までを編年体に並べてあります。彼の比較的短かった生涯の歩みと書簡&所感を合わせて味読できるので、はなはだ重宝です。
もちろん彼の発句の大半もその中に収まっているので、「芭蕉句集」がなくても彼の芸術と人世を感得できるのですが、末尾の今栄蔵史による芭蕉の連歌作品をテキストにしての「軽み」の具体的な解説は、「芭蕉句集」に希少な価値を与えています。
「芭蕉句集」には、芭蕉19歳の処女作「春や来し年や生きけん小晦日」から死の年元禄7年秋の「この道や行く人なしに秋の暮」「この秋や何で年寄る雲に鳥」「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」などの遺作まで、全980句が並んでいて壮観ですが、個人的には「夜ㇽ竊ニ虫は月下の栗を穿ッ」「物好きや匂はぬ草にとまる蝶」「さまざまの事思ひ出す桜かな」「秋海棠西瓜の色に咲きにけり」「秋風の吹けども青し栗の毬」「鎌倉を生きて出でかん初鰹」などの秀句に目が行きました。
芭蕉という人は、その晩年には「不易流行」を基調にした「軽み」の俳諧を宣揚するようになりますが、その革命的な飛翔を準備したのは、若き日の貞門風の言語遊戯、その後の宗因風の滑稽味というホップ、ステップの2段階でした。
空前絶後の三段跳びを見事に完遂した芭蕉は、その後継者によって「俳聖」とまで讃えられていますが、芭蕉着地状態の聖句を遠いお手本とする現代俳句のつまらなさは、俳聖自身が追放克服した貞門談林の滑稽とシュールが欠如しているからかもしれません。
延宝8年の冬、当時37歳で江戸の超売れっ子俳諧師であった芭蕉は、金と名誉の「点取俳諧」「座敷乞食」の非芸術的境遇を放棄して、孤独清貧の真剣求道俳諧へと干カレイのごとき痩身を投じます。
芭蕉の画期をなしたのは、彼が41歳から42歳まで列島を経めぐった「野ざらし紀行」でした。深川隠棲の芭蕉庵を捨て、「行脚漂白を魂とする俳諧道建立の旅」へと出立したその悲壮な決意は、劈頭の「野ざらしを心に風のしむ身かな」を読んだだけでただちに理解されます。
そして「野ざらし紀行」につづく46歳の折の「おくのほそ道」、そして51歳の大坂への最期の旅というように、芭蕉は終生旅に生き、そしてついには羇旅の最中に没したのでした。
天青に三十七の花が咲く今日一日を君らと生きよう 蝶人