あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

プルースト著・吉川一義訳「失われた時を求めて 13」を読んで 

2019-03-04 10:39:29 | Weblog


照る日曇る日 第1208回


プルースト選手の大著もいよいよ大詰めを迎え、第7編の「見出された時」に突入することになった。といっても実際に汗をかいているのは吉川選手だけど。

ここまで悠揚迫らずゆったりとアダージョで流れてきた物語と、それが対象化している時間は、突如アレグロに瀬を早めたり、かと思うといきなり10年も20年も間歇温泉状態になって停止していたり、かと思うと、フローベールの「感情教育」に見習って突如蠕動を再開したりする。

すでに小説の現場では、第2次大戦が始まっていて、フランスはドイツの猛攻を受けてランスの大聖堂が崩壊したりしているが、我らがシャルリュス男爵は、「巴里が燃えてもわしゃしらん」とばかりに、自分が出資した男娼館に日参して離反した恋人モレルのそっくりさんに手足を鎖で縛らせ、鋭い鋲がついたバラ鞭で乱打されて苦痛の叫びを上げながら、恍惚のエクスタシーの世界に没入しておりやす。

本巻におけるクライマクスは、初巻の冒頭につながるゲルマント大公邸における「わたし」の体験で、突然よみがえったマドレーヌの味覚、高低差のある敷石の違和感が、「わたし」の精神を懐かしの「コンブレーの方」、「ゲルマントの方」へと向かわせ、わたしは戦中戦後の長い空白を経て、少年時代にそこで見知った土地や自然や家や「花咲く乙女たち」の真実の姿と向き合うようになるのです。

どこか遠くて深いところに隠されていた「無意識的記憶」が突如蘇ると、「わたし」はいい知れぬ幸福感に包まれるが、それは時間の秩序から抜け出した「一瞬の時」が、これまた一瞬真の自我に目醒めた人間を、我々のうちに再創造し、そのエッセンスを感知させてくれる、というのでしょうか。

いわば万骨枯れて時間の外に出る特権を獲得した「わたし」=プルーストは、文学や絵画、あるいは人世全体を淡々と観想するニーチェ、あるいはワーグナー的高みに立って、遂にはかく断言するにいたるのです。

「この人間にとって「死」という語はもはや意味を持たないということが理解できる。時間の埒外にある人間であれば、未来のなにを怖れることがあろう?」
「真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である。」

かくしてプルーストならではの独自の文学観、人生観、そして、嫌な言葉ですが、世界観がこここに誕生したと申せましょう。

  八隅しし吾大王の高照らす日の皇子らはいかに御座すや 蝶人

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