節分。明日には季節がまた進むのだが、気温は1度、ここ数日来でもっとも寒く、雲も多い朝。
作家で政治家の石原慎太郎氏が、一昨日亡くなった。89歳、すい臓癌を患っていたそうで、ご冥福をお祈りする。昭和7年生まれなので、亡くなった舅と同い年、亡父の3歳上だから、戦争のことをよく覚えている昭和ヒトケタ世代だ。”石原慎太郎”の名前はわが家でも時々でてきた。それというのも石原氏の家が私の実家から近かったからだろうか。赤いランプが点いている警官の詰所の前をたまに通ることがあった。もちろん、選挙区は大田区だったが、私の実家とは住所が違い、あちらは高級住宅街の方だった。奇遇と言えるほどのものではないが、妻の実家の寺は石原家と同じで、これからは墓参で前を通ることになるだろう。
NHK、朝日新聞、日経新聞などで石原氏の評伝を見聞きしたり読んだりすると、いずれもどちらかと言えば少々意地の悪い評が多かったように思われた。私も石原氏のことはこれまでにこの記事で何度か書いている。私にとって氏は、芥川賞の選考委員をやめた時点で、過去の人となってしまったし、この先の私の人生にいくらも影響を与えることは無いと思うが、その考えに共感したこともあったので過去の記事を引き、今日はその思い出をとどめておきたい。
鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りで「亡国 寸前」と揮毫していた。
昨日、この年のぼんぼり祭りの写真を探したらそれがでてきた。
「物書きとしての緊張感を覚えさせてくれる作品がない」とのこと、私も全く同感で、いまだにそう思う。
時を同じくして石原氏は新党構想を持って「救国八策」を掲げた。
やはりこの年の芥川賞も記憶に残るものではなかった。これが最後の選評だったのかな。
尖閣諸島を購入するとぶち上げたときのこと。主権国家としてなすべきことをなしたと思った。
都知事を辞職した翌日の記事。
この先は、あまり大した足跡を残すことはできなかった。
奇妙なことに、このブログに石原氏が出てくるのはこの1年余りの間だけだった。作家として、芥川賞の選考委員を辞し、尖閣諸島の領有を主張し、都知事を辞した、この年がこの人の人生のピークだったのではないかと思う。ローソクが消える寸前にもっとも輝く時だったのではないかと思う。多才な人だったが、時間が少し足りなかったようだ。
小説『太陽の季節』の舞台は逗子。
逗子は鎌倉に比べて空が広く、街そのものが明るい。いつまでも若い街というか、小説の頃の姿がそこここに残っている。逗子海岸は遠浅で、子供たちやフラットコーテッドレトリバーのナイトともよく遊びにきたが最近はすっかりご無沙汰だ。
国道134号線越しに見える夕焼けは稲村ガ崎から見るそれとはまた違って美しい。眩しく輝いた太陽がまた1つ沈んだ。
劇場型の人でした