テレビの天気予報を聞いていたら気象予報士が”今週はまた一段、季節が進むでしょう”と、沖縄地方の梅雨明けが間近いにことを知らせていた。年々歳々、季節は繰り返されるが体は老い、あちこちにほころびが出てくる。そんなことを自覚すると生きること自体が少々面倒になってくる。なんのために死に向かって生きる必要があるのかと考えてしまうが、その答えはいつまでたっても見つからない。
身を削る思いをしながら仕事をするが、それでも万全のことなどできずにただただ落ち込む。自由と勝手の間で人間関係を気にしながら生きて、それでも行き違いをして後悔する。生まれてきてしまったことの意義が子孫を残すことだとしても、現代社会はもはやそのことに特段の意義や価値を置いていないので、子育てというものが負担になる。だから、自分が”お荷物”だという意識を持つ子供が増えてしまうのかもしれない。そんな自己肯定感の希薄な子供はさらに様々な方法でさらに差別化され、余計に苦しめられる。生きることの素晴らしさを感じることができない。
自分に関する全てが卑下され、否定されて、最後に残るのは自分の体そのものしかなくなってしまう。拒食・過食といった摂食障害、自傷、自殺、そういったものは養育環境など関係なく”自らがコントロールできる体”そのものに対し、自由に自分の意思を行使できる最後の行為だ。
コロナ禍で行動範囲が今まで以上に狭められ、ほとんどの人が閉塞状態にある。多くのことを経験し、今や老いて活動性が低下し、生活パターン・行動範囲がある程度決まっている年寄りならば引きこもり生活に耐えることもできるだろうが、世の中に何があるのか何もまだまだわからない若い人にとって”情報収集”のための行動を行うことができないのは辛いことだ。コロナ禍による空白がこの先何年続くかわからないが、それでも出来事は積み重ねられていく。私自身それらの出来事と遠く、近くに関わりながら季節とともに流されていく。
自分をしっかり確かめる