今日も1日晴天となる予報。夜には雲が出て、明日は雨のようだが、栃木県の山火事終息のためには雨雲には少しでも早くやってきてほしいと願う。
おかげさまでほぼ毎日エントリーを書いている。ブログという手段でネット上に自分の心情を載せることが自分の心の備忘録としてなのか、自己顕示欲の一表現型であるのか、私にはよくわからない。幸せに思ったこと、その反対に不幸せに思ったことを書いていると、幸せなことを表現するということがずいぶん難しいと感じる。
これはブログという表現の場に参加するということが他者からの共感を得ることを目的としているからかもしれない。怒りや不安、今なら政治不信、官僚不信、新型コロナウイルス感染症に関すること、が多くの人の共通の問題であることを前提として自分なりの考えを述べたら同意してくださる方は少なくない。それにしても、怒りとか不安を表現する言葉というのはずいぶん多くあるものだと思う。これはそれだけ人間が生きていく上で怒りや不安から逃れる必要に迫られているということを表しているのだろう。どう怒っているのか、何が不満なのか、SOSは少しでも多くの人にわかってもらわなくてはいけないから微に入り細を穿ってそのことを表現するのだ。
一方で、幸せな気持ちを言葉に表現すること、書き出すことは難しい。
誰かが”こんなことがあって私は幸せです”というのをストレートに書いてあるのを読んでもあまり面白くない。もちろん、長年フォローしているブロ友さんが結婚したとか、子供が進学した、就職したなんてことはこちらも嬉しく読ませてもらうことができる。でも、自分でそんなことを書くとなると、どう書くかは難しい。
自分はどうして嬉しいのか、どうして幸せなのかを考察してから書かないとただの聞いて聞いての自慢話に終わってしまう。
そもそも幸せとか嬉しさを表現する言葉というのも、不幸を表現する言葉にして少ないように思う。
「私のことどのぐらい好き?」
と聞かれて言葉に窮するようなもので、人を呪う言葉はいくらでも出てくるのに、最愛の人であってもその人への気持ちを表現するための言葉は少ないものだ。
自分の幸せを言語化する場合、その幸せの本質がどこにあるのかを見極めてからでないとうまくはできない。なぜ、自分は幸せでいられるのか、そのことをまず考えてから表現することが大切だ。おそらくは、感謝の気持ちを常に持つこと、他者に優しくすること、そういったことを考えたうえで表現することが大事だろう。スポーツ選手が勝ったときに仲間のへの感謝を真っ先に口にするのはこのような理由だからだ。これがただ「やったー、勝ったー、うれしー」では共感してもらうことは難しい。スポーツ選手ならずとも、普段の生活で常にそうするよう心がけていれば、文章にもそれが反映されるようになるだろうか。
謙虚でいれば
惻隠の情というのは、今の世の中通じませんね。言わなきゃわからない時代では、自分の思いを正しく伝えるのは難しいので、かえって何も言わなくなってしまうということもあり得ますね。
妻にどのくらい愛しているかと言われた時「自分が死ぬ時、そばにいてほしい」と答えたら、「私が死ぬのを見送ってもらうのでそれはダメ」と言われ、その後答えが見つからないでいます。