変貌する経済 自動車① スズキの印工場 火の手
1979年の発売以来、 スズキ自動車(本社・浜松市)の主力製品としてモデルチェンジを続けている「アルト」は、インドでは「マルチ800」と名前を変え、今年1月の生産終了まで長く“国民車”の地位を保ってきました。
2代目アルトをベースに日本国内の規格より排気量を一回り増やしたマルチ800は、83年の発売と同時にインドの小型車市場を席巻。累計販売台数は260万台を超えます。
労組幹部を逮捕
2012年7月18日午後7時すぎ、同車を製造していたマルチ・スズキ・インディア(スズキが株の56・2%保有)のハリヤナ州マネサール工場に突如火の手が上がり、瞬く間に工場内は混乱と喧騒に包まれました。
「約100人の暴徒化したインド人ワーカーが事務所に乱入し、その場にいたスタッフに暴力を加えた。死亡1人、41人が入院、46人が病院で治療した。事務所と守衛所が放火された」
スズキの翌日付の報道機関向け声明は、事件を一部労働者による「暴動」と発表しました。同社は安全確保を理由に工場を1カ月にわたってロックアウト(閉鎖)。警察は147人の労働者を逮捕し、会社は546人の常用労働者と1800人の契約労働者を即刻解雇しました。逮捕された労働者の多くが、労働組合の中心的な活動家でした。
マルチ・スズキのインドの自動車市場占有率は42%です。日本では軽自動車に特化し、トヨタ、ホンダ、日産の後塵(こうじん)を拝するスズキも、インドでは立場が逆転します。鈴木修会長は同国政財界に太いパイプを持ち、07年には自動車産業を通じて経済の発展に寄与したとして同国政府から「インド国勲章」を贈られています。
スズキにとってもインドは、13年度の売上額全体の24%、四輪販売台数の約4割を占める、最大の生産・販売拠点です。
海外投資の模範として05年に経済産業省から「日本ブランド創造貢献企業」に選ばれたこともあるマルチ・スズキ(当時の企業名はマルチ・ウドヨグ)で、なにが起きたのか。
マネサール工場に駐留する警官=2012年7月19日(ICLRの調査報告書から)
マルチ・スズキ・インディア
インド政府が打ち出した「国民車構想」にスズキが応じ、82年に「マルチ・ウドヨグ」として発足。当初の出資額はインド政府74%、スズキ26%。スズキは次第に出資比率を上げ、02年に子会社化。07年に社名を現社名に変更。
日本方式を輸出
スズキの元労働者の太田泰久さん(「スズキの職場を働きやすくする会革新懇」会長)は昨年5月、ニューヨークに本部を置く非営利団体「労働者の権利をめざす国際委員会」(ICLR)の国際調査団の一員として、約1週間、インドに入り現地の労働者らから聞き取りをしました。
現役時代、日本共産党員であることを理由とした差別を40年近くにわたって体験し、スズキの手口をつぶさに見てきた太田さんにとっても、マルチ・スズキの実態は衝撃の連続でした。
マネサール工場では、月額賃金の50%が出勤率などの「生産性」と連動しており、事前に申請していても1日休暇をとっただけで「生産性」部分の25%が削られ、3日休むと全てなくなります。
「日本でわたしたちにやられたことが海外に輸出され、輪をかけた形でインドの労働者に押し付けられていた。彼らの話を聞きながら涙がこらえきれず、声を上げて泣いてしまった」(太田さん)
「暴動」の実態も会社の発表とは異なるものでした。
◇
海外での生産へと傾斜を続ける自動車業界でなにが起きているのか、その実態を追います。
(つづく)(9回連載の予定です)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年7月24日付掲載
日本式の労務管理がインドへも輸出され、インドの労働者が苦しんでいる。それも作られた暴徒による「襲撃」が労働者の責任にされ、処罰を受ける。
ひどいやり方です。
1979年の発売以来、 スズキ自動車(本社・浜松市)の主力製品としてモデルチェンジを続けている「アルト」は、インドでは「マルチ800」と名前を変え、今年1月の生産終了まで長く“国民車”の地位を保ってきました。
2代目アルトをベースに日本国内の規格より排気量を一回り増やしたマルチ800は、83年の発売と同時にインドの小型車市場を席巻。累計販売台数は260万台を超えます。
労組幹部を逮捕
2012年7月18日午後7時すぎ、同車を製造していたマルチ・スズキ・インディア(スズキが株の56・2%保有)のハリヤナ州マネサール工場に突如火の手が上がり、瞬く間に工場内は混乱と喧騒に包まれました。
「約100人の暴徒化したインド人ワーカーが事務所に乱入し、その場にいたスタッフに暴力を加えた。死亡1人、41人が入院、46人が病院で治療した。事務所と守衛所が放火された」
スズキの翌日付の報道機関向け声明は、事件を一部労働者による「暴動」と発表しました。同社は安全確保を理由に工場を1カ月にわたってロックアウト(閉鎖)。警察は147人の労働者を逮捕し、会社は546人の常用労働者と1800人の契約労働者を即刻解雇しました。逮捕された労働者の多くが、労働組合の中心的な活動家でした。
マルチ・スズキのインドの自動車市場占有率は42%です。日本では軽自動車に特化し、トヨタ、ホンダ、日産の後塵(こうじん)を拝するスズキも、インドでは立場が逆転します。鈴木修会長は同国政財界に太いパイプを持ち、07年には自動車産業を通じて経済の発展に寄与したとして同国政府から「インド国勲章」を贈られています。
スズキにとってもインドは、13年度の売上額全体の24%、四輪販売台数の約4割を占める、最大の生産・販売拠点です。
海外投資の模範として05年に経済産業省から「日本ブランド創造貢献企業」に選ばれたこともあるマルチ・スズキ(当時の企業名はマルチ・ウドヨグ)で、なにが起きたのか。
マネサール工場に駐留する警官=2012年7月19日(ICLRの調査報告書から)
マルチ・スズキ・インディア
インド政府が打ち出した「国民車構想」にスズキが応じ、82年に「マルチ・ウドヨグ」として発足。当初の出資額はインド政府74%、スズキ26%。スズキは次第に出資比率を上げ、02年に子会社化。07年に社名を現社名に変更。
日本方式を輸出
スズキの元労働者の太田泰久さん(「スズキの職場を働きやすくする会革新懇」会長)は昨年5月、ニューヨークに本部を置く非営利団体「労働者の権利をめざす国際委員会」(ICLR)の国際調査団の一員として、約1週間、インドに入り現地の労働者らから聞き取りをしました。
現役時代、日本共産党員であることを理由とした差別を40年近くにわたって体験し、スズキの手口をつぶさに見てきた太田さんにとっても、マルチ・スズキの実態は衝撃の連続でした。
マネサール工場では、月額賃金の50%が出勤率などの「生産性」と連動しており、事前に申請していても1日休暇をとっただけで「生産性」部分の25%が削られ、3日休むと全てなくなります。
「日本でわたしたちにやられたことが海外に輸出され、輪をかけた形でインドの労働者に押し付けられていた。彼らの話を聞きながら涙がこらえきれず、声を上げて泣いてしまった」(太田さん)
「暴動」の実態も会社の発表とは異なるものでした。
◇
海外での生産へと傾斜を続ける自動車業界でなにが起きているのか、その実態を追います。
(つづく)(9回連載の予定です)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年7月24日付掲載
日本式の労務管理がインドへも輸出され、インドの労働者が苦しんでいる。それも作られた暴徒による「襲撃」が労働者の責任にされ、処罰を受ける。
ひどいやり方です。