森有正著『生きることと 考えること』講談社現代新書から拾ったことば。
私は、ひとりで坐っているのが好きなんです。つまり、そういうひとりでいる時間を、できるだけ静かにするために、ほうぼうを歩き回るのです。歩いて回るのは、つまりはもとへ戻って、またそこにゆっくり坐るためなのです。坐っていたのでは自分が豊かにならないから、いろんなものを見たり、いろんなものを聞いたり、いろんな人と交わったりして、またもとのところへ帰ってきてそういうふうなものを思い出したり、そういったものを深めながら…結局、じっと坐っている自分をもっと豊かにしたいためにあちこち歩きます。
かつて、「はるかに行くことは、遠くから自分に帰ってくることだ」と書きましたが、これを極端にいうならば、遠くから自分に帰ってくるために、はるかに出かけていく。それでまた自分に帰ってくるわけです。
自分の生活には、運動と静けさ、活動と休息というようなものが、大きな一つのリズムになっているように思います。(本書p62~)
私は、しばしば、彫刻とか、建築とか、絵画とかを見て歩くわけですけれど、それだけでなく、自然自体の中にはいっていくのが好きです。ずいぶんほうぼうへ旅行しました。しかし私にとって、旅それ自体には、ほとんど意味がありません。それが私の生活というものを象徴しているのです。つまり、何かに出会いに私は出かけている。自分のところにいたら何に出会うこともできないから、旅に出るだけの話です。なにかいいものがあったら、必ずこっちから捜しにいかなくてはいけない。待っていたら何もこないと思うのです。それで私は旅に出かける。(p65~)
おのおの人は、それぞれに自分の「内部的な促し」というものを持っております。そして私は、自分の生活はいろいろな状態になりましたけれども、やはり、自分の「内面的な促し」にしたがっているわけです。そして、この「内面的な促し」に忠実に生きようとするときに、ある状態ーつまり、孤独なら孤独としか呼びようのないような状態におちいってくるわけです。(p68~)
感覚は自分の感覚しかない。人の感覚は自分の感覚にならないということが根本にあります。そして、自分の感覚というのは、あらゆる思想、あらゆる作品のもとにあるものです。人によってつくり出されたり、傷つけられたりするのではなくて、あくまで独立してそこにあって、人はそれに出会うことしかできないわけです。したがって、「自由」ということとも本質的に関係してきます。つまり自分にとって、置きかえることのできない、自分に固有のものを深めることができる探求ですから、それ以外のものは全部奴隷である、ということがいえると思います。(p70~)