里村専精師の「浄土真宗にようこそ」No56をお届けします。
学問というものは、理性中心の論議なのてすが…、
そういう理性そのものは、私たちの生存の深みには届かないものです。
理性も人間に大切な財産ではありすが、人間の尊厳を時には阻害するものです。
理性の発生する前に、人は生まれます。
気がついたら生まれていたのてすが、そういう生存の深さというものは理性を超えたものです。
ブッダが覚られた智慧というのは、生命の大自然の道理に基づくものでした。
宗教が馬鹿にされますが、キリストであれマホメットであれ理性より深いものを見つめていました。
理性には自ずから分限があるのですが、今日ではより大切なはずの智慧が疎んぜられています。
誰だって、その生命の尊厳には限りがありません。
理性に惑わず智慧に殉じてこそ、生きる感動がわき上がります。
「雑行をすてて本願に帰す」と、親鸞は如来の智慧の世界に生まれると言いました。
理性的な論述に迷った末に、出会った人間存在の真実を大切に見つめていたのでした。
あまりにも膨大な理性的な文献学から出て、親鸞は根源の願いに覚めたのでした。
そこで見たものは、連綿たる智慧の事業の確かな伝承だったのです。
同じ如来の事業が、同じ事業として人から人へ伝承されています。
「無量寿経」の回向という言葉が、世親から曇鸞へと流れます。
ここに時代が異なり、風土も違うのに、しかも同じ事業が発展的に継承されています。
このように人間に根差していながら、真実を逸らさない不滅の人間学が大切なのです。
親鸞の師匠である法然上人は、理性的な判断を否定して「不回向」と教えました。
ここにも、純粋な仏道というものが見事に継承されていると分かります。
理性の回向ではなくて、如来の智慧の事業としての回向、それが本当に仏教が教えるところでした。
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