毎田周一師の言葉をお届けします。
ある処で、「正法眼蔵」の話をしようと、
その前にゆつくり構想を練ってゐた。
処が愈々話出してみると、予め考えてゐたことが一つも役に立たない。
その場で新たな立場で解釈が独り進んでいつた。
そうだ、その場で、今自分がどう思ふかを語るべきのみであって、
予習したことを語るなぞといふことは、
永遠の今を掴む宗教の世界にはあり得ないことであった。
今こゝで私が生きるといふ表現が、宗教的表現なのだと思い知った。
「いま ここ」。
50年前、カウンセリング入門の頃のテーマでありました。
その頃、ボクは大学生。
カウンセリング関係の学習会・ワークショップ等に積極的に参加していましたが、
「いま ここ」での交流だけが勝負でした。
出身地は?出身校は?故郷は?両親は?兄弟は?姉妹は?…等々、一切尋ねられたことはありません。
また、尋ねたこともほとんどありませんでした。
『無量寿経』に、「古来現」の語があります。
「過去・未来・現在」ということでしょう。
「過去・現在・未来」といった、時間の流れ・経過ではありません。
マア、説明的に言えば、過去も未来も現在(いま ここ)での感受ということなのでしょう。
道元さんには、「而今」の語があります。
一般の座談の話題。
我々年代では、
病気の話・薬の話・手術の手柄話・年金の話・老後の話・若い頃の自慢話・家族の話・孫の自慢話・お色気…
といったところでしょうか!
マア、つまらないですなー。
「いま ここ」での呼吸の分かっている方々との座談は実に楽しい。
それと、自然な沈黙があると、「いま ここ」を感じますなー。