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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

和田誠展を見に行く

2021年12月16日 22時43分32秒 | アート
 10月9日から12月19日まで開催の「和田誠展」が大盛況である。場所は東京オペラシティ アートギャリー(京王線初台)。新国立劇場は何度も行ってるが、実はこっちは初めてである。いずれ見ようと思ってるうちに閉幕も近くなってしまった。15日に出掛けてきたが、待ち時間30分だった。最後の週末は1時間じゃ済まないだろう。しかし、これほど大々的に和田誠の業績を一覧出来る機会はしばらくないかもしれない。亡くなった時には「和田誠さんを追悼して」を書いた。本としては「銀座界隈ドキドキの日々」、また「村上春樹とイラストレーター展」でも和田誠のイラストについて書いている。

 今回は全面的に撮影可能だった。カメラは持っていなかったので、スマホで幾つか撮ることにした。和田誠はイラストレーター、グラフィックデザイナーとして仕事をした人だから、作品はほぼすべてが「複製芸術」である。今回はポスターや本の表紙などが主な展示なので、撮影可なんだろう。そういう作品にも当然ながら「原画」はあるわけだが、それらは展示されていない。(遺された原画の多くは出身の多摩美大に寄付されたはずだから、そのうち原画展も開催されるかもしれない。)映画「麻雀放浪記」の撮影台本なども出ているが、会場のほぼすべては壮大なポスター展示になっている。
(会場入口)
 タバコの「ハイライト」のパッケージで知られ、後には「週刊文春」の表紙を1977年5月12日号から務めた。(没後の現在も和田の作品を使用している。)だから全日本人が和田誠のイラストをそれと意識せずに何度となく見ているはずである。でも僕の場合は、映画雑誌キネマ旬報に連載された「お楽しみはこれからだ」で和田誠に最初に親しんだと思う。これは過去の名画(ほとんどがアメリカのミュージカルや西部劇などが多かった)の名セリフ集である。ビデオもない時代に記憶だけで書かれたもので、絵とともに軽妙洒脱なエッセイが楽しい。
 (「夜のマルグリット」)(「イエロー・サブマリン」)
 会場に入ると、もう似顔絵の氾濫。それも60年代頃の映画や音楽が多い。もういちいち細かく見なかったが、圧倒される。「イエロー・サブマリン」はビートルズが音楽を担当したアニメ映画で、その映画ポスターが上の最後の画像。
 (「チャップリンの独裁者」)
 若い時代に新宿にあった日活名画座のポスターを無償で描いていたのは有名な話。そのポスターがよくぞ残されていた。次の会場入口にずらっと展示されている。こんな名画が安く毎週見られたのである。「チャップリンの独裁者」の会のポスターが上の画像。なんと50円だったのに驚き。今の物価に直せば、どのくらいになるだろう。
(和田誠寄席)(文春表紙集)
 「和田誠寄席」というポスターもあった。これは和田誠の新作落語集らしい。柳家小三治、春風亭小朝、五街道雲助ら超豪華メンバーである。1979年にレコードになっているとウィキペディアに載っている。その当時だと、まだまだ皆若かったはず。よくぞこんなものをやったなあ。演者も若かったのに、メンバーが凄い。和田誠と小三治の追悼で、もう一回やって欲しいなあ。日活名画座の隣がずらっと一面「週刊文春表紙集」。まあ、ここはザッと見ながら通過する。
(「ガラスの動物園」)(「熱海殺人事件」)
 演劇のポスターもたくさんあった。60年代、70年代の演劇ポスターと言えば、つい横尾忠則や粟津潔の「アングラ演劇」を思い出してしまう。しかし、和田誠が手掛けたのは、紀伊國屋ホールで演じられるような公演である。テネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」は絵が素晴らしい。つかこうへい「熱海殺人事件」もあったが、紀伊國屋ホールだから横内謙介が見た舞台かもしれないなとつい思ってしまう。(「ホテル・カリフォルニア」参照。)もっとも何度もやってるはずだから、判らない。こういうポスターというのは、月日は書いてあるが、何年のものかが判らないのである。
(紙屋町さくらホテル)(圓生と志ん生)(父と暮らせば)
 それよりも井上ひさしの公演ポスターが多い。ああ、これも見た、これも見たと思い出が蘇る。こまつ座のポスターは、こんなに和田誠が手掛けていたのだったか。実はほとんど意識していなかったのだが、井上ひさしの公演ポスターはきちんと再評価しないといけない。
(スタン・ゲッツ五重奏団)(ピンキーとキラーズ)
 音楽のポスターも多い。和田誠が大好きだったジャズからスタン・ゲッツ。もう一つ「ピンキーとキラーズ」は今回絵として一番ぐらいに気に入った。和田誠が監督した映画関係、表紙絵を描いた本の数々も、もちろん沢山展示されている。しかし、割と知ってるものが多いから、画像を撮るのも飽きてきたので撮影しなかった。「怪盗ジゴマ 音楽篇」(1988)という和田誠製作・監督・作曲のステキなアニメがあるが、自然とそのテーマ曲を口ずさんでしまう。何だかスキップしたくなってくる。まあ心の中でだけど。自分の中で見た映画や演劇なんかを思い出してきて、幸せな気分になってくる。そんな展覧会だった。
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岡林信康23年ぶりのCD「復活の朝」

2021年05月02日 22時28分45秒 | アート
 岡林信康(1946~)の23年ぶりという新作CD「復活の朝」を買ってしまった。CDを買ったのはずいぶん久しぶり。そもそもCDプレーヤーが故障して、しばらく聞けなかった。配信で聞いてるわけでもなく、一年ぐらいテレビでたまに聞くぐらいだった。最近DVDとCDを一緒に再生できるプレーヤーを買って、ようやく聞けるようになったのである。クラシックや昔の英語の歌(ナット・キング・コールサイモン&ガーファンクル等)を流してることが多い。
(「復活の歌」)
 「コロナ禍の中23年ぶりに放たれる岡林信康の全曲書下ろしアルバム。等身大の姿が浮かび上がる全9曲!」と書かれている。「2020年6月にYouTube上で突如発表されたアルバムタイトル曲でもある「復活の朝」をはじめ、環境破壊生と死自身の老い平凡な日常のありがたさ画一化する社会やシステム体制への痛烈な皮肉など、今の時代の空気に切り込んだ岡林信康らしいテーマが並ぶ。アルバムのラストには1stアルバム『わたしを断罪せよ』(1969年発表)に収録された「友よ」の続編ともいえる「友よ、この旅を」で締めくくられる。」

 岡林信康って誰だと言われるかもしれない。60年代末から70年代にかけて「フォークの神様」を呼ばれた。「山谷ブルース」「手紙」「チューリップのアップリケ」などで日雇い労働者や差別をテーマにして、放送されない名曲を数多く作った。でも僕はラジオで聞いて知ったんだから、ある時期までは放送できたんだろう。これらは日本のプロテストソングの代表曲だ。
(昔の岡林信康)
 その後、労音公演に現れずに「失踪」し、まさにボブ・ディランのようにロック調に転向して再登場、はっぴいえんどをバックに、「私たちの望むものは」「それで自由になったのかい」などを歌った。前者は「私たちの望むものは 生きる苦しみではなく 私たちの望むものは 生きる喜びなのだ」と始まりながら、歌詞は転々とし「今ある不幸せに止まってはならない まだ見ぬ幸せに今跳びたつのだ」と呼びかける。後者は「あんたの言ってる自由なんで ブタ箱の中の自由さ 俺たちが欲しいのは より良い生活なんかじゃないのさ」「それで自由になったのかい それで自由になれたのかよ」と安定に向かう70年代に向かって激しく煽動した。
(「手紙 それで自由になったのかい」のシングルレコード)
 ライナーノートを松本隆が書いている。「ひとつの時代を駆け抜けて、数十年ぶりに会えない日々があって、またこうして巡り会える幸福。」70年代以後の岡林は農業をやったり、演歌に近づいて美空ひばりに曲を提供したり、民謡のリズムを取り入れた「エンヤトット」のロックを作ったり…。いろいろな道を歩いていたが、音楽活動としては自主製作はしてもプロとしてのCDは作らなかった。そして、2021年、コロナ禍の中に岡林は帰ってきたのだが…。全9曲に3千円はちょっと高いかもしれない。知らない人は手を出さないだろう。でも「友よ」の続編があるとか言われると、僕は買わずにいられない気になった。
(最近の岡林信康。ライナーノートから)
 さて、その曲は。全曲作詞も作曲も岡林信康。「復活の朝」は「高層ビルの壁がならび 太い蔦がからみついてゆく ビルは蔦の葉に飲みこまれ やがてトリの声響く深い 深い森に変わるのだろう」と始まる。「蝉しぐれ今は消え」では「この旅を終えた時 亡骸となるけれど 良き想い出となって 君の心に宿り 生き続けたいと思う」と歌う。広い意味で「環境」と「老い」が基調となっている。「コロナで会えなくなってから」「恋と愛のセレナーデ」「お坊ちゃまブルース」「アドルフ」と現代日本を風刺する。「BAD JOKE」「冬色の調べ」に続き「友よ、この旅を」。

 雨の日も風の夜も この道を歩み行く ささやかな喜びに 微笑みながら
 悲しみは新しい 喜びを運ぶのか 陽は沈み陽は昇る 歩いてゆこう
 喜びも悲しみも 受けとめて噛みしめて このたびを行こう 友よ 
 終わりの日まで 

 バラード調の調べに載せて、やはり「老い」の年月が歌われる。岡林の神話的名声を知っていて、今や高齢を迎えた人しか買わないかもしれないが、この年月の歩みを感じさせられた。
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「すみだ北斎美術館」を見る

2020年06月11日 20時47分48秒 | アート
 年金事務所に相談に行く時間が中途半端だったので、その前に「すみだ北斎美術館」に寄ってみた。ずいぶん前から作る話があったが、スカイツリーが出来ることになって本格的に建設が進んだ。2016年11月22日に開館したので、一度行きたいと思っていた。しかし、さすが「世界のホクサイ」で、外国人観光客で混雑しているようだった。今なら空いているだろうと再開の時を待っていた。
  
 場所は総武線両国駅5分。両国から錦糸町まで、線路の北側に「北斎通り」が通っている。今日は錦糸町から歩いて行ったが、結構遠かった。「北斎」というから、日本調の建物かと思うと、上の写真のような現代風のデザインなので驚いた。今は体温を測って入る。4階の「常設展」と「常設展プラス」しかやってない。でもまあ「予約制」で再開した美術館が多いので、フラッと入れるだけでも気が楽。
(ジオラマの北斎アトリエ)
 常設展で北斎の生涯がたどれる。習作時代に始まり、読本挿絵の人気イラストレーター、絵手本時代(「北斎漫画」)、錦絵の時代、晩年の肉筆画時代。様々に相貌を変えながら、88歳まで生きた。しかし、浮世絵は小さい。肉筆画も大きいのは少ないから、どうも簡単に見てしまう。まるで中高生の修学旅行のように、スイスイ出てしまった。後の用事がある時はそうなりがちだ。田布施の北斎美術館を見た時も同じだから、あまり北斎に関心がないのか。見に行きながら言うのもなんだけど。
(「富嶽三十六景」より「神奈川沖浪裏」)
 「常設展プラス」では、北斎最大の肉筆画という「隅田川両岸景色図巻」が展示されている。複製画だけど。これは隅田川両岸の寺社などを描いた不思議な感じの絵巻である。大体いったことがある場所ばかりで、江戸時代の様子が興味深い。しかし、これも一つ一つの絵は小さい。「北斎漫画」は「北斎スケッチ」と呼ばれて外国で人気だというが、絵心がなくて面白さが判らない。ロビーにはポーランドのアンジェイ・ワイダ監督関連の展示もあった。休むところもないので、そのまま出てしまった。
  
 その隣に神社があった。「野見宿禰神社」(のみのすくね)である。相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る。空襲で焼失して戦後の再建だという。横綱全員を刻印した碑があるというが、閉まっていて中に入れなかった。コロナ関連で閉鎖しているのかと思うと、調べたら今はずっと閉鎖なんだという。残念ながら横綱碑は見られないようだ。何だかなんで行ったのか判らないような記事だけど、中にはもっと北斎に関心が深い人もいるだろう。もうすぐ東京以外の人も来訪出来るようになると思う。東京在住者には今が一番空いていると思うので、一応紹介ということで。
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「窓」をめぐるアートたちー「窓展」と窓の映画

2020年01月24日 22時44分18秒 | アート
 東京国立近代美術館で開催中の「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」が非常に面白かった。(2月2日まで。)日本では欧米の有名画家や「○○美術館展」をいっぱいやっている。しかし「窓展」のようにテーマに沿って作品を集めるのは珍しい。特に「」という着眼が素晴らしい。昔から絵の中には多くの窓が描かれてきた。フェルメールの絵では大体窓近くに人物がいる。電気以前は窓からしか採光できないし、そこから背景の景色が見える。窓は建築としては「採光」と「通風」の目的があった。

 チラシに使われているのは、マティス「待つ」(愛知県美術館蔵)という作品だが、僕はむしろ昨年に見たデュフィ展に出ていた「ニースの窓辺」(島根県立美術館蔵)を思い出した。どちらの絵でも、窓の向こうに見える海の風景が心に響く。しかし、今回の展覧会では、そのような有名画家の作品より、現代アートの作品やアニメなどが面白かった。もう「窓」は採光や通風、つまり向こうの風景が見える機能だけの存在ではないんだろう。
 (マティス「待つ」とデュフィ「ニースの窓辺」)
 大体、展覧会の最初に繰り返し上映されているのは、「キートンの蒸気船」の窓が倒れてくる映像である。家の前面が倒れてくると、ちょうど窓のところにバスター・キートンがいて無事である。有名なシーンだが、ここでは窓は「建物に空いた穴」である。それを強調するのが、リプチンスキーのアニメ作品「タンゴ」だ。ボールが入ってしまい少年が窓を乗り越えて部屋に取りに入る。そこから奇妙な人物が相次いで部屋を出入りする様は、何回見ても不思議で何度も見てしまった。リプチンスキーはポーランド出身の映像作家で、後で調べると「タンゴ」は1982年のアカデミー賞短編アニメ賞を受賞していた。
(「タンゴ」)
 「」そのもの不思議を見せてくれるのは、ローマン・シグネール《よろい戸》(2012)という作品。窓の双方に扇風機があって、時々スイッチが切り替わる。「よろい戸」に風が当たると窓が開くが、扇風機が切り替わると今度は逆方向に窓が開く。「窓」は建物の穴ではあるが、穴は「世界」に通じている。「風」によって、どっち側にも開く様子は「窓」について様々なことを考えさせてくれる。風がどっちにも吹かなければ、この窓は閉まったままだ。しかし、今では部屋の中にある「テレビ」や「パソコン」を通じて世界を見ることが出来る。その意味では「スマホ」も「小さな窓」になるだろう。
(「よろい戸」)
 ところでこの展覧会の途中に「関所」がある。それも作品で、アーティスト・ユニット、西京人の《第3章:ようこそ西京に―西京入国管理局》である。そこでは、『係員に「あること」をして見せないと先に進めません。ぜひチャレンジしてみてくださいね。』とホームページの案内に書かれている。「西京人」とは、小沢剛、チェン・シャオション、ギムホンソックの日中韓三国のアーティストによるユニットだという。「西京人」と名付けて作品を作っているという。
(「西京入国管理局)
 このように「窓」は単なる穴ではなく、そこから「世界」を見る仕掛けでもあった。リプチンスキーだけでなく、有名な演出家タデウシュ・カントールの作品も展示されていて、ポーランドのアートが珍しい。そこから思いをめぐらすと、イエジー・スコリモフスキーの映画「アンナと過ごした4日間」やクシシュトフ・キェシロフスキの「愛に関する短い短いフィルム」を思い出す。前者では執着する女性の家に深夜に窓から忍び込む男が出てくる。後者では団地に住む男が窓から見ている女性に愛を募らせてゆく。

 10月に中公文庫から刊行された堀江敏幸「戸惑う窓」は、「窓」をめぐる多様な見方を示してくれる。その本にも出てくるが、窓に関する映画と言えば、ヒッチコックの有名な「裏窓」を思い出す人も多いだろう。原題は「Rear Window」だが、じゃあどこかに「表窓」があるかと言えばそうではない。アメリカの高層住宅で、ドアがあるのが正面、窓が裏手にあるわけだ。日本の感覚では、南に向かって窓があるとそちらが正面、玄関が裏という感覚になる。古厩智之監督のデビュー作「この窓は君のもの」では隣家と接していて窓から板を渡して行き来できる。そんな両家の子ども同士の交際が描かれた。一方で今井正監督の1950年作品「また逢う日まで」では、戦争で引き離される岡田英次と久我美子の恋人たちがガラス窓越しにキスをする。切ない名シーンとして知られるが、窓は人を引き離すものでもあった。
  (「裏窓」と「また逢う日まで」)
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工芸館、東京最後の展覧会

2020年01月23日 22時20分15秒 | アート
 東京・北の丸公園にある「国立近代美術館工芸館」で移転前最後の展覧会をやっている。案外報道も少なくて知らない人もいるかと思うが、2020年夏までに金沢に「日本工芸館」(仮称)が新設され、工芸館所属作品はほぼ移転される。本館から400mほど離れて、レンガ建築の美しい建物が見えてくる。ここが有名な「旧近衛師団司令部庁舎」である。重要文化財指定。
   
 1910年に建てられた煉瓦作り2階建てで、設計は陸軍技師・田村鎮(やすし)という人である。この人を検索しても、この庁舎のことしか出て来ない。明治末期に最精鋭部隊の庁舎を設計するんだから、それなりの実績があると思うけど。「近衛(このえ)師団」とは、もちろん天皇と宮城(今の呼び方では皇居)を守備する軍隊である。1945年8月15日未明、「日本のいちばん長い日」で知られた近衛第一師団長の殺害事件が起こった場所である。陸軍軍務課員らが森赳中将にポツダム宣言受諾を拒否して決起を迫ったが拒絶され殺害した。その後、師団長命令を偽造して玉音盤を奪おうとした。
  
 重文指定後に修復されて、1977年から近代美術館の分館の工芸館として使用されてきた。建物は裏までグルッと見られる。屋根の上に八角形の塔が乗っているのも面白い。まあ建物が移転されるわけじゃないから、今後も見られると期待したい。建物内部や作品の中も撮影可能なものが多いが、ほとんど撮らなかった。僕にはどこまでが「工芸」なのかよく判らない。陶芸、彫金、漆芸、木工、人形などは当然だが、今行われている「所蔵作品展 パッション20 今みておきたい工芸の想い」を見ると、あまりにも多彩な表現に驚いてしまう。まあ移転前に一度訪れておきたい場所だろう。
(パッション20のチラシ)(2階に置かれた黒田辰秋の机)
 建物の隣に銅像があった。誰だろうと思うと「北白川宮能久親王」だった。幕末に最後の「輪王寺宮」として東北に赴き、その後プロシアに留学して陸軍中将まで行った。日清戦争後に「台湾征討」に派遣されマラリアで陣没した。(没後、大将に昇進。)数奇な人生を送った人である。
  
 本館の「窓展」は先に見ていたので、工芸館から九段下へ歩くことにした。林間を通り、武道館の前を通って田安門に出る。1636年に作られたとされ、重要文化財。江戸城の門の一つで、元々その辺りが田安と呼ばれていたという。後に徳川御三卿の田安家の敷地となった。
  
 門から外へ出るとお堀越しに建て替え中の九段会館が遠望できる。1934年に竣工した「軍人会館」で、壮麗な「帝冠様式」で知られた。戦後は「九段会館」と改称し、いろいろな集会で利用された。僕も何度も行ってるが、1997年の「らい予防法廃止一周年記念集会」では自分が責任者として集会を開いた思い出がある。日本遺族会が運営していたのは知っていたが、大きくて行きやすいホールが空いてなかった。「3・11」で天井が崩壊して死者が出て、以後使用できなくなった。東急不動産が複合ビルに建て直す予定だそうだ。(最初の写真、画面左が昭和館。右が九段会館のズーム。)
 
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ラウル・デュフィ展を見る

2019年12月07日 23時02分11秒 | アート
 東京・汐留の「パナソニック汐留美術館」でやってる「ラウル・デュフィ展 絵画とテキスタイル・デザイン」を見た。12月15日までで水曜休。ラウル・デュフィ(Raoul Dufy,、1877~1953)は昔から僕の大好きな画家でよく見た。最近美術館にあまり行ってないけど、実は招待券が当たったので見に行かないと。だから書くわけじゃないけど、今回の展示には今までにない特徴があるので簡単に紹介。
(ニースの窓辺)
 デュフィという画家は、陽気で明るい色調、音楽が聞こえてくような躍動、地中海の青やバラなどの赤などを駆使した「色彩の魔術師」である。もちろんムンクの「叫び」も心に訴えるし、ピカソの変幻自在もすごい。エルンストデ・キリコの幻想的世界など、心ひかれる画家は多かった。中ではデュフィは楽しすぎる感じはするけど、そういうものもあっていいじゃないかと思った。
(ラウル・デュフィ)
 中学生で「悲しみよこんにちは」(フランソワーズ・サガン)を読み、「気狂いピエロ」(ゴダール)を見た。だから「おフランス」の中でも「花の都巴里」よりも「リヴィエラ」という響きに魅力を感じたわけである。今回出ている「ニースの窓辺」が代表的だが、自分もコートダジュールの風に吹かれるような気がしてくる。音楽会を描いた絵も出ているが、そういうのがデュフィの魅力なのは間違いない。

 ところが今回は「デザイン」に焦点が当てられている。それも「テキスタイル・デザイン」って言うけど、それは何だろう。服飾やインテリアの布地や織物をデザインする人のことで、「染織家」も指すらしい。(ウィキペディアによる。)デュフィがそういう仕事をしていたとは知らなかった。最初はアポリネールの詩集の挿画を頼まれ、それが好評でデザインの注文も来たという。リヨンの絹織物製造業ビアンキーニ=フェリエ社のために、1912年から28年までデザインを提供していたんだという。それらは上流階級の女性たちを魅了したと出ている。その原画や下絵などがたくさん出ているのが特徴だ。
 
 この服装は現代に復刻された「マイ・フェア・レディ」の舞台衣装で、出口のところで撮影可能になっている。多分デュフィというだけだといいかなと思う人、特に洋裁や染織に関心のある人は必見かと思う。美術館は初めて行ったんだけど、「旧新橋停車場」の隣のビルで、美術館からエスカレーターを降りるときに上から見られるのも面白かった。
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多和田葉子、高瀬アキの「晩秋のカバレット2019」

2019年11月20日 22時50分25秒 | アート
 11月18日に両国のシアターΧ(カイ)で行われた多和田葉子(詩・朗読)、高瀬アキ(ジャズピアノ)の「晩秋のカバレット2019」の「ハムレット・マシーネ 霊話バージョン」というのに行ってきた。一体何なんだか、今ひとつよく判らないながらも、すごく刺激的で面白かった。そもそも「カバレット」って何だ。ウィキペディアを見ると、これは「キャバレー」(cabaret)でフランス語でダンスやコメディショーなどをするレストランやナイトクラブとある。ただドイツ語圏の「das Kabarett」は「文学的なバラエティー・ショー」のことだと出ている。それなら「なるほど」と納得できる。そういう感じの催しだった。
(多和田葉子)
 多和田葉子(1960~)はドイツ在住の作家で、日本語とドイツ語で小説、詩を書いている。1993年に「犬婿入り」で108回芥川賞を受けた。これは非常に面白かったが、その後読んでなかった。この間数多くの賞を受けているが、特に2018年に「献灯使」が全米図書賞を受けたことで、一気に評判が高くなった。一部では次の日本人ノーベル文学賞は多和田葉子だという呼び声も高くなっている。だからという訳でもないんだけど、「きずな」という都の退職会員向け雑誌に割引が載っていたので行ってみることにした。(千円が百円引き。)こんな催しがもう18回も続いているとは全然知らなかった。客席数300ほどだが、補助席まで満員で毎年来ているような人も多いようだった。

 今年は劇作家ハイナー・ミュラー(1929~1995)の「ハムレット・マシーネ」(Die Hamletmaschine)を基にしたものだった。誰?、何それ?という感じだけど、ミュラーはブレヒト以後最も重要な劇作家とウィキペディアに出ていた。東ドイツで活動したが当局と衝突して上演できず、西ドイツに招かれてミュラーブームが起こったという。「ハムレット・マシーネ」(1977)は代表作で、多和田葉子のハンブルク大学での修士論文テーマだった(来春日本で翻訳刊行される)と言っていた。もともと数ページのテクストで、「さまざまテクストからの引用や暗喩を織り交ぜたコラージュ的なモノローグ」なんだという。

 高瀬アキもベルリン在住で、ヨーロッパ各地でジャズや即興音楽で活躍して、多くの賞も受けている。単なる伴奏じゃなくて、お互いに掛け合いで進行するところもある。多和田作品には、言葉遊び的な部分、字や音声からの連想で発想が飛んでいくようなシーンが多いが、今回も「ハムレット・マシーネ」を基にしながらも、自由な詩の朗読として進行した。僕は時々はさまれるドイツ語も判らないし、原作も聞いたことさえなかった。どうにも評価の軸が見つからないんだけど、全然退屈しない。多和田葉子の朗読はきちんと書かれていたものだが、ピアノはほぼ即興だったとトークセッションで語られていた。

 章名だけ書いておくと、「第一章 家庭の事情」「第二章 水入らず」「第三章 美術館にて」「第四章 しゃあしゃあソーシャルメディア」「第五章 母の回収」となる。「ハムレット」を下敷きにしながら、どんどん発想が飛んでいく。「前衛朗読会」であり、多和田葉子、高瀬アキのセッションとも言える。と思ったら後ろの方から歌声が聞こえてくる。何だっけ、どこかで聴いた曲だけど…。パンフをよく見ると、小さな字で「ゲスト オペラ歌手中村まゆみ」と書いてあった。

 曲は「カルメン」と言われて、ああそうかと思った。「ハバネラ」や「闘牛士の歌」などのアリアじゃなくて、「第3幕への間奏曲」だった。言われても判らないかもしれないが、聴けば誰でも知ってる曲だ。最後がビゼーというのも判るようで判らない。結局僕には判らないんだけど、後のトークできちんと判っている人が多くて感心した。多和田さんは「朗読はやめられない趣味」だと言っていた。シアターΧだけじゃなく、早稲田大学やゲーテ・インスティテュートでもやってるらしい。「判らないけど、魂の奥に働きかけられた」感じなので、また今後も行ってみようかなと思った。
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限界芸術ーアートのとらえ方③

2019年08月16日 22時43分26秒 | アート
 芸術表現について考えるときに、まず「ジャンル」を考えることが多い。美術音楽文学…などで、さらに美術が絵画彫刻版画陶芸…などのジャンルに分けられる。写真建築映像マンガなどは、美術館で展示されることもあるけれど、今では隣接した独立ジャンルに分けることが多いだろう。さらに絵画だったら、油彩水彩テンペラパステルなどのサブジャンルに分けられる。

 そういうジャンル別に芸術を考えることもできるけど、もう一つの分け方がある。例えば小説だったら、純文学大衆文学という分け方である。日本で言えば、新人作家が芥川龍之介賞にノミネートされる「純文学」と、直木三十五賞にノミネートされる「大衆文学」に一応分類されている。もっとも推理作家の松本清張は芥川賞を受賞しているし、直木賞を受賞した山田詠美は現在芥川賞の選考委員を務めている。昔はまだ双方の差がはっきりしていたが、今じゃ両者の違いはそんなに大きくはないだろう。

 それでも他ジャンルでも、「芸術的」であるものと「大衆的」であるものに分けられることが多い。音楽だったら「クラシック」と「ポピュラー」という分け方があったし、映画でも批評家が選ぶベストテン興行収入ベストテンに入る作品には違いがあることが多い。しかし、この「純粋芸術」と「大衆芸術」という分け方は、いずれも「プロのアート作家」が職業として製作するときのものだ。

 世の中にあふれている「芸術表現」には、そのような「職業芸術」ではないものがいっぱいある。むしろ世の中に一番多いアートは、作者が作者本人の「自己満足」のために作っている。日本だったら、昔から俳句や短歌の結社がいっぱいあって、専門家じゃない人が作ってきた。また地域や職場単位の絵画展、写真展も多いし、素人の音楽バンドもいっぱいある。プロのオーケストラと一緒に歌う年末の「第九合唱団」なんてものもある。映像やパフォーマンスを自分でYouTubeに投稿する人も山のようにいる。自分じゃなくても、家族や知人の誰かは何かやってる人が多いだろう。

 そのような非専門家によって作られて大衆的に享受される芸術を、かつて鶴見俊輔は「限界芸術」と呼んだ。鶴見によれば「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」がある。「限界芸術」は英語で表記すれば、marginal art で、つまり芸術と生活の境界領域にあるということだろう。ウィキペディアを見てみると、限界芸術と鶴見が考えたものとして「落書き、民謡、盆栽、漫才、絵馬、花火、都々逸、マンガ」などが例示されている。これはインターネット出現以前のもので少し古い。デジタル技術の発展とインターネットで、アートの状況は大きく変わってしまった。
(講談社学術文庫「限界芸術」)
 ところで、鶴見による芸術の3分類は今も有効だろうか。現代では多くの商品デザインや広告も当然プロが作っている。そのような「プロの作者によって作られている」が「芸術と非芸術の境目にある」ものが多くなっているのではないか。「小説」や「レコード」(CD)では、もちろん本や音楽の内容が一番重要だけど、中には「ジャケ買い」する人もいる。映画や演劇の場合、チラシの宣伝で行く気になることがある。このような「ジャケット」や「チラシ」の作成はプロによる「限界芸術」みたいなものだ。

 あるいは公共の空間にある銅像はアートだろうか。例えば、渋谷のハチ公像や上野公園の西郷隆盛像は、芸術なんだろうか。これは素人では製作できない。間違いなくプロの仕事で、作者ももちろん判っている。だけど、誰も作家の作品とは思ってないんじゃないだろうか。もう町の風景に同化していて、作家性や作品性を感じる余地がほとんどない。これは「限界芸術」に近いのではないか。

 そうすると、いわゆる「慰安婦少女像」のケースはどう位置づけたらいいんだろうか。日本では「政治的文脈」から展示が「異化効果」を発生させてしまったが、本来は見るものに「同化」を求めるものだろう。そして、「公共空間に設置される」ことを前提にしたという意味で、「限界芸術」的なものなのではないか。「少女像」そのものと、「世界各地に設置を進める社会運動」と、「日本大使館前に設置する行為」は厳密に分けて考えるべきものだ。今のところ、「少女像」は「作家性」を幾分か帯びているけれど、長いスパンで見るならば「無名」のアート、限界芸術のようなものになっていくんじゃないかと思っている。
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アートの中の「ノイズ」ーアートのとらえ方②

2019年08月15日 20時56分54秒 | アート
 最近はそんなに演劇や展覧会にも行かなくなってしまったから、カテゴリーをもう「アート」にまとめてしまうことにした。その中で「アート論」も考えたい。「異化効果」に続いて、アートの中の「ノイズ」について。ここで言う「ノイズ」とは、複製芸術に時々見られる実際の「雑音」のことではない。昔のレコードは何度も聞いていると傷が付いて「レコード針が飛ぶ」現象が起こった。場末の映画館で昔の映画を見る時も、画面にザアザアと「雨が降る」(フィルムの傷が映写される)現象が多かった。そんなホンモノの「ノイズ」は無くなった方がうれしい。

 ここで言うアートの中の「ノイズ」というのは、芸術表現の中にある「美的基準」だけで判断するならば「余計な表現」(と思われるもの)のことである。直接的な政治的メッセージ政権批判などは、本来はアートの中の「ノイズ」に当たるだろう。もっとも、だからダメとはならない。「ノイズ」が全くない表現は考えられないし、「ノイズ」を極小にしてしまうと今度はそれが「ノイズ」に感じられてくる。現実社会には「ノイズ」が満ちているからだ。例えば人間の顔はホクロがあったり、髪が乱れたりしている。アニメ映画で主人公の顔があまりにキレイに描かれてしまうと、現代人はかえって「ノイズ」と感じる。

 こういう「ノイズ」は作家が意図して行う場合意図せずに結果的にノイズ化した場合がある。意図しないノイズの典型は、もう理解が難しくなってしまった「古文」だ。今では明治中期の一葉、鴎外らの文語文も理解しにくい。そうなると耳で聞いても、それこそ「ノイズ」としか感じられない。演劇なら古い戯曲を上演するときにアレンジすることが多い。しかし昔の映画は完成時の形で見るから、意図せざる難解さが生じることがある。昔生徒に黒澤明の「椿三十郎」を見せたことがあるが、この面白い映画が理解できないと言われてビックリした。「ゴカロウサマ」(御家老様)などセリフが理解不能だったのである。

 このように作者が意図しなくても時代とともに作品の受容度が変わって行く。今でも「ノイズ」をほとんど感じることなく受容できるアートは、モーツァルトの音楽ぐらいじゃないだろうか。特に室内楽や器楽曲は、よく言われる「天国的」という世界に浸ることができる。音楽だから、天才だからというだけじゃなく、時代的にアートの作り手と受け手がごく狭い小サークル内に止まっていたことが大きいと思う。モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったから、最晩年にはフランス革命が起きていた。だがハプスブルク帝国の首都で暮らしたモーツァルトには、まだ時代の風が届いていない。少し後のベートーヴェンだったら、もう時代の変転を無視することが出来ないわけだが。
(モーツァルト)
 そもそもアートが作家個人の「個性」の表現だという考えがおかしい。マルクス主義フロイトの「精神分析」が現れたことによって、作家の表現の中には本人も意図しない「階級的バイアス」や「無意識的領域」が反映されることが認められるようになった。20世紀後半のフェミニズム批評が登場すると、今までの表現に性差別があったことが明るみに出た。作家の表現には、多くのバイアスが入り込んでいて、もともと「ノイズだらけ」だったのである。

 そういう風にアート表現の変遷を考えてくると、一つ一つの作品に「直接的な政治的メッセージがあること」は特に大きなノイズとは考えられない。「政治的メッセージがないこと」の方がおかしいと感じられる場合だってあるだろう。最近は多くの展覧会で「政治的中立性」を理由にして展示が不可とされる事態が起こっている。しかし、政治的表現がないこと=中立ではない。どんな作品にも何らかの「政治的ノイズ」が入り込むわけだから、そのことに無意識であることが政治的な意味を持つこともある。

 ここで書いているのは一般論である。それぞれの作品を見ると、政治的メッセージが効果を上げている場合もあれば、逆にノイズが大きくなってしまう場合もあるだろう。でも、これだけ日本の各地で「表現の不自由」が起きているということは、あえて「政治的なリトマス試験紙を作るというアート表現」があってもいいはずだ。それぞれの表現自体は「ノイズ」である場合もあるだろうが、こうして現代日本の「表現の不自由」を可視化したことを考えると、この展覧会の「リトマス試験紙」的意味合いが見えてくる。
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「同化」と「異化」ーアートのとらえ方①

2019年08月13日 23時43分22秒 | アート
 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」の中止問題は非常に重大な問題だと思って、その後も注視している。いろんな人がいろんなことを言っていて、それらを批判的に紹介するのも大事だと思うが、ことはアートに関わっている。多くの人の「アートのとらえ方」も問われていると思う。そのことをテーマにして、何回か考えてみたい。アート論に関するカテゴリーを作ってないけど、とりあえず劇作家のブレヒトを取り上げるので「アート(演劇)」に入れておきたい。

 多くの人と同じように、僕も最初に接した「アート」は幼少年期の絵本とか児童文学テレビのアニメ子ども向けの映画なんかだ。60年代半ばころで、テレビの影響が強くなり始めた初期の頃である。「鉄腕アトム」とか「鉄人28号」、あるいは「ウルトラQ」(「ウルトラマン」の前にあった円谷プロの怪獣特撮もの)なんかに夢中になった。それらは大体主人公に「感情移入」して一緒になって活躍するような気持ちで見ていた。中学生になると、次第に自分で名作文学を読んだり、評判の映画を見に行くようになった。またラジオの深夜放送を通して、世界のヒット曲を聴いたりするようになった。

 そうやって新しく、自分なりに世界を考えたり人生観を作っていったわけだが、その時も大体は「価値観に同化する」ことを通してアートに接していたと思う。背伸びして三島事件以前に多くの三島由紀夫作品を読んでいたが、もちろん「仮面の告白」なんかよく判らず「潮騒」をドキドキしながら読んでたわけである。あるいは中学3年の時にリバイバルされた映画「サウンド・オブ・ミュージック」を見に行って、すごく感動して翌週も見に行って、サントラ盤のLPまで買ってしまった。(「ドレミの歌」や「エーデルワイス」なんかを英語で歌いたかったから、歌詞カードが見たかった。)歌も良かったけど、ナチスに反抗して自由を求めて脱出するというストーリーに感動したのである。

 多くのアートはジャンルは違っても、あるいは「純粋芸術」であれ「大衆芸術」であれ、「同化」が基本になっている。ストーリー性のある文学、映画、演劇などは当然、音楽や美術なんかでも同じだ。アートの「消費者」を一喜一憂させ、感情的に引っ張って行く。一年にほとんど映画を見ない人が評判を聞いて見に行く映画、それはやっぱり主人公に感情移入しやすい「同化」の映画だろう。テーマ性の強い「社会派」というジャンルも存在し、テーマを重視して高く評価する左派批評家もいたものだが、物語の構造はほとんど一般向けの娯楽作品を同じことが多い。

 だけど、僕が自我に目覚めた頃といえば、60年代後半である。ヴェトナム戦争の時代である。世界的な文化革命の時代だった。僕も自分なりに映画を見るようになると、その頃評判のアメリカン・ニューシネマゴダール大島渚の映画も見るようになった。あるいは最初はなんだかよく判らないロックやジャズ、例えばピンク・フロイドなんかを聴いたりするようにもなった。それらに慣れてくると、「同化」だけじゃ理解できない。ゴダールの「気狂いピエロ」とか「ウィークエンド」とか、僕はメチャクチャ面白かったけど、それを自分で言語化できない。面白いのはスト-リーじゃないのである。

 そんなときに読んだのが、佐藤忠男氏の「ヌーベルバーグ以後 自由をめざす映画」という本だった。(1971、中公新書)後に何冊も読む佐藤忠男氏だが、もちろんこれが初めて読んだ本である。ここで僕はドイツの劇作家ベルナルト・ブレヒトの主張した「異化効果」という概念を知ったのである。ブレヒトはそれまでのような感情移入させる「劇的演劇」を批判して、観客に批判的な思考を促す「叙事詩的演劇」を主張したのである。そして、そのための方法として「異化効果」を考えた。観客に感情移入させるのではなく、むしろ違和感をもたらして批判的考察につなげるという考え方である。
(ブレヒト)
 これは大変よく判る気がした。主人公に感情的に同化してスカッとして終わってしまう「社会派」がそれまで多かった。しかし、自分たちを取り巻く現実はもっと重くて、もっと暗いものだと思った。だから見た後に「違和感」が残り続けるような映画、演劇、文学などの方が自分なりに納得できると思ったわけである。もっともブレヒトの演劇も、今になると「三文オペラ」「セチュアンの善人」「肝っ玉おっ母とその子どもたち」など、いずれも見慣れてしまって「同化」して見られる。20世紀前半の当時は判らないと言われた音楽や美術の多くも、今では慣れてしまって「同化」して鑑賞可能だ。(例えばエリック・サティの音楽など。)時代により、社会により、何が「異化」をもたらすかは変わって行くのだろう。

 今回の「表現の不自由展・その後」の出品作品は、よく知らないものも多いけど、いずれも今までどこかで「不自由」な扱いを受けてきた作品だということだ。今回も「日本人の心を踏みにじる」などと強い不快感を持つ政治家がいる。「これは芸術ではない」などと言う人もいるが、芸術じゃなければ何も感じないはずだ。不快感を持つんだから、何らかのメッセージが届いているのである。それが「異化効果」というもんじゃないか。いや、反対者たちはこれは「政治メッセージ」であり、そのメッセージ性に反対しているだけだというかもしれない。しかし、メッセージ性を含めて「表現」なんだから、やはり「表現」として成り立っているということだと思う。
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庭園美術館で「キスリング展」を見る

2019年07月01日 23時03分19秒 | アート
 港区立郷土歴史館を見たあと、白金から目黒に下る道を10分程度、自然教育園庭園美術館が近い。自然教育園は山手線内には珍しい昔の自然を残す場所だ。その一角に旧朝香宮邸、今の東京都立庭園美術館がある。アールデコ様式の華麗な建物は、前に多くの写真で紹介した。そこで「キスリング展」(7月7日まで)が開かれている。僕はすごく好きな画家なんだけど、あまりよく知らない。いろんな美術館で、あの絵いいなと思うとキスリングだった。だから気になるんだけど、まとまったキスリング展は一度も行ったことがない。この機会に是非見てみたいと思ってたら、もう会期末が近いじゃないか。
 
 今回一番驚いたのは、チラシにも使われている絵だ。題名は『ベル=ガズー(コレット・ド・ジュヴネル)』。それだけじゃ判らないけど、解説を読んだらこの絵のモデルはコレットの娘だった。この間読んで記事を書いたフランスの女性作家コレットである。その一人娘は映画などに関わっていたとある。この絵を見て、妻は伊勢丹の袋だと言った。今調べると、現在は変わっている。紙袋の旧デザインを探してみると、2枚目の写真。うーん、確かに似ている!

 モイズ・キスリング(1891~1953)はポーランドのクラクフで生まれたユダヤ人である。フランスで活躍した「エコール・ド・パリ」派の画家だし、名前だけだと日本人には判りにくい。今まで知らなかったけど、ポーランド生まれだったのか。だからこそ、色彩にあふれた音楽のような美しい絵を書き続けたのか。画題は花や果物が多い。裸婦や肖像画、風景画ももちろん多いが、印象に残るのは様々な色だ。
『サン=トロペでの昼寝(キスリングとルネ)』
 『サン・トロペでの昼寝』と題される絵はその代表。コートダジュールの幸福と倦怠感が画面いっぱいから伝わってくる。花の絵も色彩にあふれていて、見ていて楽しい。エコール・ド・パリはモディリアーニユトリロなど破滅的、悲劇的なイメージがあるが、キスリングはちょっと違う。パリへ来て、キュビスムやフォーヴィズムに触れいろいろな影響を受けたが、次第に描き方は古典に回帰していったという。だけど、ポーランドのユダヤ人出身ということで、第二次大戦中はアメリカに亡命している。画面上はあまりそういう不安を感じさせないけど、やはり20世紀の悲劇を背負っている。

 上の絵は『モンパルナスのキキ』。このモデル女性はパリの最底辺を生きて、10代でカフェの歌手、モデルとなった女性である。モディリアーニ、ユトリロ、藤田のモデルとしても有名で、写真家・映画作家のマン・レイの愛人でもあった。本名はアリス・プラン。この絵でも赤と青の色彩が心に残る。

 庭園美術館は庭も素晴らしいが、洋風庭園の奥に日本庭園茶室がある。今まで未公開だったように思うんだけど、今日歩いていたら開いていた。この茶室も重要文化財。
   
 4枚目の写真、庭の池には緋鯉がいっぱい。木陰の中に赤がくっきり。最近はまさに梅雨という感じの天気が続き、庭園美術館もなんかどんよりしていた。それはそれで趣もある。
 
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「クリムト展 ウィーンと日本1900」を見る

2019年04月26日 23時15分12秒 | アート
 東京都美術館で「クリムト展 ウィーンと日本1900」(4.23~7.10)を見に行った。最近暖かい日が続いていたけど、今日は寒くて雨まじりの一日。金曜日だから夜20時まで開いている。クリムト展は始まったばかりだが、10連休になれば混むに決まってる。直前の金曜日の寒い夕方は狙い目かと思ったら、案の定割と空いてた。混んでるのが嫌で、最近はずいぶん見たい展覧会を逃している。クリムトは今まで余り見てないので、見てみたいと思ってた。ちょうど今、国立新美術館でも「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」という展覧会もやっている。日本・オーストリア外交樹立150周年記念の記念行事なのである。秋には国立映画アーカイブで映画特集も予定されている。

 グスタフ・クリムト(Gustav Klimt、1862~1918)は、世紀末ウィーンを代表する芸術家である。「外交樹立150年」というけど、それは「オーストリア=ハンガリー帝国」の時代である。(ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国は、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国に改組された。最近見た映画「サンセット」は、その時代のハンガリーを舞台にしていた。)第一次世界大戦でオーストリア帝国は崩壊するが、それは1918年のことだから、まさにクリムトは帝国崩壊の年に死んだことになる。
 (クリムト)
 今はなき帝国に生きたクリムトだが、その装飾的で官能的な画風、特に金箔を使った華麗な作品は人気が高い。チラシに使われている「ユディトⅠ」は代表作の一つだが、旧約聖書に出てくる女性ユディトが戦闘に勝って敵の司令官の首を切り落とす。その神話的モチーフをなんとも言えない官能的な顔の女性像として描き出す。右下に男の首を抱えている。うっかりすると女の顔に見とれて、首を見落としてしまいそうだ。そんなに大きな絵じゃなかったけど、忘れられないような絵だ。

 世紀末ウィーンハプスブルク家関連の展覧会は今まで何度も開かれているが、僕はあまり見てない。どうも少し苦手感がある。クリムトとかエゴン・シーレとか、昔から名前はよく聞いてるし、映画でも見た。なんか生き方に疑問もあるし、クリムトは生涯未婚だけど、子どもが14人いるとか言う。それも多くのモデルと子どもが出来るって、今ならセクハラ、パワハラ的な感じがするじゃないか。まあそういう俗世間に相容れない生き方が、保守的な美術界に反旗を翻して「ウィーン分離派」を形成することにもつながるんだろう。
 (ベートーヴェン・フリーズ)
 その「分離派会館」(セセッション館)にある壮大な壁画「ベートーヴェン・フリーズ」は移動不能だから本物ではないけど、正確な原寸大レプリカが展示されている。これは大きすぎて僕には全体像がよく判らない。クリムト研究をするわけじゃないから、初期の装飾の仕事、弟や仲間の仕事をじっくり見たわけじゃない。ざっと見た感じでは、装飾的な側面というのは、初期の仕事から続いている。ブルク劇場の天井画なども手がけている。そしてそこには「ジャポニズム」の影響も大きい。いやあ、この時代のジャポニズムはホントにいろんな影響があったんだなあ。
 (へレーネ・クリムトの肖像)
 もちろんクリムトには、いかにもクリムト的な絵ばかりじゃない絵もある。風景画もあるし、肖像画も多い。自画像はないというが、素朴な「へレーネ・クリムトの肖像」は弟の娘を描いている。こんな絵もいいなあと思う。小さな絵だけど、すごくいいと思った。
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三菱一号館美術館で、ラファエル前派展を見る

2019年04月04日 10時39分03秒 | アート
 ちょっと東京駅付近に行ったので、三菱一号館美術館で「ラファエル前派の軌跡展」を見てきた。東京駅は前に散歩で取り上げたことがあるが、さらに整備が進んだのはいいけど、国旗ばかりが目立つ。三菱一号館美術館は2010年に開館したが、実はまだ一度も行ったことがない。面白そうな展覧会は何度もあったけど、家から行きにくい気がして敬遠してしまった。すごく美しいレンガ建築の建物だが、実は解体された後のレプリカ建築。元は1894年にジョサイア・コンドル設計で建築されたもので、1968年に解体されていた。その後、一部は保管されていた部材も使って再建された。
  
 中へ入ると、3階へ上って展示室を回り、それから2階へ降りて展示室を見る。この展覧会は「ラファエル前派」の理論的支柱ともいえるジョン・ラスキン(1819~2000)の生誕200年記念で、ラスキンの作品が多数展示されている。しかし、ラスキンはやはり思想家であって、画家としては一流ではない。ラスキン研究という意義はあるが、僕にはよく評価できない。「ラファエル前派」というのは、19世紀半ばイギリスの芸術運動で、産業革命下のイギリスの画一的文化を嫌い、ルネサンスの画家ラファエル以前の中世的美術を理想とした。僕はウィリアム・モリスが昔から好きで、ずいぶんラファエル前派の絵も見たと思う。若い頃に見たら、ロマンティックな絵画に魅せられてしまい、今でもつい見に行く。
 (ロセッティの「魔性のヴィーナス」)
 ラファエル前派と言えば、やはりダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828~1882)だ。今回はチラシに使われてる「ヴェヌス・ヴェルティコルディア(魔性のヴィーナス)」が目を引く。しかし、正直言うとロセッティのロマンの源泉はウィリアム・モリス夫人のジェーン・バーデン。このあたりの複雑な人間関係を知ると、ロマンティックの裏にドロドロもあったんだと判る。ロセッティの名画のヴィーナスは同じ顔が多く、それはモデルが共通だから当然だけど、面長なその顔立ちが僕の好みじゃない。

 ウィリアム・モリス(1834~1896)は詩人であり、デザイナーであり、社会主義運動家だった。工業化する社会に対し、職人による手仕事を評価し、自らデザイン工房を設立した。19世紀の多くの社会実験はほとんど失敗するが、モリス商会は商業的に成り立った。この発想に興味を引かれたわけである。インドのガンディーや日本の柳宗悦に通ずるものを感じる。ソ連的な社会主義ではなく、もっと美的で詩的でユートピア的な社会を目指す試み。若い頃はそういうものに心を引かれたんだけど、やはり手仕事の一品ものは高くなるし、自分じゃ買えない。今になるとそうも思うし、モリスのデザインも飽きてきた気もした。同じような展覧会に何度か行ってると、感動は薄れてくるなあと思った。
 
 3階から一号館の庭が見られる。春めいた感じが素晴らしかった。
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静嘉堂文庫と松浦武四郎展

2018年11月29日 22時40分43秒 | アート
 世田谷区岡本にある静嘉堂文庫美術館で「松浦武四郎展」をやっている。(12月9日まで。)松浦武四郎(1818~1888)は幕末から明治にかけての探検家、著述家で、「北海道の名付け親」とよく言われる。「静嘉堂文庫」そのものに初めて行った。「静嘉堂」は三菱財閥2代目の岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の号で、三菱が集めた美術品や古書をここに収録している。
   
 東急線二子玉川(ふたこたまがわ)駅から少し遠い。バスに乗ったけど、徒歩じゃ迷ってしまったと思う。「ニコタマ」と略称される二子玉川も多分初めて下車したんじゃないか。「セタソー」(世田谷総合高校)はここにあったのか。バス停を下りると、けっこう山道みたいで遠い。湯島の旧岩崎邸庭園に似た感じだけど、こっちはもっと遠い。そうするうちに瀟洒な静嘉堂文庫が見えてきた。1924年に建てられたもので、東京都選定歴史的建造物。貴重な古書をたくさん収蔵している。
  
 1910年に建てられたジョサイア・コンドル設計の「岩崎家廟」も貴重である。コンドルは三菱との関係が深く、湯島の旧岩崎邸も設計しているし、高輪の岩崎邸(関東閣)も設計した。美しい廟はもちろん外見しか見られないが、非常に貴重なものだ。文庫は予約制で紹介状がなくては蔵書類を見られないが、収蔵品は時々美術館で公開される。曜変天目茶碗をはじめとする国宝がいくつもあるが、常設展はないので日程を注意してないと見れない。
  
 静嘉堂文庫美術館は1992年に開館したもので、年に数回の展覧会を開催している。今開催中の松浦武四郎展は、武四郎の生誕200年記念である。幕末に蝦夷地探検を行ったことで知られ、蝦夷地を「北加伊道」と名付けた。アイヌ語に基づく地名を付けたことでも知られる。明治3年までに150冊の調査記録を残したという。蝦夷地探訪記が何冊も出展されていたが、多色刷りでビジュアルなのに驚いた。武四郎が択捉島まで訪れていることも興味深い。

 松浦武四郎は三重県松阪市の生まれで、同地に記念館もある。松阪と言えば本居宣長の生地だが、武四郎も古いものへの関心を若い時から持っていた。当時は「好古家」と呼ばれ、考古学的な遺物など多くのコレクションが展示されている。河鍋暁斎筆の「松浦武四郎涅槃図」の複製もあった。武四郎が寝釈迦のように中央に寝ていて、その周りを西行など多くの古人が取り巻く。重文指定だそうだけど、松浦武四郎という人はやはり「偉人」というより「奇人」だなあと思った。花崎皋平『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』という本が忘れられているようで残念。
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クーベリック指揮のスメタナ「わが祖国」-「定番CD」の話④

2018年09月04日 23時11分12秒 | アート
 「定番CD」の話はクラシック編から始めたが、そろそろ終わりにしたいなと思う。そうすると最後に何を取り上げるか。グレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」かな。若いころ聴いたモノラル盤レコードは全く判らなかったけど、後に出たデジタル録音のCDはよく聴く。グレン・グールド、やっぱりすごいなと思うようになったのは年とったからか。他のCDも買ったけど、「ゴルトベルク」が一番。でも、グールドは僕には手ごわい。コアなファンも多いからやめておこう。

 パイヤール室内管弦楽団の「パッヘルベルのカノン~バロック名曲集」とか、トスカニーニ指揮のレスピーギ「ローマ三部作」なんかは割と聴いている。あるいはブルーノ・ワルター指揮のマーラー「巨人」は、名作だなあと思う。そんな風に挙げて行けば何枚もあるけど、ここではクーベリック指揮のスメタナ「わが祖国」にしておきたい。チェコが生んだ世界的指揮者クーベリックが42年にぶりに祖国へ帰って「プラハの春音楽祭」で指揮した歴史的演奏である。

 「チェコスロバキア」という国名を初めて知ったのは、東京五輪の女子体操選手チャスラフスカを見た時である。そのことはここでも何回か書いてきた。そのチェコスロバキアで1968年に「プラハの春」と呼ばれた自由化運動が起きた。1948年に共産党が政権を奪取して「ソ連圏」に組み入れられていたチェコスロバキアで、ソ連支配への抵抗が起きたのである。「人間の顔をした社会主義」と彼らは自らの運動を呼んだ。しかし、1968年8月20日夜、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに軍事侵攻して、その試みはついえてしまった。

 僕が中学生として世界のニュースに関心を持つようになったころである。ベトナム戦争チェコ事件の衝撃は大きかった。ソ連はベトナム戦争ではアメリカを批判していたわけだが、チェコに対してはこのような非道なことをするのか。そのことが僕の世界観に大きな影響を与えてきた。チェコ事件関係者の本が翻訳されるたびに買い集めていた時期がある。「スムルコフスキー回想録」とかムリナーシ「夜寒」とか、結構出ていた。そして、ソ連軍が侵攻してきたときに国営放送が流し続けたのが、「わが祖国」の中の第2曲「ヴルタヴァ」(モルダウ)だった。

 「モルダウ」はドイツ語で、チェコ語では「ヴルタヴァ」だという。でも多くの人が「モルダウ」として覚えているのは、日本では学校の合唱コンクール曲の定番になっているからだろう。僕も中学教員時代、担任していた学年の課題曲だったことがある。3年生の時の合唱コンクールを録音してカセットテープにして卒業式に配布した。だから懐かしいんだけど、調べてみると合唱用編曲が2つあるんだという。あれ、どっちだったかな。

 「わが祖国」はベドルジフ・スメタナ(1824~1884)が1874年から1879年にかけて作曲した6つの交響詩である。スメタナはずいぶん昔の人で、幕末から明治初期頃に活躍している。チェコが独立したのは、第一次世界大戦でハプスブルク家のオーストリア帝国が崩壊してからだから、スメタナの時代にはチェコ民族は支配されていた。「わが祖国」時代には、独立した「祖国」はなかったのである。支配された「小国」のナショナリズムだから、今も人々の心を打つのである。

 ラファエル・クーベリック(1914~1996)は、20世紀を代表する世界的指揮者の一人だが、1948年の「共産主義革命」以後はイギリスに亡命して、欧米各国で活動した。そのクーベリックがチェコに帰ってチェコ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したのは、1990年の「プラハの春」音楽祭である。1986年に引退していたのだが、1989年の「ビロード革命」で誕生したハヴェル大統領の強い要請に応えたのである。熱い思いを秘めながらも力強く指揮していて、歴史的名演と言われるだけのことがある。その後、来日公演も行ったけど、それは聴きに行けなかった。

 今年はチェコ事件から50年の年である。ところが今のチェコ大統領であるミロシュ・ゼマンは、親ロシア派で50周年の記念式典を欠席したという。スロバキア大統領の演説をチェコでも流したらしい。東欧で強権的な政治家が増えているが、ソ連の侵攻を問わない人が出てきているのか。そんなニュースを聞くと、スメタナを聴き直したくなる。
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