尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「コミューン主義」のゆくえー真木悠介『気流の鳴る音』をめぐって⑤

2022年09月04日 23時45分37秒 | 〃 (さまざまな本)
 真木悠介気流の鳴る音』をめぐって4回記事を書いた。それで予定した分は終わりなんだけど、何だか書き残している気持ちが残る。それは何なんだろうと考えてみると、以下のようなことかなと思った。例えば4回目の「ドン・ファンとは何者だったか」だけど、『気流の鳴る音』を若い時に読んで関心を持った人には意味があると思うけど、知らない人にはよく判らないだろう。じゃあ、今読んでみようという若い人がいても、何でこんなに難しいのかと呆れて敬遠されるのではないか。何故この本が深い影響を与えたのか、いわば「時代精神」のようなものを書かないといけないと思ったのである。

 『気流の鳴る音』の初版本は箱に入っていた。そして箱の表から裏まで風景写真が印刷されている。この写真は文庫本ではカバーにならなかったが、著作集では最初に掲載されている。これはチチカカ湖に旅した時の著者撮影の写真で、「定本解題」にここで本書の構想を得たと書かれている。帯には「〈異世界〉の感性と論理を手がかりに人間解放の拠点を探る、コミューン構想のための比較社会学」と書かれていた。そして冒頭すぐのところにナヴァホ・インディアンの詩が引用される。

 段落わけをせずに書いてみると「美がまえにある/美がうしろにある/美が上を舞う/美が下を舞う/私はそれにかこまれている/私はそれにひたされている/若い日の私はそれを知る/そして老いた日に/しずかに私は歩くだろう/このうつくしい道のゆくまま」というのである。『気流の鳴る音』刊行と同じ1977年に、中公新書から金関寿夫アメリカ・インディアンの詩』が出された。このような「未開の文化」に注目が集まり出したのは、この頃からだったと思う。今では「異文化交流」は公教育でも大事な問題と考えられている。しかし、当時はまだまだ『気流の鳴る音』のような「未開」への熱い関心は少なかった。

 60年代は一言で言ってしまえば「ヴェトナム戦争の時代」だった。ほぼ全ての家庭に普及したテレビで、北爆(アメリカ軍による来たヴェトナム爆撃)や米軍がナパーム弾をジャングルに投下する様子を毎日見ていたのである。戦後20年程度の当時、日本人の多くは「アメリカはなんてひどいことをするんだ」と思っていた。それは小学生にも共有されていた感情だった。(僕の小学校の卒業式の答辞ではヴェトナム戦争に触れていた。もちろん僕ではない。)そして日本政府は一貫してアメリカ政府を支持していた。日本国内では公害問題が頻発し、日本政府は常に企業側に立ってなかなか公害認定に踏み切らなかった。水俣病裁判の支援運動は盛り上がりを見せ、東京各地には「」のむしろ旗を掲げた患者・支援者が座り込んでいた。

 石油資源がいずれ枯渇するという予測もなされ、資本主義の行き詰まりは明らかに見えたのである。資本主義の次の時代は何か。それは「社会主義革命」が起き、やがて「共産主義社会」が実現するのだと主張していたのがマルクス主義である。革命の起こし方(暴力革命か、議会主義革命か)は違っても、また相互に対立していた日本社会党、日本共産党や新左翼諸党派、また「同伴者的知識人」の多くも、何となくそのような「歴史の進歩」イメージを信じていたと思う。特に共産党系の人は「科学的社会主義」という呼び方を好んで、マルクス、エンゲルスによって歴史の進歩は「科学的に」証明されていると言っていた。

 それでは現実に成立したソ連では何故言論が自由ではないのか。「人間の顔をした社会主義」を目指したチェコスロヴァキアの「プラハの春」を軍事力で押しつぶしたのか。そこで「ソ連式社会主義」はソ連の指導者スターリンによって変質させられた官僚主義的な「スターリニズム」だという考え方が生まれる。スターリニズムに陥らない社会主義はどこかにあるのだろうか。「共産主義」とは「Communism」の日本語訳であり、それはつまり「コミューン主義」と書いても同じである。社会をまるごと「コミューン」(共同体)に組み替えようというのが「コミューン主義」(共産主義)だが、それを目指す「コミューン主義者の党」(Communist Party)は世界中どこでも大体党内での言論の自由がない抑圧的な体質が強かった。

 そうなってしまうのは何故だろうか。また日本で60年代末にあれほど革命運動、あるはそこまで行かなくても反戦平和運動が盛り上がったのに、選挙になると常に自民党が勝利するのは何故だろう。60年代末の新左翼運動が、爆弾、ハイジャック、内部粛清に終わったことが明らかとなった70年代半ばには深刻な内省の季節がやってきた。そこからは、そもそも「未開社会から、資本主義へ発展し、共産主義に至る」という単線的な歴史観に揺らぎが生まれた。全く現実の民衆が判ってなかったと、「常民」に注目した柳田国男への関心が生まれた。工業社会の超克を農業に求めるエコロジー的な世界観も登場した。頭でっかちに革命を夢想していただけだったという反省から、自己の「身体性」の解放を求める動きも強まった。

 だから、この時代には世界の経済先進国では、思想や感覚を共にする人びとが集まって農業などに取り組む「コミューン」がたくさん生まれたのである。「共産主義」と表現せずに「コミューン主義」と書くのも、そのような流れの中で使うわけである。「党」を結成せずに、集団的生活を先に実践する集団である。『気流の鳴る音』の中で、日本各地のコミューンが取り上げられるのはそのような文脈がある。今読み返すと、「交響するコミューン」という文章はかなり難しいが、それは歴史的な難問にチャレンジしているからでもある。(同時のあの頃はもっと難解な文章が世に満ちていて、吉本隆明など全く歯が立たなかった。『気流の鳴る音』は異例に判りやすい方だったのである。)
(宮沢賢治)
 そのような時代においてマニフェストたり得たのは、マルクス、エンゲルスの「Manifest der Kommunistischen Partei」(共産党宣言)ではなかった。むしろ宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」だった。特に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という箇所には心を打たれた。「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」というコスモロジカルな発想にも驚かされた。最終的な結論では「……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……」と書かれている。時代を超越した発想に驚かされる。今読んでも新鮮なこの文章をまだ読んだことがない人は、青空文庫で読めるから是非読んでみて欲しい。

 宮沢賢治の父親は浄土真宗を深く信仰していたが、賢治は父に反抗して日蓮宗を信奉した。そして一時は東京に出て、右翼的日蓮宗結社「国柱会」に属した。彼も日本全体を変えることを夢見た時代があった。しかし、結局は故郷に戻って「羅須地人協会」という一種の学校のような、農業協同組合のような、コミューンの種のような実践を始めて病に倒れた。彼の残した仕事は「童話」だと思っている人が多いが、近代日本の思想史の中できちんと位置づける必要がある。僕の時代もそうだったし、今の若い世代もきっと同じだと思うんだけど、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と思って地道に取り組んでいる人が必ずどこかにいるはずである。

 マルクス主義にあった「単線的歴史観」からすれば、資本主義にも至らなかった「未開社会」への注目は低い。しかし、「未開社会」にこそ「人間解放」を探るという、歴史観の逆転は当時はとても新鮮だったのである。(今では当たり前すぎるかもしれない。)だが、同時に今になっては「未開」に未来への鍵を求めるのも、一種の先進国的な転倒したロマンティシズムだろう。今の自分にとって、「コミューン」は「不可能な夢」だと思う。「ラ・マンチャの男」の「インポッシブル・ドリーム」である。「コミューン」内部の抑圧より、マーケット・システムによる弊害の方が少ないだろうと思っている。

 だから、「革命」によらずとも、現行の株式会社、あるいは社会福祉法人農業生産法人特定非営利法人(NPO)、さらに法的整備がなされた労働者協同組合などによることで、現行の法的体系の中でも「搾取のない生産形態」は実現可能だと思う。それらの小さな積み重ねが大切ではないか。そして「教育」も「芸術」も、種蒔きだから「農業」。未来へ向けて新技術を研究している科学者も、夢に向かって進むスポーツ選手も、皆「農業生産者」である。そう理解した上で、先の「農民芸術概論綱要」を読むべきだ。
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