『学生反乱』を読んで考えたことを4回も書くとは自分でも思わなかった。僕にとって経過を書くことではなく、その後に遺したものは何かということが大切なのである。ただ「仏文科人事問題」や「村松問題」は今では知らない人が多いだろうと思って、是非紹介したわけである。登場する人も多士済々で、戦後史の一コマとしても興味深い。
さて、その後文学部のカリキュラムは全面撤回に追い込まれ、全学ストも決議された。そのまま夏休みになったが、秋になって最終解決に向けて動き出してゆく。学生の多くは本気で「革命」を考えているわけではない。一部セクト学生は別として、4年生の大部分は卒業、就職に困る事態は避けたい。一方、大学側も入試中止は絶対に不可である。国立の東大と違って、私学は受験料、入学金がなくなってしまったら経営破綻である。学生も全員がバリケードに立て籠もるわけではなく、授業がないならアルバイトに精を出すとか自宅でノンビリするものも当然いるのである。そういう事情が背景にあって、次第に解決の機運が高まっていく。
文学部教授会は自らの課題を「現代社会における人間学の再創造」と位置づけ、学生対象のシンポジウムを開催した。カリキュラムも作り直し、新規登録を推進した。10月7日に総長の所信表明集会も開かれた。高橋秀氏はこの時、総長の脇に立ち続ける野口定男学生部長の姿を印象的に記録している。中国哲学が専門の野口氏(日本文学科教授)は、他大学の学生部長がどんどん変わる中、紛争期間の学生部長を務めきった。野口氏は野球部初め多くの体育部の監督をしていて、後に日米野球の立ち上げにも関わった。酒豪で知られ、立大卒業の歌手、高石ともやさんが懐かしそうに回顧する話を聞いたことがある。
この間、機動隊が2回キャンパスを捜索に入ったが、大学が要請したものではなく抗議している。11月11日には文学部集会が開かれ、多くの学生が参加した。中にはメモを取る学生もいて、高橋氏は「今回は行けそうだ」と思ったという。そして12月15日の授業再開が告知された。最後まで封鎖されていた6号館は、1970年1月3日に「六号館封鎖解除教職員行動隊」により、解除された。一部学生は抵抗したが、対立セクトの襲撃と思ったらしい。4階の最後のバリケードを突破したのは法学部の高畠通敏氏と高橋秀氏だった。残っていた16人は、神島二郎法学部長が説諭したあと教職員の車で都合の良い駅に送ったという。(周囲には機動隊がいたようだが、警察には突き出さなかったのである。)
(封鎖解除直後の六号館)
この時の「紛争」は文学部に何を遺したのだろうか。まずは「研究室」である。それまでは「一人一室の教員の個人研究室」と「『大研』とよばれている助手・副手のつとめる学科事務室」からなっていたという。それが改革により、「学生のための読書室」「事務室に代わる資料室」が設けられたという。いやあ、そうだったのかとビックリした。その後しか知らないから、大学はそんなものとしか思っていなかったけど、それは「改革の遺産」だったのである。この読書室には歴史系の学術雑誌が置かれていて自由に読めた。授業の合間などに皆よく利用していたし、僕も毎日のように顔を出したはずだ。
また本書には書かれていないが、カリキュラム改革も進められた。もっとも「内示集会」が開かれたとあるが、それは記憶にない。ただ、「学科単位」ではない「全学科共通科目」が設けられていた。例えば、新一年生には「共通基礎購読」(確かそんな名前)が置かれ、全員が何かに所属して指定された本をめぐって教師と一緒に議論した。学科ごとではなく、他学科の教員や学生と一緒なのである。希望・調整の結果だと思うが、僕は日本教育史の寺崎昌男先生(教育学科)の講座で非常に大きな刺激を受けた。寺崎先生はその後東大に移籍したが、定年後に桜美林大学を経てもう一回立教学院本部に戻ってきたようである。
また夏休みを利用して、4泊5日の宿泊合宿「集中合同講義」(たしかそんな名前)もあった。テーマが設けられ、それに沿って各学科、および他学部からも教員を呼び、合宿討論するのである。テーマをめぐって深い議論を交わすのも面白かったが、最大の眼目は普段なら接しないかもしれない他学科(学部)の教員に接したことである。また他学科の学生と知り合う機会でもあった。場所は八王子の大学セミナーハウスだったが、後に見田先生の講座でも何回も使うことになる。
そこでの面白いエピソードは幾つもあるけれど、私的な思い出だから省略する。この集中講義では教員も学生も学科を交えて討論した。つまり紛争時に問われた「学科セクショナリズム」を越える試みとして受け継がれていたと思う。実際に僕も他学科の教員に大きな影響を受けた。また他学部の単位も(限定があるが)卒業単位と認められていた。僕もそれを利用して、高畠通敏先生の「政治原論」とか住谷一彦先生の「社会思想史」などを取ったのである。それはともかく、ここでも単なる専門だけではなく幅広く「人間学」を学べる制度が整備されていたのである。
(「六人組」の人々)
僕はこのような「改革」を遺した当時の教員たちに大きな影響を受けてきた。特に渡辺一民先生は「文学部改革推進のためには運動の成果の制度的定着による永続化が是非とも必要であると強く主張した」と松浦氏は指摘している。60年代の「政治の季節」は何も残さず消え去ったと思われている。だが立教大学では、小さいかもしれないがこれらの改革が残されたのである。それらを推進した人々は、その後も「同志」意識を持っていた。その「六人組」の写真を載せておくことにする。
当時の立教大学にもセクトの活動はあったと記憶するし、当局側によるロックアウトも時たま行われた。学生自治会は学生大会でリコールされて、そのまま再建されなかった。そのような代償はあったわけだが、他大学のように「機動隊の実力行使による正常化」という国家権力への屈服や「一部セクトによる暴力支配」は基本的にはなかった。その方向に導いた「紛争の筆頭責任者」たる松浦氏の思想的背景は、この本で初めて明かされたと思う。マックス・ウェーバーの「責任倫理」とともに、天皇の退位なき戦後日本の無責任体制への怒りが、この「紛争」を自ら解決する強い意志へ結びついていたのである。
さて、その後文学部のカリキュラムは全面撤回に追い込まれ、全学ストも決議された。そのまま夏休みになったが、秋になって最終解決に向けて動き出してゆく。学生の多くは本気で「革命」を考えているわけではない。一部セクト学生は別として、4年生の大部分は卒業、就職に困る事態は避けたい。一方、大学側も入試中止は絶対に不可である。国立の東大と違って、私学は受験料、入学金がなくなってしまったら経営破綻である。学生も全員がバリケードに立て籠もるわけではなく、授業がないならアルバイトに精を出すとか自宅でノンビリするものも当然いるのである。そういう事情が背景にあって、次第に解決の機運が高まっていく。
文学部教授会は自らの課題を「現代社会における人間学の再創造」と位置づけ、学生対象のシンポジウムを開催した。カリキュラムも作り直し、新規登録を推進した。10月7日に総長の所信表明集会も開かれた。高橋秀氏はこの時、総長の脇に立ち続ける野口定男学生部長の姿を印象的に記録している。中国哲学が専門の野口氏(日本文学科教授)は、他大学の学生部長がどんどん変わる中、紛争期間の学生部長を務めきった。野口氏は野球部初め多くの体育部の監督をしていて、後に日米野球の立ち上げにも関わった。酒豪で知られ、立大卒業の歌手、高石ともやさんが懐かしそうに回顧する話を聞いたことがある。
この間、機動隊が2回キャンパスを捜索に入ったが、大学が要請したものではなく抗議している。11月11日には文学部集会が開かれ、多くの学生が参加した。中にはメモを取る学生もいて、高橋氏は「今回は行けそうだ」と思ったという。そして12月15日の授業再開が告知された。最後まで封鎖されていた6号館は、1970年1月3日に「六号館封鎖解除教職員行動隊」により、解除された。一部学生は抵抗したが、対立セクトの襲撃と思ったらしい。4階の最後のバリケードを突破したのは法学部の高畠通敏氏と高橋秀氏だった。残っていた16人は、神島二郎法学部長が説諭したあと教職員の車で都合の良い駅に送ったという。(周囲には機動隊がいたようだが、警察には突き出さなかったのである。)
(封鎖解除直後の六号館)
この時の「紛争」は文学部に何を遺したのだろうか。まずは「研究室」である。それまでは「一人一室の教員の個人研究室」と「『大研』とよばれている助手・副手のつとめる学科事務室」からなっていたという。それが改革により、「学生のための読書室」「事務室に代わる資料室」が設けられたという。いやあ、そうだったのかとビックリした。その後しか知らないから、大学はそんなものとしか思っていなかったけど、それは「改革の遺産」だったのである。この読書室には歴史系の学術雑誌が置かれていて自由に読めた。授業の合間などに皆よく利用していたし、僕も毎日のように顔を出したはずだ。
また本書には書かれていないが、カリキュラム改革も進められた。もっとも「内示集会」が開かれたとあるが、それは記憶にない。ただ、「学科単位」ではない「全学科共通科目」が設けられていた。例えば、新一年生には「共通基礎購読」(確かそんな名前)が置かれ、全員が何かに所属して指定された本をめぐって教師と一緒に議論した。学科ごとではなく、他学科の教員や学生と一緒なのである。希望・調整の結果だと思うが、僕は日本教育史の寺崎昌男先生(教育学科)の講座で非常に大きな刺激を受けた。寺崎先生はその後東大に移籍したが、定年後に桜美林大学を経てもう一回立教学院本部に戻ってきたようである。
また夏休みを利用して、4泊5日の宿泊合宿「集中合同講義」(たしかそんな名前)もあった。テーマが設けられ、それに沿って各学科、および他学部からも教員を呼び、合宿討論するのである。テーマをめぐって深い議論を交わすのも面白かったが、最大の眼目は普段なら接しないかもしれない他学科(学部)の教員に接したことである。また他学科の学生と知り合う機会でもあった。場所は八王子の大学セミナーハウスだったが、後に見田先生の講座でも何回も使うことになる。
そこでの面白いエピソードは幾つもあるけれど、私的な思い出だから省略する。この集中講義では教員も学生も学科を交えて討論した。つまり紛争時に問われた「学科セクショナリズム」を越える試みとして受け継がれていたと思う。実際に僕も他学科の教員に大きな影響を受けた。また他学部の単位も(限定があるが)卒業単位と認められていた。僕もそれを利用して、高畠通敏先生の「政治原論」とか住谷一彦先生の「社会思想史」などを取ったのである。それはともかく、ここでも単なる専門だけではなく幅広く「人間学」を学べる制度が整備されていたのである。
(「六人組」の人々)
僕はこのような「改革」を遺した当時の教員たちに大きな影響を受けてきた。特に渡辺一民先生は「文学部改革推進のためには運動の成果の制度的定着による永続化が是非とも必要であると強く主張した」と松浦氏は指摘している。60年代の「政治の季節」は何も残さず消え去ったと思われている。だが立教大学では、小さいかもしれないがこれらの改革が残されたのである。それらを推進した人々は、その後も「同志」意識を持っていた。その「六人組」の写真を載せておくことにする。
当時の立教大学にもセクトの活動はあったと記憶するし、当局側によるロックアウトも時たま行われた。学生自治会は学生大会でリコールされて、そのまま再建されなかった。そのような代償はあったわけだが、他大学のように「機動隊の実力行使による正常化」という国家権力への屈服や「一部セクトによる暴力支配」は基本的にはなかった。その方向に導いた「紛争の筆頭責任者」たる松浦氏の思想的背景は、この本で初めて明かされたと思う。マックス・ウェーバーの「責任倫理」とともに、天皇の退位なき戦後日本の無責任体制への怒りが、この「紛争」を自ら解決する強い意志へ結びついていたのである。
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