『学生反乱』を読んで、1969年の立教大学を考える3回目。この本のテーマは僕にとって私的に重要だが、もちろんそれだけではなく、もっと普遍的な問題につながっている。まず、文学部の最高責任者である文学部長は誰だったのか。1969年3月25日までは海老沢有道教授(史学科)だったが、健康上の理由で任期2年のうち半分を残して退任を申し出た。海老沢氏は日本キリシタン史の大家である。退任は了承され、後任には細入藤太郎教授(英米文学科)が選出された。
教授会では連休を返上して連日長時間の会議を開いていた。しかし、1969年5月10日に「文学部共闘会議」(文共闘)が結成され6項目の要求への回答が求められた。13日には文共闘によって6号館がバリケードで封鎖された。長時間の教授会が開かれ、1969年5月15日に、文学部集会を開くことが決まった。会場となったタッカーホールは満員の学生であふれたという。13時10分から3時間ほどの予定は、結局深夜1時まで12時間に及んだ。(『学生反乱』の表紙にその時の写真が掲載されている。)
(5・15集会)
その集会中に細入学部長は体調不良となって、休憩を申し出た。事前にそういうこともあるかと代理の責任者を選定していたという。それは誰だか不明だが、細入氏は松浦高嶺教授(史学科)の前で立ち止まって後事を託して退出したのである。これは全く突然の指名で、その理由は謎だという。そして5月20日の教授会で、正式に松浦学部長代理就任が了承された。海老沢(1910年生まれ)、細入(1911年生まれ)の両氏に対し、松浦教授は1923年生まれで10歳以上若い。荒ぶる学生と対峙するのに、50代後半では体力的に持たない。「平時」なら長老トップで収まるが、ここで「戦時内閣」が発足したということだろう。
(松浦高嶺教授)
松浦先生は「西洋史概論」かなんかをちょっと受けたと思うけど、個人的に言葉を交わしたことはない。政治的な声明に加わったりするような「進歩的文化人」ではなく、厳格な研究姿勢を保つ英国紳士といった印象を持っていた。今回の本を読んで、松浦先生のリーダーシップと先見性に驚いてしまった。その後も自分の体験を「伝説的」に語り継ぐことはなかったと思う。数年後に入学した僕は、松浦先生が「筆頭責任者」として収拾に当たったということは今回本を読むまで全く知らなかった。
この本は前半が日録的に順を追って振り返られているが、それは高橋秀(さかえ)氏が記録したメモに基づいている。高橋先生は先に書いたようにローマ史の研究者であるとともに、パイプオルガン奏者として知られ大学行事などでも演奏していた。そのことは僕も知っていたし、聴いたこともある。この本には、年末恒例の「メサイア演奏会」始まりの秘話など、「闘争」以外の話題も豊富で興味深かった。高橋氏は松浦教授と研究室が同じで、信頼されていたからか「秘書」格で紛争解決に当たることになった。例えば、他学部教授会への説明には高橋氏が赴いている。
文学部教授会はその後、「文共闘」を正式に交渉相手と認め、「団体交渉」(団交)に応じることになる。その過程をいちいち追っていくと長くなりすぎるので、ここでは『学生反乱』に譲って省略したい。ただ、この決定は他学部には非常に不評で、松浦氏によれば「学生自治の基本原則を蹂躙」とか「情緒過多のめろめろ学部」などと批判されたという。前者に関しては、正規の自治会があったのに対し、大学非公認団体の「文共闘」と「取引」したのは間違っているという判断である。
しかし、他に方策があるのだろうか。松浦氏は学部長代理として「連合教授懇談会」の場で、当時の大須賀総長に以下のような質問をしたという。文学部教授会が学生との団交で、本学の従来のやり方と違うことを取り決めた場合、総長はどうされるかという質問である。これに対し総長は「文学部が他学部や本学の従来のやり方と違うことを取り決めるような事態にいたったとしても、もしそれがリアリティに根ざしたものであれば、それはやがて本学の中に定着してゆくことになるだろう」と答えた。高橋氏は「今私が顧みても、総長としてよくぞおっしゃった」と書いている。速水敏彦氏も「闘争初期の名場面」と評している。
ところで、この頃文学部にはもう一つ頭の痛い問題が持ち上がっていた。震源地の仏文科教員の一人である村松剛(1929~1994)氏が辞表を提出したまま出勤して来なくなったのである。村松氏はちょっと年齢の高い人なら知っていると思うが、保守派の論客として有名だった。三島由紀夫とは親の代から親しく、三島没後に『三島由紀夫-その生と死』という本を著している。そういう思想傾向だからだろうか、文学部が文共闘の団交要求を認めたことに反発し、5月18日に辞表を提出したのである。そして経過をマスコミに知らせ批判したのである。学生側は村松を免職にせよと迫り、ついに懲戒免職が決議された。
(村松剛『私の正論』)
本筋とは関係ないけれど、村松問題にちょっと触れておきたい。誰しも辞める自由は持っているが、辞任が正式に決定するまでは(健康に問題ない限り)勤務する責任がある。だから、文共闘の団交要求を認めないとしても、正式機関である教授会には出席義務がある。しかし教授会にも出なかったため、学生の処分要求を退けられないのである。ただ、Wikipediaには懲戒免職になったと出ているが、本書によれば事情はもっと複雑である。学院規則には「懲戒解職」という言葉が使われていて、「免職」という処分がなかった。法的な問題を弁護士と協議しているうちに、一ヶ月経ってしまい自動的に辞職の事前予告期間が来たと出ている。
何となくなし崩しで、辞職になったような記述である。村松氏は問題の発端の仏文科教員として、学生に答えることなく学年途中で辞職するのはどうなんだろうと僕は思う。そこを学生側にも突かれて、教授会が機能していないことを白日の下にさらす結果を招いたのである。仏文科で起きた事態は、「大学の自治」の名の下に「教授会の多数決」という制度が形骸化していると言われても返す言葉がないだろう。文共闘から見れば「戦後民主主義の機能不全」の象徴である。そこで6月2日午前10時から、翌3日午前12時半まで26時間半に及ぶ団交では村松問題が議論の中心となり、「懲戒免職」が決議されたのである。
その後、6月19日に「文学部学生諸君へ」という学部長代理の文書が公表された。後に「6・19文書」と呼ばれたというが、ここで文学部教授会としての「反省」「自己批判」を行うとともに、今後の改革の方向性が示された。ここで明らかにされたことは、今までは「文学部」と言いながら、事実上は「8学科連合」に過ぎなかったことである。教員は自己の研究と地位に安住し、大学進学率が向上し学生の質が変わったことを直視せず、「学生も変わったね」などと語るだけだった。「教育者」という面で学生と向き合っていたとは言えない。「文学部」としてどのような学生を育成するのかという共同の認識もなかったのである。
そこで教授会では松浦氏のリーダーシップの下、大学の理念と機構、カリキュラム、人事、教授会運営、図書、研究室など10あまりの小委員会を設け、全教員がどこかに所属して夏休み返上で討議を行い報告書をまとめたのである。「理念・機構」委員会に属した速水敏彦氏は、本書の中で報告書を全文掲載している。それを読むと、これは大変なものだなと思った。学生側の文章を今読んで、よくここまで書けたなと思った。(高橋氏もどこにこんな能力が潜んでいたのかと書いている。)しかし、この「理念」報告などを読むと、これは適わないなと正直思った。「学生反乱」が教授側の「本気」を引き出したのである。
最終解決まで書くと長くなりすぎるので、ここで松浦氏の述べる「大学教員の対応の類型」を見てみたい。①は「過激・暴力学生と決めつけて学生の要求には一切耳をかそうとしない、頑なで権威主義的タイプ」である。②は「戦闘的学生に対して弱腰で、足並みがそろわず、優柔不断なタイプ」である。③は「学生と共同戦線を張って、学生反乱の大学反乱への飛躍をめざしたタイプ」である。そして④として「研究、教育関係の中で学生と共有しうる立場を可能な限り模索して、紛争の建設的な決着を求めたタイプ」である。松浦氏は④の立場を堅持し、学生側からは「松浦超近代化路線」などと決めつけられながらも、「戦闘的寛容」の精神を貫いたのである。それは何を残したのか、長くなったけれど最後にもう一回。
教授会では連休を返上して連日長時間の会議を開いていた。しかし、1969年5月10日に「文学部共闘会議」(文共闘)が結成され6項目の要求への回答が求められた。13日には文共闘によって6号館がバリケードで封鎖された。長時間の教授会が開かれ、1969年5月15日に、文学部集会を開くことが決まった。会場となったタッカーホールは満員の学生であふれたという。13時10分から3時間ほどの予定は、結局深夜1時まで12時間に及んだ。(『学生反乱』の表紙にその時の写真が掲載されている。)
(5・15集会)
その集会中に細入学部長は体調不良となって、休憩を申し出た。事前にそういうこともあるかと代理の責任者を選定していたという。それは誰だか不明だが、細入氏は松浦高嶺教授(史学科)の前で立ち止まって後事を託して退出したのである。これは全く突然の指名で、その理由は謎だという。そして5月20日の教授会で、正式に松浦学部長代理就任が了承された。海老沢(1910年生まれ)、細入(1911年生まれ)の両氏に対し、松浦教授は1923年生まれで10歳以上若い。荒ぶる学生と対峙するのに、50代後半では体力的に持たない。「平時」なら長老トップで収まるが、ここで「戦時内閣」が発足したということだろう。
(松浦高嶺教授)
松浦先生は「西洋史概論」かなんかをちょっと受けたと思うけど、個人的に言葉を交わしたことはない。政治的な声明に加わったりするような「進歩的文化人」ではなく、厳格な研究姿勢を保つ英国紳士といった印象を持っていた。今回の本を読んで、松浦先生のリーダーシップと先見性に驚いてしまった。その後も自分の体験を「伝説的」に語り継ぐことはなかったと思う。数年後に入学した僕は、松浦先生が「筆頭責任者」として収拾に当たったということは今回本を読むまで全く知らなかった。
この本は前半が日録的に順を追って振り返られているが、それは高橋秀(さかえ)氏が記録したメモに基づいている。高橋先生は先に書いたようにローマ史の研究者であるとともに、パイプオルガン奏者として知られ大学行事などでも演奏していた。そのことは僕も知っていたし、聴いたこともある。この本には、年末恒例の「メサイア演奏会」始まりの秘話など、「闘争」以外の話題も豊富で興味深かった。高橋氏は松浦教授と研究室が同じで、信頼されていたからか「秘書」格で紛争解決に当たることになった。例えば、他学部教授会への説明には高橋氏が赴いている。
文学部教授会はその後、「文共闘」を正式に交渉相手と認め、「団体交渉」(団交)に応じることになる。その過程をいちいち追っていくと長くなりすぎるので、ここでは『学生反乱』に譲って省略したい。ただ、この決定は他学部には非常に不評で、松浦氏によれば「学生自治の基本原則を蹂躙」とか「情緒過多のめろめろ学部」などと批判されたという。前者に関しては、正規の自治会があったのに対し、大学非公認団体の「文共闘」と「取引」したのは間違っているという判断である。
しかし、他に方策があるのだろうか。松浦氏は学部長代理として「連合教授懇談会」の場で、当時の大須賀総長に以下のような質問をしたという。文学部教授会が学生との団交で、本学の従来のやり方と違うことを取り決めた場合、総長はどうされるかという質問である。これに対し総長は「文学部が他学部や本学の従来のやり方と違うことを取り決めるような事態にいたったとしても、もしそれがリアリティに根ざしたものであれば、それはやがて本学の中に定着してゆくことになるだろう」と答えた。高橋氏は「今私が顧みても、総長としてよくぞおっしゃった」と書いている。速水敏彦氏も「闘争初期の名場面」と評している。
ところで、この頃文学部にはもう一つ頭の痛い問題が持ち上がっていた。震源地の仏文科教員の一人である村松剛(1929~1994)氏が辞表を提出したまま出勤して来なくなったのである。村松氏はちょっと年齢の高い人なら知っていると思うが、保守派の論客として有名だった。三島由紀夫とは親の代から親しく、三島没後に『三島由紀夫-その生と死』という本を著している。そういう思想傾向だからだろうか、文学部が文共闘の団交要求を認めたことに反発し、5月18日に辞表を提出したのである。そして経過をマスコミに知らせ批判したのである。学生側は村松を免職にせよと迫り、ついに懲戒免職が決議された。
(村松剛『私の正論』)
本筋とは関係ないけれど、村松問題にちょっと触れておきたい。誰しも辞める自由は持っているが、辞任が正式に決定するまでは(健康に問題ない限り)勤務する責任がある。だから、文共闘の団交要求を認めないとしても、正式機関である教授会には出席義務がある。しかし教授会にも出なかったため、学生の処分要求を退けられないのである。ただ、Wikipediaには懲戒免職になったと出ているが、本書によれば事情はもっと複雑である。学院規則には「懲戒解職」という言葉が使われていて、「免職」という処分がなかった。法的な問題を弁護士と協議しているうちに、一ヶ月経ってしまい自動的に辞職の事前予告期間が来たと出ている。
何となくなし崩しで、辞職になったような記述である。村松氏は問題の発端の仏文科教員として、学生に答えることなく学年途中で辞職するのはどうなんだろうと僕は思う。そこを学生側にも突かれて、教授会が機能していないことを白日の下にさらす結果を招いたのである。仏文科で起きた事態は、「大学の自治」の名の下に「教授会の多数決」という制度が形骸化していると言われても返す言葉がないだろう。文共闘から見れば「戦後民主主義の機能不全」の象徴である。そこで6月2日午前10時から、翌3日午前12時半まで26時間半に及ぶ団交では村松問題が議論の中心となり、「懲戒免職」が決議されたのである。
その後、6月19日に「文学部学生諸君へ」という学部長代理の文書が公表された。後に「6・19文書」と呼ばれたというが、ここで文学部教授会としての「反省」「自己批判」を行うとともに、今後の改革の方向性が示された。ここで明らかにされたことは、今までは「文学部」と言いながら、事実上は「8学科連合」に過ぎなかったことである。教員は自己の研究と地位に安住し、大学進学率が向上し学生の質が変わったことを直視せず、「学生も変わったね」などと語るだけだった。「教育者」という面で学生と向き合っていたとは言えない。「文学部」としてどのような学生を育成するのかという共同の認識もなかったのである。
そこで教授会では松浦氏のリーダーシップの下、大学の理念と機構、カリキュラム、人事、教授会運営、図書、研究室など10あまりの小委員会を設け、全教員がどこかに所属して夏休み返上で討議を行い報告書をまとめたのである。「理念・機構」委員会に属した速水敏彦氏は、本書の中で報告書を全文掲載している。それを読むと、これは大変なものだなと思った。学生側の文章を今読んで、よくここまで書けたなと思った。(高橋氏もどこにこんな能力が潜んでいたのかと書いている。)しかし、この「理念」報告などを読むと、これは適わないなと正直思った。「学生反乱」が教授側の「本気」を引き出したのである。
最終解決まで書くと長くなりすぎるので、ここで松浦氏の述べる「大学教員の対応の類型」を見てみたい。①は「過激・暴力学生と決めつけて学生の要求には一切耳をかそうとしない、頑なで権威主義的タイプ」である。②は「戦闘的学生に対して弱腰で、足並みがそろわず、優柔不断なタイプ」である。③は「学生と共同戦線を張って、学生反乱の大学反乱への飛躍をめざしたタイプ」である。そして④として「研究、教育関係の中で学生と共有しうる立場を可能な限り模索して、紛争の建設的な決着を求めたタイプ」である。松浦氏は④の立場を堅持し、学生側からは「松浦超近代化路線」などと決めつけられながらも、「戦闘的寛容」の精神を貫いたのである。それは何を残したのか、長くなったけれど最後にもう一回。
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