ここ10日近く「騎士団長殺し」を読んでいて、何とか読み終わったわけだが、2回目は疑問などを中心に書く。前回よりも、小説の中身の仕掛けに触れざるを得ないので、まだ未読で近々読もうと思っている人は読んだ後にしてもらう方がいいかもしれない。
「騎士団長殺し」の第1部は「顕れるイデア編」、第2部は「遷ろうメタファー編」と題されている。読み方は「あらわれる」と「うつろう」で、「イデア」(idea)とはプラント哲学以来の用語で「観念」のこと。「メタファー」(metaphor)は比喩の用法の一つ「隠喩」のこと。「あなたは私の太陽だ」といったものである。(「太陽のように」と表現するのが普通の比喩。)こういう題名を見ると、大体の人は物語の内容をそれこそ「隠喩」で表した題名だと思うだろう。
ところがそれは大違い、実は世界小説史上誰も書いたことがない「トンデモ小説」なのである。「顕れるイデア編」というのは、要するに本当に「イデア」が現実界に顕れるのである。つまり、自分が「イデア」であると名乗るイデアの「実体」(?)、「形象化」(?)が口を利く。形は雨田具彦描くところの「騎士団長」を仮の住まい(?)としている。もっとも登場人物の中でも、イデアを見られるのは「私」の他には「少女」だけに限られている。そして「彼」は不思議な言葉遣いをする。まあ通じる日本語だけど。
同じく「メタファー」の方も同様に、現実にメタファーであるという「実体」が出てきて、「私」は「メタファー世界」を遷ろうのである。そこでは「二重メタファーの危険」という警告がなされる。なんだ、二重メタファーって? これがこの小説で一番判らないんだけど、何がどう危険なのか読んでる限りでは僕にはよく判らなかった。だけど、こんな小説は今まで読んだことがない。
例えば「吾輩は猫である」で言えば、猫が人語を解するのはおかしいけれど、世の中に猫という実体が存在するのは皆が知っている。「仮に猫が人間の言葉を判るとするならば」という仮定を受け入れれば、後はリアリズムで理解可能である。だけど、「イデア」や「メタファー」は、本質として「概念」なんだから、実体がない。小説は何でも書けるけど、これは何なんだろう?
もちろんそういう発想が小説内に出てくることは全然かまわない。うまく使われているならば。そこらへんの判断が僕には難しい。単なるリアリズムで小説が書かれていたのはずいぶん昔の話で、日本でも安部公房や大江健三郎以来、ずいぶん不思議な話が書かれてきた。村上春樹でも、特に「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」など長大な小説は、リアリズムを超える手法で書かれてきた。
「海辺のカフカ」なんか、要約するのも難しいような不思議な話なんだけど、超現実界=ファンタジー世界での闘いが、現実世界での「救い」につながっている。「騎士団長殺し」では最初の方から不思議な話がいっぱい出てくるけど、それは「吾輩は猫である」的なファンタジー、つまり「そういうこともあるさ」的に受け入れさえすればリアリズムでも読める。「私」と免色氏の掛け合い的な探求は、ミステリー的にも面白い。それが第2巻の中ほどで、ガラッと変わる。そこで話が一挙に「ファンタジー世界」に移るのである。それは非常に面白いけど、そこでの「私」の闘いが現実にはどう伝わるのか?
「海辺のカフカ」や「1Q84」は、その辺が最後まで非リアリズムなので、現実界の救済=ファンタジー界の闘いという構図が心に沁みとおりやすい。一方、もともと「少女を救い出す」はずの「私」の行動だったのだが、小説世界内で「現実に起こっていたこと」も説明されてしまう。後で納得できる説明をしているわけだから(その内容はここでは書かない)、「私」は何もする必要がなかったのではないか。騎士団長は「私」と少女のもとにともに訪れる。だから、「私」に対して「諸君は心配することはあらない。火曜日になれば見つかるであろう」とアドバイスしてくれれば良かったのに。
だけど、この小説における「私」のファンタジー界の冒険は、「私」にとっては必要なものである。「少女を救う」=世界を救済するためではなく、「私」自身が「ユズ」(別れを切り出した妻)と出会いなおすためには。あるいは小さなころに亡くなった妹の「小径」(こみち)と再び手を取り合うために。小径という名の妹は生まれながらに心臓が悪かった。だから亡くなったことに、兄の責任はもちろん何もなく、どうしようもない運命だった。だけど、彼の家族は妹の死を乗り越えることができなかった。
つまり、「私」の人生は「あらかじめ失われた」ものだったのである。それは村上春樹の多くの小説と同じである。「ノルウェイの森」や「海辺のカフカ」などに通じる、とてつもなく大きな喪失感を抱えて生きてきた。そして、出会った「ユズ」という女性。彼女を得て、肖像画家として生きてきた。彼女が去り、再び大きな傷に直面した主人公がいかに「回復」していくか。その傷の再生という意味では、この小説は心に深く訴えるものがある。だが、現実を救済することと、ファンタジー界を彷徨うことがいくらか離れているのではないか。まあ、それはともかく、「面白くて深い小説」を書く作家は僕が何度も書いているように日本にはまだ多い。村上春樹を好きな人は、ぜひとも辻原登「韃靼の馬」や小川洋子「猫を抱いて象を泳ぐ」を読んでみることをお勧めしたい。
「騎士団長殺し」の第1部は「顕れるイデア編」、第2部は「遷ろうメタファー編」と題されている。読み方は「あらわれる」と「うつろう」で、「イデア」(idea)とはプラント哲学以来の用語で「観念」のこと。「メタファー」(metaphor)は比喩の用法の一つ「隠喩」のこと。「あなたは私の太陽だ」といったものである。(「太陽のように」と表現するのが普通の比喩。)こういう題名を見ると、大体の人は物語の内容をそれこそ「隠喩」で表した題名だと思うだろう。
ところがそれは大違い、実は世界小説史上誰も書いたことがない「トンデモ小説」なのである。「顕れるイデア編」というのは、要するに本当に「イデア」が現実界に顕れるのである。つまり、自分が「イデア」であると名乗るイデアの「実体」(?)、「形象化」(?)が口を利く。形は雨田具彦描くところの「騎士団長」を仮の住まい(?)としている。もっとも登場人物の中でも、イデアを見られるのは「私」の他には「少女」だけに限られている。そして「彼」は不思議な言葉遣いをする。まあ通じる日本語だけど。
同じく「メタファー」の方も同様に、現実にメタファーであるという「実体」が出てきて、「私」は「メタファー世界」を遷ろうのである。そこでは「二重メタファーの危険」という警告がなされる。なんだ、二重メタファーって? これがこの小説で一番判らないんだけど、何がどう危険なのか読んでる限りでは僕にはよく判らなかった。だけど、こんな小説は今まで読んだことがない。
例えば「吾輩は猫である」で言えば、猫が人語を解するのはおかしいけれど、世の中に猫という実体が存在するのは皆が知っている。「仮に猫が人間の言葉を判るとするならば」という仮定を受け入れれば、後はリアリズムで理解可能である。だけど、「イデア」や「メタファー」は、本質として「概念」なんだから、実体がない。小説は何でも書けるけど、これは何なんだろう?
もちろんそういう発想が小説内に出てくることは全然かまわない。うまく使われているならば。そこらへんの判断が僕には難しい。単なるリアリズムで小説が書かれていたのはずいぶん昔の話で、日本でも安部公房や大江健三郎以来、ずいぶん不思議な話が書かれてきた。村上春樹でも、特に「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」など長大な小説は、リアリズムを超える手法で書かれてきた。
「海辺のカフカ」なんか、要約するのも難しいような不思議な話なんだけど、超現実界=ファンタジー世界での闘いが、現実世界での「救い」につながっている。「騎士団長殺し」では最初の方から不思議な話がいっぱい出てくるけど、それは「吾輩は猫である」的なファンタジー、つまり「そういうこともあるさ」的に受け入れさえすればリアリズムでも読める。「私」と免色氏の掛け合い的な探求は、ミステリー的にも面白い。それが第2巻の中ほどで、ガラッと変わる。そこで話が一挙に「ファンタジー世界」に移るのである。それは非常に面白いけど、そこでの「私」の闘いが現実にはどう伝わるのか?
「海辺のカフカ」や「1Q84」は、その辺が最後まで非リアリズムなので、現実界の救済=ファンタジー界の闘いという構図が心に沁みとおりやすい。一方、もともと「少女を救い出す」はずの「私」の行動だったのだが、小説世界内で「現実に起こっていたこと」も説明されてしまう。後で納得できる説明をしているわけだから(その内容はここでは書かない)、「私」は何もする必要がなかったのではないか。騎士団長は「私」と少女のもとにともに訪れる。だから、「私」に対して「諸君は心配することはあらない。火曜日になれば見つかるであろう」とアドバイスしてくれれば良かったのに。
だけど、この小説における「私」のファンタジー界の冒険は、「私」にとっては必要なものである。「少女を救う」=世界を救済するためではなく、「私」自身が「ユズ」(別れを切り出した妻)と出会いなおすためには。あるいは小さなころに亡くなった妹の「小径」(こみち)と再び手を取り合うために。小径という名の妹は生まれながらに心臓が悪かった。だから亡くなったことに、兄の責任はもちろん何もなく、どうしようもない運命だった。だけど、彼の家族は妹の死を乗り越えることができなかった。
つまり、「私」の人生は「あらかじめ失われた」ものだったのである。それは村上春樹の多くの小説と同じである。「ノルウェイの森」や「海辺のカフカ」などに通じる、とてつもなく大きな喪失感を抱えて生きてきた。そして、出会った「ユズ」という女性。彼女を得て、肖像画家として生きてきた。彼女が去り、再び大きな傷に直面した主人公がいかに「回復」していくか。その傷の再生という意味では、この小説は心に深く訴えるものがある。だが、現実を救済することと、ファンタジー界を彷徨うことがいくらか離れているのではないか。まあ、それはともかく、「面白くて深い小説」を書く作家は僕が何度も書いているように日本にはまだ多い。村上春樹を好きな人は、ぜひとも辻原登「韃靼の馬」や小川洋子「猫を抱いて象を泳ぐ」を読んでみることをお勧めしたい。
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