オウム問題はまだ続くけど、毎日書くのは大変なので後回しにしようと思う。7月の訃報特集もそろそろ書かないと、忘れてしまいそう。100歳を迎えた版画家の浜田知明と脚本家の橋本忍の追悼は別に書いた。二人とも生涯の業績を振り返る回顧展の開催を望みたい。
まず桂歌丸と浅利慶太について。二人ともすごく大きな訃報だったが、僕には「功罪半ば」とは言わないが、功だけじゃなかったと思う。落語家で落語芸術協会会長の桂歌丸、本名椎名巌は1936年8月14日に生まれ、2018年7月2日に亡くなった。享年81歳。2016年5月まで日本テレビの落語番組「笑点」の司会者をしていたから、多分全国民が名前と顔を知っていた。司会者になったのは2006年のことだが、なんだかもうずーっと笑点の司会者だったような気がしてくる。
桂歌丸は、例年8月の国立演芸場中席でトリを取っていた。そこで三遊亭圓朝の長大な演目を復活させていた。結局それが落語家としての集大成的なものとなった。僕も何度か聞いているけど、面白いと言えば面白いんだけど、よく判らないと言えば判らない。圓朝そのものに脈絡がないところがあって、それを歌丸がある程度整理し、さらに演じる前に最低限の解説をしていた。そうしないと判らないし、時間の制約もあって整理が必要なのである。「真景累ヶ淵」は楽しめたが、「塩原多助一代記」は現代では少々無理かなという感じでついウトウトしてしまった。
僕が一番記憶に残っているのは、新宿末廣亭で演じていた時にお客さんが具合が悪くなった時のことだ。落語を中断し、お客に声をかけ、裏方を呼んで外へ連れて行ってもらった。「どこまでやったっけ」などと言いつつ、「上からお客さんの健康に気を配るのも落語家の仕事なんです」などと言って、笑いと拍手を受けていた。そういう様子を見ると、落語家としてはメリハリに乏しいところがあったと思うけど、なんだかほのぼのとしてくるのである。
でも「笑点」ばかりが落語の話題になるような、大喜利が落語だと若い人が思い込むような状況を作ったのはどうなんだろと思う。まあ「寅さん」みたいな「偉大なるマンネリ」も世の中には必要だ。でも自分が会長を務める芸協の将来を託すべき春風亭昇太を「笑点」メンバーにして、次の司会者にしたのはどうなんだろう。なんだか落語界全体にとってもったいなかったような気もするし、いや昇太の知名度を全国区にしたのは芸協にとってベストだったような気もする。でもテレビで見る昇太は、それまで見てきた面白さの半分もないと思う。
若い時の写真を見ると、こんなだったなあと懐かしくなる。ほぼずっと笑点メンバーだったから、先代三遊亭円楽と並んで番組のイメージを作った。少し前に映画「博多っ子純情」を見直したら歌丸さんが出てるんでビックリした。そうだったか。師匠(二度目だけど)の桂米丸がまだ時々高座に出ているというのに先に歌丸が亡くなるとは。
浅利慶太は「演出家」で「劇団四季創設者」と報じられた。1933年3月16日~2018年7月13日、85歳。劇団四季と言えば、僕が名前を知った時にはアヌイやジロドゥなどのフランス演劇をやっている芸術的な劇団だった。あれミュージカルもやるんだと思ったのは、「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」をロックミュージカルとしてやったころで、調べてみると1973年で演目名が少し違った。今じゃ、落語と言えば笑点だと思ってる人と同じぐらい、観劇体験は修学旅行で見た四季のミュージカルだけという人がいるだろう。
新劇が芸術性か社会性かはともかく、芝居で食えないのは当たり前だった。昔は映画、その後はテレビで売れない限り、アルバイトで食いつなぐしかなかった。そんなところに「株式会社」としての劇団を成立させ、全国各地に専用の劇場を持ち、何年もロングランするという演劇モデルを成功させた。これが功績でなくて何だという感じもするけど、僕は正直言ってあまり関心がなかった。売れてるものも大事だが、本当にすごいことをやってる演劇や映画がそんなにヒットするのか。
「李香蘭」は満州映画協会の大人気女優、戦後は日米で活躍し参議院議員になった山口淑子の数奇なる人生をミュージカル化したものである。「戦争を語り継ぐ」ことを掲げ、中国でも公演も行った。ということで、歴史教員である僕もこれは見に行った。確かにこういうものも大事だとは思うけど、正直言って期待外れだったなと思う。知ってる話、誰でも受け入れ可能なストーリイなんじゃないか。そんな感じを受けたのである。いや、知らないと言われれば、そういう人もいるわけだから、それでいいと思う。でもオリジナルのミュージカルも作ったのに、誰もが知るような有名な歌は生まれなかった。
つまり「演出家」であり「経営者」として成功したけど、それが僕の見たい演劇ではないと思ってきた。浅利慶太は中曽根=レーガン会談を「演出」したり、長野冬季五輪の開会式を「演出」した。つまり、演出家というのはそのような「国家的儀式」に関わるものという意味を包含していたのである。「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根内閣は、21世紀の小泉内閣、安倍内閣の「先駆者」である。今の日本の悪いところは中曽根時代にさかのぼることが多い。そんな総理と「お友だち」だった演劇人を僕がほとんど見てないのは当然というべきか。
まず桂歌丸と浅利慶太について。二人ともすごく大きな訃報だったが、僕には「功罪半ば」とは言わないが、功だけじゃなかったと思う。落語家で落語芸術協会会長の桂歌丸、本名椎名巌は1936年8月14日に生まれ、2018年7月2日に亡くなった。享年81歳。2016年5月まで日本テレビの落語番組「笑点」の司会者をしていたから、多分全国民が名前と顔を知っていた。司会者になったのは2006年のことだが、なんだかもうずーっと笑点の司会者だったような気がしてくる。
桂歌丸は、例年8月の国立演芸場中席でトリを取っていた。そこで三遊亭圓朝の長大な演目を復活させていた。結局それが落語家としての集大成的なものとなった。僕も何度か聞いているけど、面白いと言えば面白いんだけど、よく判らないと言えば判らない。圓朝そのものに脈絡がないところがあって、それを歌丸がある程度整理し、さらに演じる前に最低限の解説をしていた。そうしないと判らないし、時間の制約もあって整理が必要なのである。「真景累ヶ淵」は楽しめたが、「塩原多助一代記」は現代では少々無理かなという感じでついウトウトしてしまった。
僕が一番記憶に残っているのは、新宿末廣亭で演じていた時にお客さんが具合が悪くなった時のことだ。落語を中断し、お客に声をかけ、裏方を呼んで外へ連れて行ってもらった。「どこまでやったっけ」などと言いつつ、「上からお客さんの健康に気を配るのも落語家の仕事なんです」などと言って、笑いと拍手を受けていた。そういう様子を見ると、落語家としてはメリハリに乏しいところがあったと思うけど、なんだかほのぼのとしてくるのである。
でも「笑点」ばかりが落語の話題になるような、大喜利が落語だと若い人が思い込むような状況を作ったのはどうなんだろと思う。まあ「寅さん」みたいな「偉大なるマンネリ」も世の中には必要だ。でも自分が会長を務める芸協の将来を託すべき春風亭昇太を「笑点」メンバーにして、次の司会者にしたのはどうなんだろう。なんだか落語界全体にとってもったいなかったような気もするし、いや昇太の知名度を全国区にしたのは芸協にとってベストだったような気もする。でもテレビで見る昇太は、それまで見てきた面白さの半分もないと思う。
若い時の写真を見ると、こんなだったなあと懐かしくなる。ほぼずっと笑点メンバーだったから、先代三遊亭円楽と並んで番組のイメージを作った。少し前に映画「博多っ子純情」を見直したら歌丸さんが出てるんでビックリした。そうだったか。師匠(二度目だけど)の桂米丸がまだ時々高座に出ているというのに先に歌丸が亡くなるとは。
浅利慶太は「演出家」で「劇団四季創設者」と報じられた。1933年3月16日~2018年7月13日、85歳。劇団四季と言えば、僕が名前を知った時にはアヌイやジロドゥなどのフランス演劇をやっている芸術的な劇団だった。あれミュージカルもやるんだと思ったのは、「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」をロックミュージカルとしてやったころで、調べてみると1973年で演目名が少し違った。今じゃ、落語と言えば笑点だと思ってる人と同じぐらい、観劇体験は修学旅行で見た四季のミュージカルだけという人がいるだろう。
新劇が芸術性か社会性かはともかく、芝居で食えないのは当たり前だった。昔は映画、その後はテレビで売れない限り、アルバイトで食いつなぐしかなかった。そんなところに「株式会社」としての劇団を成立させ、全国各地に専用の劇場を持ち、何年もロングランするという演劇モデルを成功させた。これが功績でなくて何だという感じもするけど、僕は正直言ってあまり関心がなかった。売れてるものも大事だが、本当にすごいことをやってる演劇や映画がそんなにヒットするのか。
「李香蘭」は満州映画協会の大人気女優、戦後は日米で活躍し参議院議員になった山口淑子の数奇なる人生をミュージカル化したものである。「戦争を語り継ぐ」ことを掲げ、中国でも公演も行った。ということで、歴史教員である僕もこれは見に行った。確かにこういうものも大事だとは思うけど、正直言って期待外れだったなと思う。知ってる話、誰でも受け入れ可能なストーリイなんじゃないか。そんな感じを受けたのである。いや、知らないと言われれば、そういう人もいるわけだから、それでいいと思う。でもオリジナルのミュージカルも作ったのに、誰もが知るような有名な歌は生まれなかった。
つまり「演出家」であり「経営者」として成功したけど、それが僕の見たい演劇ではないと思ってきた。浅利慶太は中曽根=レーガン会談を「演出」したり、長野冬季五輪の開会式を「演出」した。つまり、演出家というのはそのような「国家的儀式」に関わるものという意味を包含していたのである。「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根内閣は、21世紀の小泉内閣、安倍内閣の「先駆者」である。今の日本の悪いところは中曽根時代にさかのぼることが多い。そんな総理と「お友だち」だった演劇人を僕がほとんど見てないのは当然というべきか。
また、フランス演劇からミュージカルに簡単に移行できたのは、彼には特に言うべきテーマがなかったからだと思います。
彼らが四季を作った時に、早稲田の白坂依志夫も劇団を作っていたそうですが、すぐにダメになったそうです。後に、鈴木忠志は早稲田小劇場を作りますが、商業的な成功にはなりませんでした。この辺は慶応と早稲田の違いだと思います。
しかし、劇団四季の歴史の本を読むと、当初は地方公演は大変で、影万里江のような看板女優も、飛び込みでその地の青年会議所に営業に行かされたそうで、そうした営業努力は凄いと思う。演劇も事業として見れば当然のことですが。
『李香蘭』は、私もテレビで見ましたが、あまりのばかばかしさにあきれました。