尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』、♪あの素晴らしい愛をもう一度

2024年06月12日 22時36分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 (6月11日の)夜に落語に行く前に映画を2本見たのだが、これは今では「暴挙」だったかも。でもどちらも内容に満足できたから後悔はしてない。最初が『トノバン 音楽家加藤和彦とその時代』という映画。やってるのを知らない人もいるかも知れないけど、これぞ「待ってました」と声を掛けたいような映画だ。中に出て来る高橋幸宏坂本龍一はすでに亡くなっている。作るにはギリギリの時期だったのである。と言っても加藤和彦って誰だという人もいるだろう。

 2009年10月17日、加藤和彦が軽井沢のホテルで自ら命を絶ったというニュースの衝撃は今も忘れてない。62歳だった。僕はちょっと前の8月28日に(今は無き)新宿厚生年金ホールで開かれた「イムジン河コンサート」で加藤和彦を見たばかりだったのである。変幻自在に音楽活動を行った加藤和彦に一体何があったのだろうか? 

 しかし、この映画はそれを追求する映画ではない。デビューから80年代までの音楽活動を証言やアーカイブ映像で振り返る映画である。外国にはこのような音楽ドキュメンタリー映画が多いのに、日本には何故ないのかと常々思っていた。日本では社会問題や「障害者」に長年密着取材したような記録映画が多い。それも大切だけど、こういう音楽映画ももっと見たい。相原裕美監督。題名の「トノバン」は加藤和彦の愛称で、イギリスの歌手ドノヴァンから来たという。
(加藤和彦)
 加藤和彦(1947~2009)の名前を知ったのはいつだか覚えてない。でもフォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』(1967)はよく覚えている。小学生だったけど、この奇想のコミックソングはレコード化されてよく売れた。日本初のミリオンセラー、つまり100万枚以上売れたという。ラジオでもいっぱい掛かった。小学生でも誰もが知ってたし、真似していた。

 その「フォークル」が、加藤和彦北山修(1946~)、はしだのりひこ(端田宣彦、1945~2017)の3人だと名前を覚えたのはいつなのか、今では思い出せないことである。一年限定でプロ活動をしたフォークルの、2枚目のシングルレコードが発売中止になった『イムジン河』、3枚目が『悲しくてやりきれない』、4枚目が『青年は荒野をめざす』。そして1968年10月17日にフォークル解散コンサートが行われた。(今気付いたけど、41年後の同じ日に加藤和彦の遺体が発見された。)
(フォーク・クルセダーズ)
 その後、多くの歌手に楽曲を提供しながら、自らも歌い続けた。その中で最大のヒットが1971年に北山修と歌った『あの素晴らしい愛をもう一度』だ。僕が中学教員になった80年代半ばには、生徒たちはこの歌を合唱コンクール用の歌と思っていた。普通に大ヒットした曲だったんだけど。そして1971年11月にサディスティック・ミカ・バンドを結成した。このバンドはイギリスで評価され、大きな反響を呼んだ。しかし、今までのようなシングルレコードのヒット曲と違って、内容的にも複雑で僕も今までよく知らなかった。バンド名の「ミカ」は加藤の妻だが、どういう人かよく知らない。存命だが映画には出て来ない。それなりの複雑な経過があることが示されるが、このミカ・バンドの時代の映像は凄く楽しいし、今見ても興味深い。
(サディスティック・ミカ・バンド)
 1975年にミカと破綻した後で、8歳年上の安井かずみ(1939~1994)と結婚した。70年代を代表する伝説的な作詞家である。小柳ルミ子の「わたしの城下町」や沢田研二の「危険なふたり」などの他、僕にとってはアグネス・チャンの「草原の輝き」や天地真理の「ちいさな恋」を作詞した人。竹内まりやの「不思議なピーチパイ」は二人が作詞、作曲している。二人による『ヨーロッパ三部作』は今映画で聞いても驚くほど魅力的だ。二人は時代を象徴するファッショナブルなカップルとして有名にもなった。加藤は美食家で自ら料理も作った。それらの様子は生き生きとして楽しい。

 だが安井かずみはガンに冒され、1994年に55歳で早世したのである。Wikipediaを見ると、1995年にはオペラ歌手の中丸三千繪と結婚した。そのことは覚えていなかったが、2000年に離婚している。中丸は存命だが映画には出て来ない。加藤はその後も様々な分野で活動していた。フォークルやサディスティック・ミカ・バンド(ミカじゃなく木村カエラだけど)を期間限定で再結成したり、スーパー歌舞伎も『ヤマトタケル』など何作も手掛けた。映画音楽でも『探偵物語』など何本も担当し、中でも井筒和幸『パッチギ!』(2005)は評判になった。この映画で「イムジン河」に再び脚光が当たったのである。2009年に開かれたコンサートでは、「イムジン河」はアジアの「イマジン」と言っていた。
(証言する北山修)
 多くの人が映画内で証言を寄せているが、中でも北山修は何度も出て来る。北山修は当初からのフォークルメンバーである。精神科医になるため学業に専念するのが、フォークル解散の理由でもあった。そして実際に日本を代表する精神科医となり、特にカウンセリング論の大家である。「あの素晴らしい愛をもう一度」の他、「」「戦争を知らない子供たち」「白い色は恋人の色」などの忘れられない歌詞も書いた。エッセイ『戦争を知らない子供たち』は時代を象徴するベストセラーになった。

 その後もつかず離れず、時には音楽活動を共にしてきた友人が「自死」したのである。精神科医としても、友人としても、痛恨という言葉では語りきれないだろう。幾つか追悼文を書いているが、加藤和彦を語る時に北山修を抜かすことはできない。だから何度も出て来るわけだが、それでも語り切れた感じはしない。人間の生と死は、そうそう簡単にまとめきれるものではない。僕も書いているうちに、何だか「悲しくて悲しくて とてもやりきれない」、「広い荒野にぽつんといるようで 涙が知らずにあふれてくるのさ」と口ずさんで悲しくなってきた。

 ところでこの前書いた代島治彦監督の『ゲバルトの杜』、その前作『きみが死んだあとに』が扱う60年代後半から70年代初頭は、ちょうど加藤和彦のフォークル、サディスティック・ミカ・バンド時代と重なっている。どっちがA面で、どっちがB面かはともかく、その両面を合わせ見ないとあの時代を理解出来ない。新左翼運動が高揚した同じ時に、「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたというのは、日本の大衆文化の健全さを示すものじゃないだろうか。(なお、大島渚監督の怪作映画『帰ってきたヨッパライ』にフォークルの若き三人の姿が留められている。)

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