尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大崎事件・福井事件の再審棄却

2013年03月07日 23時59分44秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 3月6日に再審棄却の決定が出た2つの事件についての報告。再審は近年、足利事件、布川事件、東電女性殺人事件などで無罪判決が出て、またこの福井事件、東大阪事件などで開始決定が出た。これを「再審が多すぎて、確定判決の権威が落ちてしまう。法秩序の観点から問題だ」なんて思っている人が裁判所や検察にはきっといるんだと思う。DNA鑑定が誤っていて検察側も無罪を認めるような事件は別にして、供述調書の信用性を争うような事件は極力再審を認めないようにしたい…。多分そういう考えの裁判官に当たってしまったんだと思う。

 しかし、再審開始事件は全然多くない。まだまだ無実を求めて争っている事件がたくさんある。富山県の氷見事件では、被告人だった人は諦めてしまい法廷で無罪を求めなかった。服役後の真犯人が現れて、かろうじて救われたわけである。去年のパソコン遠隔操作事件でも、無実なのに罪を押し付けられていた人がいた。そういう状況を考えると、「冤罪事件」はもっともっといっぱいあるのではないかと思う。でも、刑期が短い事件では、最高裁まで争い数年、その後再審請求で何十年、その間の精神的、金銭的負担を思うと、もう諦めて早く刑期を終えて、忘れられたいと思う人がいても当然だろう。そう言う中でも、殺人罪は重大なので、無実を主張し続けるわけである。再審事件、あるいは最高裁までに無罪になった冤罪事件を起きた年ごとに並べてみれば、多いように見えても数年に一事件と言う程度だろう。もっともっと隠れた冤罪事件があるんだと僕は思っている。

 今回の福井事件も大崎事件も、「自白」はなく、一回は再審開始決定が出た。福井事件は一審で無罪で、それは名張毒ぶどう酒事件も同じ。そういう事件は、無実を晴らしやすいと思うかもしれないが、逆に難しいのである。「自白」があった方が、本人ではないんだから間違いがいっぱいあるわけで、その自白に合わない新鑑定、自白の揺れ動きなどで無罪を証明しやすいのである。自白も物証もないのに、「目撃者」や「共犯者」がウソを言ってるというのが、実は一番難しい。検察が囲い込んだ「目撃者」「共犯者」をどうしても裁判官は信じてしまいやすいのである。しかも、「再審」となれば、先輩裁判官の判断を間違いだということになる。その勇気のない裁判官がいるということだ。

 さて、福井事件に関しては再審開始決定が出たときに、2011年12月2日付で「福井事件の再審開始を考える」を書いた。この事件は一審は無罪、2審で逆転有罪判決で、それが最高裁で確定した。再審請求をして、原審段階の未開示記録がかなり開示されて、それも評価されて、2011年11月30日に名古屋高裁金沢支部が再審開始決定が出たものである。それに対し、検察側が異議申し立てを行って、支部ではない名古屋高裁本庁が再審請求を棄却した。(「異議審」と言う。)この事件は一審が無罪だから、一審はやり直しを求める必要がない。だから高等裁判所の控訴審判決のやり直しを求めているわけである。

 名古屋高裁は名張事件の再審をかたくなに認めないところだから、僕は逆転もありえなくはないと思っていたが、異議審段階で新しい主張などは特になかったということだから、再審開始の可能性の方が高いかなと思っていた。でも、「目撃者」の捜査段階の供述を全面的に取り上げての逆転棄却である。前にも書いたが、この「目撃者」には「10代の暴力団員」もいる。若い暴力団員が覚醒剤中毒の知り合いを「売った」のである。しかも、供述は何度も揺れている。それを「不自然」と思わない裁判官がいるのである。それが不思議というしかない。近年の最高裁の事実認定に関する判例からすると、最高裁への特別抗告で改めて再審開始決定が出ると期待したい。 

 もう一つが、鹿児島県の大崎町(宮崎県に近い、志布志湾に面した大隅半島の付け根のあたりにある町)で1979年に起きた大崎事件である。請求しているのは、今年85歳の原口アヤ子さん。懲役10年が確定し、出所後に一度再審請求をして認められた。それが高裁で逆転し、最高裁でも認められなかった。2度目の再審請求を2010年8月に行い、年齢を考えても「最後の再審請求」「無実の罪を晴らしてから死にたい」と再審開始を訴え、支援の輪も広がってきた。しかし、今回の再審棄却決定は、福井事件や他のニュースと重なったこともあって、東京ではテレビニュースにも取り上げられなかった。

 この「事件」は家族内の事件とされた。原口さんの夫と一緒に農業を営んでいた夫の弟(4男)が行方不明になり、1979年10月15日に遺体で発見された。これを夫(長男)と夫の弟(次男)、およびその義弟の長男と4人で殺害したとされたのである。この3人の男性は知的障がいがあるという話で、家族内の誰かが犯人と見込んだ警察の調べにお互いが疑心暗鬼となり、アヤ子さん以外の男性が「自白」させられてしまったのである。こうして「主犯」はアヤ子さんということにされ、懲役10年を宣告された。「自白」はなく、「共犯者」の証言(夫など知的障がい者の「自白」)による認定だった。しかし、そもそも「事件」だったのだろうか。新証拠によると、「絞殺」という「自白」は間違いで、溝に落ちた時の事故と言う可能性が高くなっている。確定時にアヤ子さんは53歳。以後、模範囚をつとめあげ、何度か仮釈放の機会があったものの、いずれも「無実だから反省することはできない」と仮釈放の機会を自ら見送った。(一日も早く「シャバ」に出たいはずなのに、高齢になったアヤ子さんが仮釈放を求めなかったこと自体が「行動証拠」だろう。有期刑の場合は、満期出所ではなく、刑期を残して仮釈放して、その間保護司が接する期間を作って社会復帰を円滑にするのが普通である。しかし、そのためには模範囚であるだけでなく、罪を深く悔いていて再犯の可能性が低いことが重要となる。)

 こうして出所時点ですでに63歳。その後、夫と離婚して、旧姓を名乗って、再審請求を続けているわけである。この30年間、全く揺れることなく、一貫して無実を主張、何の動機もなく、ただ「共犯者の自白」というものにとらわれてきた。戦前に起きた「吉田岩窟王事件」や「加藤老事件」などという有名な冤罪事件があるが、いずれも男性の事件で、このような高齢女性が冤罪を訴えている事件は他にないように思う。一日も早い再審決定が望まれるが、裁判所は弁護側申請の「証拠開示請求」を退けて結審している。裁判長は中牟田博章裁判官で、この人は氷見事件で有罪判決に関与している。そういう経験をした裁判官が今回も弁護側の主張を一方的に退けて、再審を認め内容な決定をしたらわけで、良心が問われるというべきだ。
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「約束」と言う映画-名張毒ぶどう酒事件

2013年03月05日 23時21分25秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 渋谷のユーロスペースで、「約束」という映画を見た。これは名張毒ぶどう酒事件で再審を訴え続けている死刑囚、奥西勝の半生を劇映画と言う形で描いた映画である。基本は劇映画なんだけど、事件当時や再審決定などのニュース映像を交えて、事件の解説なども行っている。実在の人物が実名で出てくる。そういう映像の中に、高齢の奥西死刑囚を仲代達矢、事件当時は山本太郎、母親を樹木希林が演じる劇の部分があるという構成。作ったのは、東海テレビの斉藤潤一監督である。「死刑弁護人」を作った人で、この名張事件もずっと追ってきた。地元(名古屋)に近い事件と言うことで追ってきて、無実を確信しながら本人への直接取材はかなわないということで、劇映画と言う手段で獄房の死刑囚の苦悩を再現した。
 
 名張毒ぶどう酒事件については、僕も今までに書いている。「名張毒ぶどう酒事件の集会」「名張事件の再審開始か?」「名張事件の再審棄却に異議あり」である。僕は名張事件の再審開始は当然のことと考えていて、健康を害し「獄中死」が心配される奥西勝さんを生きて獄外に取り戻せる日がくることを念願している。

 そういう僕なんだけど、だからと言って映画の出来が素晴らしいかどうかは別である。見て欲しいと思わなければ書かないので、この映画は実に重い感動を与える素晴らしい出来だった。是非、見て欲しいと思って紹介する次第。東京渋谷のユーロスペースでの上映は15日まで。僕は冤罪問題に関心を持っているが、映画に生の主張を持ち込んで社会的な問題を訴えるという映画は好きではない。見ていて面白くないというか、そもそも見る必要性が薄いからである。「無実の死刑囚」というのは大問題だから、広く社会に訴えるべき問題だけど、本やパンフを読んでれば十分なんだったら、家で寝ながらできるからその方がいい。しかも、ドキュメント映画監督が作った劇映画で、ドラマの中に記録映像も交じると聞けば、名張事件を広めるという意味ではいいだろうけど、映画作品としてはどうなんだろうと見る前は心配だったわけである。

 心配は杞憂で、それはいつに仲代達矢と言う俳優の偉大さがなせる功績だと思う。もともと事件の争点の骨格を知っていたということもあるが、獄中の「無実の死刑囚」の苦悩がまさにリアルに伝わってきて、これがドラマの役割かと改めて思い知った。いっぱい映画を見ていると、ついトリビアルな知識やうんちくにはまり込むが、ドラマの本質は伝えたいメッセージをまず直球で投げ込むことにあるんだと思い出せてくれるのである。社会的なメッセージ映画と言うと、なんだか古いように思うかもしれないが、決してそうではない。つまり、「人間としての共感」を伝えるドラマということなのである。

 それにしても仲代達矢と言う俳優は素晴らしい。今もイヨネスコの「授業」を公演中だが、高齢になっても新しいことに挑み続ける体力、知力のすごさ。夫人を亡くした後に、これほど活躍できるという精神力の高さに感銘する。僕は仲代達矢と奈良岡朋子が出演した「ドライビング・ミス・デイジー」を見て、コンサートなんかは別にして、新劇系の舞台で唯一スタンディング・オベーションが起きるのを見た。映画でも、小林正樹「切腹」を頂点にして、幾多の黒澤明映画などが脳裏に思い出されてくる。そういう偉大な芸歴を誇る仲代達矢ではあるが、現存の人物にして、死刑囚であり、無実を主張しているという役柄は難役中の難役ではないかと思う。無実ではない方がまだやりやすいだろう。熊井啓監督の昇進作「帝銀事件 死刑囚」も確定死刑事件で無実を訴え再審請求中の平沢貞通を描いている。俳優は信欣三が演じた。これは純然たる劇映画として作られているので、今回のような実際の映像が中に交じるのとは異なっている。しかも実際の映像と言っても、1審無罪判決が最後で、その後は撮影できないから、実際の映像や写真はない。面会を許される家族、弁護士、特別面会人などごく少数の人しか、(刑務官は別にして)接した人がいない。そういう昔のハワード・ヒューズみたいな「伝説の実在人物」を演じるのである。しかも、「無実の主張」を観客に納得させる必要がある。これがしかし、仲代達矢と言う人のすごさで、僕は感動を覚えた。

 こういう風に、ちょっと普通の映画とは違う種類の映画だが、見て損はないと思うし、重い感銘を覚える出来になっていると思う。冤罪事件に関心のある人は見るだろうが、そうではない人にも是非見て欲しい映画である。
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奥田英朗「沈黙の町で」を読む③子どもの世界編

2013年03月03日 00時19分12秒 | 本 (日本文学)
 「沈黙の町で」と言う小説の中で、警察が突っ走る、学校はアタフタするというのは、もちろんやむを得ない。小説世界が成立する前提条件なんだから。「事件」というか、「事故」というか、そもそもそれが起こらなければ、小説にならない。小説になる以上、学校の対応になんらかの問題があることになる。だから僕は2回にわたりそれを指摘したが、読んでる側の気持ちとしては、学校や警察の対応も確かに大事だけど、多分それは背景事情の描写にしか過ぎないと思う。最初のうちは、事件そのものの推移に目が離せないが、途中で時間が戻って4月のクラス分けの時の女子の話が始まる。このあたりから生徒の世界の複雑な事情に読む側の心も乱れてくる。この小説を読んで一番思うことは、中学生の世界は捉えがたい、教師や親の目からは見えないものがいかに多いかと言うことではないかと思う。

 親の様子も実にリアルに描かれている。結局親は自分の子どもが一番かわいいわけである。僕はそれは当然だと思うし、別に批判するつもりはない。実際の生徒指導の場面でもそう思ってきた。生徒は学校では家庭とは別の顔を見せていることが多いが、それを言えば親や教師も家と職場では別の顔をしているはずである。教師は仕事で生徒と接しているだけで、卒業させれば二度と会わない生徒も多い。親は何があってもこの先何十年も親子の関係が続く。親以外に「子どもを全面的に信じて支えてあげられる存在」はいない。だからと言って、あまりにも非常識な言動は困るが、常識の範囲内で親が子どもを信じてあげるのは、学校の生徒指導にも意味があることだと思っている。

 もっとも今の話はこの小説内の「加害生徒」側の親の話である。「被害生徒」の方の家庭には問題が多い。事件後のことはまあ仕方ない。学校の不備も多すぎるので。それ以前の問題である。その生徒はいかにも「いじめられっ子」のタイプとして描かれているが、それと同時に地域で有力な呉服店の一人息子なんだという。この呉服店は学校指定の業者にもなっていて、学校との経済的結びつきも深い。だから、学校はそれまでは、多分「腫れ物に触る」ような対応をしていたのではないかと思う。それにしても、技量が全然ないテニス部に入っていて、親はいつも高価なラケットやスポーツウェアを買い与えている。これでは「いじめて下さい」と言ってるようなものである。小遣いは毎月1万円、加えて祖母がひそかにもう1万を与えているらしい。なんだ、これ。「うちの子にたかってください」と育てているようなものだ。「お金でいじめられない位置を買う」と言う指導方針なのか。どうもそういう覚悟もないようだ。従って、この小説内では実際に「たかり」行為が発生しているが、これは「自発的におごっている」と言う解釈も不可能ではない。「不良の先輩」が店から生地を持ってこさせる事件もあるが、被害生徒はすでに死亡しており、刑事上の立件は難しいのではないか。こういうケースを読むと、「過剰」は「欠乏」と同じくらい人生の大問題なんだなとよく判る。家が貧乏でお小遣いも不自由なら、みんなで遊びに行ってもつらいだろう。でもその反対に、自分の家だけお小遣いが豊富すぎても、いろいろな問題が起こるのである。(そういうリッチな家なら、親は「基本給」は押さえて、何か勉強や部活に必要なものがあったときに、申請により「ボーナス」を与えるという方式を取るべきだったろう。)

 実際の事件の場合、学校の対応は批判の対象になるが、生徒や親は被害者も加害者も情報が公開されないので、表立っては論じられることが少ない。小説だと、両者の家庭環境も出てくるので、どうしても小説内の被害生徒の事情に触れざるを得ない。この小説の「被害生徒」は、いかにも「空気が読めない」生徒として描写されている。部活でもクラスでも孤立しているが、なんでテニス部に入っているのか判らない。でもテニス部の同学年のリーダー格の生徒に守られていると言ってよい。その同学年のテニス部の生徒が、事件当日の直前まで一緒に部室にいた生徒であり、逮捕・補導されることになる生徒たちである。そのような「守られていた関係」が完全に終わるのが、「6月事件」である。だから6月のキャンプ合宿で起こったことの理解が決定的に重大なんだけど、それが学校にも警察にもよく判っていないことは前回に書いた。6月のキャンプで、教師には内緒で、ある「裏行事」が企画されるが、その「秘密」が発覚してしまう。そのきっかけが、「被害生徒」が「不良生徒」にちょっかいを出されたことである。そして「被害生徒」は「裏行事の全貌」を教師に話してしまう。いわゆる「チクリ」である。この「いじめられっ子がチクリ役になってしまった」という事件の性格を考えると、学校も慎重の上にも慎重を期した指導が必要だったはずである。(「情報源の秘匿」を考えなければいけなかった。)それはともかく、こうしてテニス部は他部の恨みも買い、学年全体に恥をかかせてしまった。が、もちろんそのことは「被害生徒」には通じず、相変わらず技量もないのに高級ラケットを買ってもらったりして、皆呆れてしまう。ついにはリーダー格の生徒からも「退部勧告」されてしまう始末である。

 さらに大変な問題がある。この「被害生徒」は一人っ子だが、実はようやくできた子で、母親は旧家に嫁ぎ後継ぎ出産を望まれるが、1人目は流産、2人目がようやく生まれたものの、次の子も流産した。そういう結果もあって、溺愛されて育つのである。そういう事情はともかく、いつもいじめられたり無視されたりしたからか、いつの間にかこの「幻の兄」「幻の弟」がその生徒の脳内に実在し始めたらしいのである。もうテニス部で一緒に練習してくれる生徒もいなくて、後輩の1年生にもバカにされている。そういう部活に平気で出ていられるのも不思議だが、ぶつぶつ「兄」や「弟」と会話しながら、壁打ちを続けている。これでは、いじめを通り越して不気味な存在として敬遠されざるを得ない。それなのに、平気でテニス部のリーダー格生徒に接してくるから、いわゆる「うざい」というか、最後の頃は「いい加減にしてくれ」状態だったのである。それを担任も顧問もつかんでいないのは、何としたことか。

 この「被害生徒」の理解がこの小説のキーポイントだが、今見てきただけで判ると思うが、どう考えても「自閉症スペクトラム障害」である。自分のしたことの結果がよく判らない。だから「反省」の仕方が判らない。周りとの接し方もよく判らず、お金だけはあるからつい「パシリ」的におごってあげることになるが、本質はいじめではなく「発達障害の人間との付き合い方の無知」からくる相互誤解の積み重ねなのであると思う。さらに、「解離」もうかがわれるので、発達障害に加えて、精神疾患がある可能性も高い。テニス部で全く相手にされないくらい技量が低いのも、僕は発達障害の現れだと思う。(「壁打ち」できるんだから、それほど重度ではないらしい。)発達障害の子どもは、知識の理解や人間関係の理解がトンチンカンだけど、同時に運動技能もトンチンカンであることが多い。例えば、「運動神経が低い」「体力がない」生徒も多いから、バレーボールのサーブが相手のコートに届かないなんていうことはもちろんよくある。野球やテニスや卓球のボールを打ち返せないことも多いが、相当すごいスピードで来るから、打ち返せる方が運動神経のいい生徒というべきだろう。でも、バレーボールのサーブをしようとして、いつも手にボールが当たらない。卓球でサーブするとき、台に球を落として跳ね返った球を打とうとするけどラケットにかすりもしないという生徒。そういう生徒が他の言動でも発達障害を感じさせるときが多いように思う。そういう場合、本人も何も感じていないように思えるが、実は人間関係の作り方がわからず、「生き難さ」の世界をさまよっていることが多いと思う。

 この学校の教員に限らないが、発達障害の理解はまだまだ教育界に不足している。研修を行えば、多分「そういう生徒、ウチのクラスにいるいる」という状態になるはずである。1割はいないかもしれないが、各クラス一人二人いるに違いない。頑張っても成績が上がらない生徒に、頑張りを求め続けるのは拷問に近い。「学習障害」の理解が教師にあるとないとでは大きく違う。この生徒の場合、昔は「アスペルガー障害」と呼ばれてきたものの中度位の感じだけど、教師がしっかりと研修して、「生き難さを抱えた生徒にどう接していくか」を共通理解していれば、「6月事件」の指導も大きく違ったはずである。周りの生徒の接し方も、「ああいう行動しかできない」という障害と言うかビョーキだと理解していれば、だいぶ変わったのではないか。

 ところで、もう一つの問題がある。それは女子生徒の理解で、これがいかに難しいかがよく判る。僕は「教室内カースト」の本の書評で、生徒の世界は「カースト」というより「すみわけ」ではないかとして指摘した。球技大会での女子の班分けを見れば、まさに「すみわけ」である。生徒集団間の上下もあるかもしれないが、それより「好きな者同志のグループ」が同格的に形成されていて、そのグループの「平和的すみわけ」が成り立っていることが多いのではないか。そのグループ間の関係は、成績や部活、容姿、好きな男子などにより、複雑に合従連衡する。その事情は外部にはなかなかつかみ辛く、教師にも警察にも判らないが、それだけでなくクラスの男子にも判らないだろう。「女子の秘密」は例外的に読者だけに知らされるのである。

 この学校には「不良グループ」の3年生が数人いるとされる。2年にも部下がいる。学年に数人いれば、授業や行事はずいぶんかき回されるはずである。そういうグループは概ね2年後半には「デビュー」するから、この学校は1年ほどは大変な思いをして来たと思う。職員会議や生活指導部会もほとんどその問題で時間を使って来たと思う。その結果、2年生の「ちょっと変わったいじめられっ子」に関する研修に取り組む余裕が持てなかったのだと同情する。しかし、結果論だがその「不良」と「いじめられっ子」はリンクしてしまった。誰か発達障害生徒の経験が深い教員が一人でもいれば、容易に気が付くレベルの問題だったと思う。

 この小説には他にもいろいろ考える論点はあると思うが、大体は書いた。僕にはとても小説としてただ楽しんで読むことは出来なかった。自分がこの学校の教師だったらと思って、かなりドキドキしながら読んだ。こういう小説を多くの人が読み、いろいろ考えることが大事だと思う。絶対損はないから、是非多くの人に読んで欲しい本。
 「①学校対応編」と「②警察捜査編」から続いています。
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奥田英朗「沈黙の町で」を読む②警察捜査編

2013年03月01日 23時32分05秒 | 本 (日本文学)
 「沈黙の町で」の続き。一体何を書いているかと言うと、小説なんだからすべてフィクションに決まってるけど、設定がリアルで臨場感があるので、この小説を一つの「事実」と見なして、そういうノンフィクションを読んだことにして、関係者の対応を批判的に検証したいということだ。つまり、小説の文体や技法、奥田英朗論なんかではなく、この本を学校や警察や子どもの世界を論じる手がかりにしたいということである。教育や冤罪事件について、これまでたくさん書いてきたけど、その延長のような記事である。

 さて、今日は警察の捜査のあり方の話である。前回以上に中味に触れざるを得ないので、読む前に知りたくない人はご注意を。さて、この小説は子ども世界や学校、親の対応をリアルに描写することが中心的なテーマになっている。従って、警察の捜査については、あまり批判的に検証されていない。だからうっかりすると、読者は警察の捜査はこんなものではないかと思いかねない。また弁護士に関する記述も偏っていて、この小説を読むだけでは弁護士の重要性が判らない。真実を追求する警察のジャマをする存在という感じに誤解しかねないと心配である。

 この小説で書かれている警察の初動捜査は、非常にとんでもない違憲、違法、不当捜査のオンパレードである。そのことが小説内で指摘されていないので、そのことは強調しておきたい。もっとも、ここで取られている「別件逮捕」などが、今でも警察で日常的に使われているのも事実だろう。でも少年事件でここまで強気に、証拠もないのに逮捕してしまうというようなことは、普通はちょっと考えられない。まず警察は死体発見直後に、被害者少年の携帯電話を押収した。そのメール履歴を見たら、4人の同じ部活(テニス部)の男子生徒が、おごり、たかり等のいわゆる「パシリ」行為を被害少年に行っていると思われる事実を認定した。さらに遺体の背中を見て、20ヵ所ほどにものぼる内出血のつねられた痕と思われる傷を発見する。そこで、この被害少年は日常的に4人の生徒からいじめを受けていて、当日も屋根からイチョウの木に飛び移るように強要され、できなかった生徒は転落して死亡したのではないかと想定する。これは「被害少年は体力が弱く、飛び移れないかもしれないが、その場合は落ちてケガをする、または死亡する可能性が高いと判っているが、判っていながら強要して飛び移らせて、失敗した生徒は転落して死亡した」と見込みをつけたわけである。その場合、一番大きな罪の可能性としては、「未必の故意」による殺人罪である。(「未必の故意」というのは、「必ずそうなるわけではないかもしれないが、そうなるかもしれないとは認識していて、その上である行為を行う」と言った場合、それを「判っていてわざとやった」という普通の「故意」とは違うけれど、刑事責任が生じる「未必の故意」と言う考え方をするわけである。)

 以上の経緯を見ると、「暴行」は認定できるかもしれないが、その段階では証人も誰もいないのに「見込み」を作って、それに基づいて捜査を進めるという「典型的な見込み捜査」である。さらに言えば、実はその携帯電話のメールもこの4少年ではなく、学年の「不良」生徒がケータイを借りて打ちこんでいたことが、小説後半で明らかになる。つまり、「パソコン遠隔操作事件」と同じである。被害生徒のケータイを見ただけで、送信名の生徒を実際にメールを送った生徒と誤認したのである。そして、翌日の生徒の事情聴取で、この4人の生徒を同時に聴取して、暴行の事実を認めたら、4人を逮捕または補導(14歳の二人は逮捕、13歳の二人は児童相談所送致とするという方針を決めた。その結果、暴行は認めたので、直ちに逮捕するという運びになったとされる。これは13歳、14歳の少年事件と言うことを考えると、ムチャと言うしかない。少年だからと言って、逮捕してはいけないとは言わないが、事情がまだはっきりしていない段階で、暴行で逮捕するというのは、「実際は身柄を確保して、死亡につながった強要があったことを自白させたい」という「別件捜査」なのである。

 逮捕した場合、48時間以内に身柄を検察に送致しなければならない。検察はさらに身柄を拘束して取り調べをする必要がある場合は、裁判所に勾留申請をする。裁判所が認めれば10日間の勾留が認められ、さらに必要な場合10日間の延長が認められる。ところで、傷害容疑で逮捕し、障害の事実を認めていれば、勾留の必要はない。だから、2日間の間に「飛び移り強要」の「自白」を得られないなら、少年事件と言うこともあり、検察が勾留申請自体を行わない可能性が高いと、警察は初めから踏んでいて、「2日間の勝負」などと言いながら取り調べを行っている。こんな、勾留申請自体が、裁判所どころか検察にも通らないと思った上で別件取り調べをするために逮捕するというようなとんでもない人権無視の逮捕は、大人相手にも聞いたことがない。そんな捜査をする警察があるということは、ちょっと信じがたい。大体、この少年の逮捕状を認めた裁判官は一体誰なんだ。実際に、小説内では少年は黙ってしまいなんの証拠もあがらず、2日で釈放されることになり、中央紙の1面にも出た注目事件で警察の失態になる。しかし、被害者家族は、あの4少年がいじめて殺したと思い込むわけで、地域社会に大きな波紋を呼ぶことにつながる。

 さて、取り調べ自体だが、少年が黙り込んでしまい、時間が長くなり夜12時まで取り調べている。こんな大人にも許されない長時間の取り調べを少年相手に行っているのである。これでは「自白」したとしても「任意性」に欠けるということになるだろう。しかも、取り調べ内容は事件当日の放課後の様子に集中している。つまり、逮捕時の被疑事実と関係ない別件の取り調べに集中している。このような「別件取り調べ」が許されるかどうかは、今まで何度も問題になってきているが、明確な違憲という最高裁の判例はない。だが、僕は憲法上の問題があると思っている。まして細心の注意が必要な少年事件である。小説の中でも、生活安全課の少年係の古参刑事が刑事部を批判している。少年事件は大人相手の捜査とは違う、たたいて落とすなんて言う風には行かないんだと言わせている。実際、刑事事件の捜査にも詳しくない少年は混乱してか、落ち込んでか、ほとんど話すらしない感じになって、釈放される。が、もちろん家庭に帰ってもなかなか心を開かない少年になってしまう。被害少年のつねられた痕は20ヵ所以上。4人でやれば一人で5回くらいつねらないといけない計算である。これをいつどうして傷つけたかということで追及していれば、もしかしたら事案の真相にもっと迫れていたのではないかという気がしてならない。実際は4少年もつねったのは事実なのだが、一回しか行っていないのである。他の傷は別の生徒で、それを知っていながら、罪を被っているのである。下級生や他の部活に累を及ぼさない方が、その段階では生徒の優先事項だったからである。(2回目の生徒事情聴取が終わっても、この傷をつけた生徒は誰かと言う問題は、警察にも学校にも完全には判らないという点で小説は終わっている。読者は小説の特権で、真相をあらかじめ知らされている。ここは親や教師はよく読んでおいた方がいいですね。)

 さて弁護士の問題である。小説では被疑少年の1人が、有力な保守系県議の孫だとされていて、その祖父が東京の「ヤメ検」弁護士をつける。「ヤメ検」とは前は検事をしていて、退職後に弁護士登録をした人のことである。政治家の汚職事件や暴力団の事件なんかを担当することが多くて、批判されたり鬱陶しがられたりすることも多い。この小説でも、言ってることはわりと的確だと思うが、「法知識や経験を笠に着て、高飛車にものを言うタイプ」に描かれている。祖父が有力県議だという孫はごく少数だから、この場合は「例外的な幸運」で逮捕時から弁護士が付いたように感じてしまう。でも、それではいけないわけで、知ってる人も多いと思うけど、今は「当番弁護士」を逮捕時から頼める。この事件の被疑者は少年だから、保護者の親に当番弁護士の話をしないのは警察側がアンフェアである。しかし、この事件は当日のテレビニュースのトップである。中学で少年の死体が発見され、事態がよく判らないうちに少年2人が逮捕、である。その日重大事件があれば、そっちがトップだから、この日にはその県で起こった最大の事件に間違いない。そうだったら、親が依頼するまでもなく、県弁護士会が当番弁護士だけでなく複数の弁護士を派遣すると僕は思う。今は、少年事件(の厳罰化への対応)、冤罪防止のための捜査の可視化、被害者側も含めていじめ等の教育事件への関心増大などがどの弁護士会でも大きな問題となっている。警察が初動で暴走気味と判断したら、県弁護士会をあげて対応する可能性が高い。そんなにへんぴな所で起こった事件ではないから、僕は恐らく当番弁護士が相談に来ると思うのだが、どうだろうか。この小説では、「かつて北陸で少年事件に左翼弁護士が出てきて大混乱した事件がある」と言う設定になっている。多分場所を変えて、ある事件のことを言っているのかと想定するが、この記述と「ヤメ検」弁護士しか出てこないのは、偏向と言われても仕方ないのではないか。警察も検察も若い担当者が苦労する設定になっていて、その苦労に同情する仕掛けになっている。でも弁護士だって、少年更生のために若いながら体を張っている弁護士は一杯いると思う。

 このようにこの小説に描かれる警察捜査の問題は大きい。が、若い検察官の常識的な判断と足を使った検察捜査の成果で、それほど大きな問題に発展しなかった。しかし、「事案の真相」を探ることに専念しないと少年事件捜査は難しいことをこの小説は示していると思う。被害少年に同情するあまり、ひとりは2度と人生を楽しむことなく死んでしまった、そのような結果をもたらした加害少年がいるとしたら、大人として絶対に許せない…などと意気込みだけで突っ走ってはいけないということである。少年係の古手にじっくり事情を聴いていれば、その学校には3年に不良グループがあり、2年にも手下がいるということがすぐにつかめたはずである。被害少年の家は古い呉服屋で、結局一番タカっていたのはその不良グループだと最後の方で判る。この情報が最初にあれば、まずこっちを強要罪、または窃盗罪で立件していたことも考えられる。もちろん死亡当日の部室にいたのが、テニス部員だけなので、その4人の厳しい事情聴取が必要なことは否定しないけれど。でも本人が「自白」しただけではダメである。(自白だけでは有罪にできないのは憲法で決められている。)従って、客観的な証拠がいる。この証拠固めを怠り、自白を得ることを目的に少年を「別件逮捕」したというのが、この事件の警察捜査なのである

 学校の教員にも判らない、警察が調べても判らない、親が聞いても判らない、そういう部分を、読者だけは作者が子どもたちの内面にも入れるので、知ってしまうことができる。そういうのもフェアではない感じもするのだが、もう一回子供たちの世界のあるものを書いてみたいと思う。
 「①学校対応編」および「③子どもの世界編」もお読みください。
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奥田英朗「沈黙の町で」を読む①学校対応編

2013年03月01日 00時00分03秒 | 本 (日本文学)
 奥田英朗の最新作「沈黙の町で」と言う小説(朝日新聞出版、1800円)。傑作なんだけど、中学生の子どもを持つ親や学校教員だと、客観的に楽しんで読めないくらいの臨場感がある。僕もいろいろなことを考えたが、一回では終わらない感じなので何回かに分けて思ったことを書きたい。この小説は朝日新聞に連載されたもので、連載当時も関心を持っていたが、時々読み忘れて筋が判らなくなった。だから刊行を心待ちにしていた。2011.5.7~2012.7.12に連載され、今回加筆修正があると書いてある。子どもや教育に関心がある人は絶対に読んでおく方がいいと思う。

 奥田英朗と言う作家は、初期の「最悪」「邪魔」と言う、あれよあれよと言う間に登場人物が転落していくジェットコースター的作品が面白かった。その後精神科医伊良部シリーズを書きはじめ「イン・ザ・プール」の面白さに絶句し、第2作の「空中ブランコ」で直木賞を受賞した。それが2004年。それ以後の「サウスバウンド」「オリンピックの身代金」なんかは読んでなくて、「沈黙の町で」は久しぶり。小説作法は19世紀的ないわゆる「客観小説」で、作者が様々な登場人物の内面を代弁していくというごく普通のエンターテインメント小説の作法で書かれている。どうして教師や警官や母親や男子中学生や女子中学生や…なんかの内面描写ができるのか、などと言うのはヤボの骨頂というタイプの小説。それが判りやすい臨場感を生んでいるけど、「100%の善も悪もない」という話を「全能の神のような作家」が書くというスタイル自体が、どうなのよと言いたい気持ちも僕には少しある。

 あんまり筋を書くと、これから読む人が面白くなくなるので書かないことにするが、北関東のある中学で、ある日(というか7月1日なんだけど)、生徒の死体が見つかる、と言うことは書かないと話ができない。(以下、その後の推移に関しても筋に触れざるを得ないところがあるので、すぐに読む気がある人は注意して読んで下さい。)普通、それは事故か、自殺か、事件(殺人とか傷害致死とか)ということになるわけだから、さっそく警察も捜査に乗り出す。学校、警察、検察、被害者家族、いじめたのではないかという「加害者」側の少年や家族、マスコミなど様々な関係者の動きを並行して描き、ある時代のある地域の全体像を描き出そうという試みである。小説連載中の最期の頃に、大津市のいじめ事件が大きく取り上げられる時期と重なって、まるで「予見」したかのような小説として話題にもなった。

 さて、まずは学校の対応に関して思ったことを。僕がまず驚いたのは地方では中学に「部室」があるのかということ。これは土地の広さの問題だろうか。東京では公立中学で各部活に部室を与えている学校はまずないのではないか。(高校は普通はあると思うが。)あってもいいけど、もし部室があるなら、そこはちゃんと管理しないといじめや喫煙の温床にもなりかねない。部活終了後に顧問がカギを締めるのが常識ではないか。顧問でなくてもいいが、「週番」といった教員がいるはずだから、最終チェックがあるはずである。(この学校には「当直」と言う名前で見回りがあることが409頁に出ている。)またそうして見回りをして、部室棟の機械警備をセットしないと、教員が帰れない。機械警備ではなく、警備員がまだいるとするなら、7時の前に部室を見回って警備員が死体を発見するはずである。何にせよ、「部活禁止期間に部室棟の施錠をしないで部室に生徒が自由に入れたこと」がすべての発端であると僕は思う。試験前で部活がないのだから、部室は用がない。ここは学校の不備が指摘されても仕方ないところで、返す返すも残念なことだった。

 ところで、この学校は「下校指導」をしないのか。事件が報道され、翌日は集会をして下校(クラスとテニス部を除く)となるが、下校しないで騒いでいる生徒もいると書いてある。前日の死亡事件が起こった日も、最終下校時間を例えば4時頃と決めて、週番教員が見回っていれば、生徒の死そのものは防げなかったかもしれないが、死体発見が7時になるというようなことだけはなかったはずである。普通はこういう時は「完全下校」の態勢を取って、生徒を帰すと思うのだが。今まで僕が勤務した学校で(中学、高校全定)、教員が当番を決めて最終見回りをしなかった学校はない。もっともそうやってきちんとした体制を取っていたら、生徒は管理されて息もつけないかもしれないが、事件事故も起こらず、従って小説にもならない。その後、この学校の校長や教頭が右往左往する様が生き生きと描かれているが、それも校長の危機管理がしっかりしていれば小説にならないのであって、小説内の言動を非難しても仕方ない。それぞれの人が「他山の石」とする方向で読む方がいい。

 また「部室から屋根に出られて、そこからイチョウの木に飛び移れるが、下に側溝がある」という危険個所を放置しておいた責任は免れないのではないかと思う。それは、この生徒の死亡が、事故か事件かという問題には関わらない。最近はいじめや体罰などに関心が集まってしまったけれど、それ以前にプールや屋上での事故、サッカーゴールの転倒など、きちんと管理していれば防げた事故の方が多い。いじめを見つけられなくても、道義的責任はあるかもしれないが、普通刑事責任はないだろう。しかし、学校事故の方は直接的に業務上過失致死、致傷などの刑事責任が生じる場合が多い。この学校で教員皆が見過ごしていたのは大問題だと思う。

 そういう死亡発見に関わる問題もあるが、僕が感じたのは、それ以前の問題もあったなと思う。それは「クラス分け」である。まず死亡したのは、警官が見て一見していじめられっ子と見抜くようなタイプの生徒だった。小柄で色白、スポーツが不得意で強い者に追従的な感じと言うことだと思う。この「学年一のいじめられっ子」をよりにもよって「学年一の不良」と同じクラスにしてしまった。これではタカリのきっかけを与えるようなものである。もっとも小学校から持ち上がり的に人間関係が出来上がってる中学らしいから、クラスがどこでも同じだったかもしれないが。しかし、普通はクラス分けに際して、最重点でこの二人を分けると思う。(小説に書かれていないだけで、この学年にはもっと大変な生徒が何人もいるのかもしれないが。)さらに、この生徒たちをあまり生徒に人気のない女性の数学教員が担任することにした。A組の飯島先生が持ってたら、少しは変わったか。この学年は、4クラス体制で、C組担任、D組担任は名前が出てこない。学年主任は中村先生とあるから、学年主任が学級担任をしていない。そういう学校もあることはあるので、それはいいと思うが、この先生は校長と対立しても直言する実力ある教員として描かれている。だが僕はこのクラス分けだけで、何だか疑問が起こってくる。クラス分けでもう少し配慮していれば、というかそこが教師の腕の見せ所でもあるので、大事な観点だと強調しておきたい。

 もう一つ、この学校では6月に学年キャンプと言う大行事がある。ここで起こった出来事がすべてのきっかけとなる重大な意味を持つことが、小説の後半になってくるとはっきりしてくる。この行事には、部活伝統の「裏行事」があった。そこで事件が起こり、すべてが明るみに出てしまう。そういう設定でないと、この小説は成り立たないからいいんだけど、この「裏行事」が何年も続いてきたとは僕には信じがたい。普通は教師が見つけると思うが。12時くらいまでは複数の教師が当番を組んで見回りをしているはずである。修学旅行のように宿舎があるならともかく、川のそばに行ってボランティアするという趣旨の行事である。抜け出して川で遊ぶ生徒がいたら大問題。その問題は置くとして、その事件の全貌をばらしてしまったのが、やがて死体で発見されることになる生徒なのである。つまり、大行事で「チクった」という「大罪」を犯したわけである。それが「学年一のいじめられっ子」の仕業。事件の中身は生徒が大量にルール違反をしたわけで、大事には違いないが、学年教員団は学年全体の大問題として取り上げてしまった。それは判る。翌年に修学旅行と言う一大行事を控える以上、ここで問題をきっちりと指導して置かないといけないと思ったとしても当然だろう。でも、その事件がきっかけで、当該の生徒は学年全体で完全に浮いてしまうことにつながる。ここでもっと違う対応はあったのか。少なくとも「保護者を学校に呼ぶ」ことは絶対にしなければいけないところだろう。

 当初、この6月事件を教員も警察も重大視していない。警察は知るはずがないが、生徒も誰もばらさないので判らない。教員側に問題意識があれば、この事件の内容を警察に告げていたはずである。その「チクリ」の仕返しの可能性も考えられなくはないのだから。それにそういう事件が起こった後は、昼休みも見回るなどの対応が必要だったのではないか。全体に、部活の問題が大きいのに、生活指導主任が出てこない。部活に関する問題で、学年主任が表に出ることはないだろう。学校の方針を決めるような場に、教務主任や生活指導主任が出てこないのは不思議だが、まあこれは人が出て来すぎると混乱するから、実際は活動してるんだけど「小説だから許される省略」があるんだと考えたい。この学校の研修体制などについてはまたの機会に。

 最後に、小説内では「ホームルーム」「ショート・ホームルーム」と書いているが、中学でも「ホームルーム」と呼んでいるのだろうか学習指導要領では、中学の特別活動では「学級活動」、高校の特別活動では「ホームルーム活動」と記述されている。それを受けて、中学では「学活」と呼んでいることが多いのではないかと思うのだが。一応、今のところそんな細かい疑問を感じたままに。
 「②警察捜査編」と「③子どもの世界編」に続きます。
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