尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小沢昭一の「純情」-本と映画①

2013年03月13日 01時32分50秒 |  〃  (旧作日本映画)
 2月に小沢昭一さんの追悼上映をいっぱい見た。感想を残しておきたいと思ったが、機会がないままになっていた。このままにしたくはないので、書いてしまうことにする。

 小沢昭一に関しては追悼を書いて、もう書くこともないかと思っていた。しかし前半生の自伝と言ってよい「わた史発掘」(岩波現代文庫)を読んで、今までの僕の理解を少し考え直さなくてはいけないのかなと思ったのである。小沢昭一には「軟派の身ぶり」(川本三郎)があり、多くの人はラジオや映画などを通して「助平なおじさんの語り芸」的なイメージを抱いている。その意味するものは何なのか。
(「わた史発掘」)
 小沢昭一は「大声で語らない」という「自己韜晦」があった。(韜晦=とうかい=自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと)。それは「東京人」の「照れ」でもあっただろうが、一番基本にあるものは「戦争体験」であり、「戦争に加担したという思い」だと思う。小沢昭一が私立麻布中学に入学したことは前にも書いた。今は「御三家」と呼ばれる難関私立になっているが、当時は府立中学の落第生が集まるところだったのである。昭一少年は勉強せず寄席通いをしていたと書いてるから、落ちてしまうわけ。その麻布に、加藤武、フランキー堺、大西信行、仲谷昇など後々芸能界で活躍する面々もいて、特に加藤武を「畏友」と呼んでいる。

 当時のことながら、若者は皆軍国少年で、自分たちは戦争で死ぬと思っていた。天皇のために死ぬことを人生の目的と信じていた時代である。麻布にも右翼的な教員が来て、小沢、加藤らも右翼的な結社をつくる。早起きして江の島に行って禊(みそぎ)をしたりした。小沢昭一は早起きが苦手でそれはサボったとある。そういう時代だったわけだが、小沢昭一だけが、中学後に海軍兵学校を志願した。皆、軍国的潮流の中にいたわけだが、誰も同じ道は取っていない。海軍のカッコよさに憧れたなどと書いている。そういう側面もあっただろうとは思うが、本当は「国家に奉公したいという思い」が誰よりも強かったんだと思う。国家と皇軍を熱烈に信じる「純情」少年だったのだ。

 小沢家は当時、東京南部の蒲田で写真館を営んでいた。父親は病気で弱っていて、戦争中は闘病が続き、昭和24年、昭一20歳の時に亡くなる。家財道具は空襲で焼けてすべて失っている。空襲とは言っても少しは持ち出せたり、焼け残ったりするものだが、昭一少年は海軍に行き不在、病気の夫を抱えた昭一の母は疎開を決心した。家財道具をまとめて引っ越しできる態勢を整えた、ちょうどその夜に空襲に直撃された。まとめた家財道具はまとめたまますべて焼けてしまった。後々まで母親は「ダイヤの指輪が残っていれば」と昭一に愚痴を言ったという。

 唯一の財産だったダイヤの指輪は、小沢昭一少年が「お国に献納せよ」と母親に強く迫り、供出させてしまったのであった。宝石や貴金属はお国に出しましょうというキャンペーンがあった時代である。「少年紅衛兵」である。親を突き上げるくらいの軍国少年だったのである。こういう「家庭内戦争犯罪人」だったという意識が常にあったはずである。ただでさえ、病弱な父を母に残して、自分だけ海軍に行ってしまった。これは戦時中はいいことだったが、戦後になれば「両親に申し訳なかった」と思っただろう。

 そして、実際に海軍兵学校に入って、激しいホームシックにとらわれる。16歳のことだから当然だろう。この時代のことは語りにくいと書いている。「うしろめたい」のである。職業軍人になろうとした過去が、今さら「だまされていた」自分を語ることになり恥かしいという思いだ。戦後になって戦友会に何度も誘われるが、司会を頼まれて断れなかった時を除いて行ってないという。軍歌を皆で歌い、青春をなつかしく回顧するような会には行けないのである。「中年御三家」と称した野坂昭如、永六輔はある程度社会的発言もしてきたのに対し、小沢昭一は「少年の思いを忘れず、戦争に反対する」以外の社会的発言はほとんどしていないと思う。それは自分の過去を見つめて「大言壮語しない」という強い思いを抱き続けたのだと思う。

 大逆事件後の永井荷風の姿勢に似ているかもしれない。小沢昭一は戦後になって、麻布中学で演劇部を作り、早稲田に入って庶民文化研究会(後の落語研究会)を作る。当時は低く見られていた落語に通い、またその落語からさらに低く思われていた浪曲(浪花節)も愛好する。また、当時はまだあった「赤線」(の中でもかなり安い場所)にも通ったといろいろな場面で語っている。これらは、戦後の青春でもあり、若さの発露でもあるのは間違いないが、荷風のあとを慕う「低回趣味」なんだろうと思う。あえて低く見られたものを尊び、上昇志向を捨て下降した中に「真実」を求めるのである。小沢昭一の「助平おじさん」的な身ぶりは、そういう自己韜晦の発揮だと僕は思う。

 70年代になって演劇や映画の活動を控えても、放浪芸探索の旅を続けた。これも少し理解が十分ではなかった。「日本の放浪芸」がもてはやされることが、「日本再発見」ブームみたいなものに乗せられ、ある種のナショナリズムに結びつくことを小沢昭一は常に警戒している。ちょっとビックリするくらい、そのことを強調し続けている。小沢昭一が求め続けたのは、「放浪のプロ芸人」であった。農閑期に村をあげて行う農村歌舞伎みたいものは一切訪ねていない。正月の万歳を芸として行い続ける村の集団などが探訪の対象なのである。

 だから、お寺の説教とかテキヤの商売(寅さんの口上である)なんかも語りの「芸能」に入ってくる。全国を回り続けるストリッパーこそ、現代でもっともすぐれた日本の放浪芸人だという評価もそこから出てくる。(ちくま新書で出た「芸人の肖像」によく示されている。)これも、自分がプロの役者であるという意識があって、今も差別視される芸能をプロで演じる芸人を求めた現れである。小沢昭一は少年の平和への思いを「ハーモニカブルース」で伝える以外に社会への大言壮語は控えた。そして、ストリッパーの一条さゆりを至高の芸人と持ち上げる。これが「小沢昭一の純情」だったのだ。

 小沢昭一少年の記憶をたどり直す「わた史発掘」は昭和ひとケタ世代の少年時代を再現して興味深い。自分でも言ってるように、「コレクション趣味」である。メンコ集めなんかもそう。相撲や寄席への熱中も当時の少年には普通だが、入れあげると半端でない熱中を示す。放浪芸探訪の旅をそうだし、芸人やセックスワーカーの女性などへのインタビューも数多く残している。「助平おじさん」イメージから週刊誌などから依頼されるままに、半端でなく話を聞きまくる感じである。小沢昭一の対談本はかなり多いが、インタビューのお手本であり、「語らせ芸」と言ってもいい。「語り芸」の裏に多くの人の話を語らせてきた体験があるわけだ。 
 
 「わた史発掘」の表紙を載せておくが、ここに珍しく残った写真がある。これは好きだった相撲取りの鯱の里(しゃちのさと)と撮った写真である。少年時に大病をして、父は元気になったら鯱の里を呼んであげると約束し、それが果たされたのである。鯱の里とはどういうしこ名かと思うと、名古屋出身で名古屋城の金のしゃちほこから付けた名前である。美男力士で人気はあったらしいが、三役にもなれず最高位は前頭3枚目。双葉山の連勝に土をつけた安芸ノ海を、その数日後の取り組みで破ったのが鯱の里という程度の実績しかないと小沢昭一も書いているが、その人のファンだったわけ。
 
コメント (1)
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