1968年から1972年まで、大島渚の映画は主としてATGで公開された。ATGというのは「日本アートシアターギルド」の略で、日本で公開が難しいアート映画を上映した。「野いちご」「尼僧ヨアンナ」「大地のうた」「去年マリエンバードで」などベストテン入選映画の多くが公開された。60年代末に製作に乗り出し、当時としても低予算の「1000万円映画」をうたい前衛的作品をたくさん発表した。大島の「絞死刑」、篠田正浩の「心中天網島」など、低予算を逆手に取ったような工夫と気概にあふれた傑作がたくさん生まれた。(今見ると、工夫はいいけど、確かに予算がきついなあという映像も多い。)
第一弾が「絞死刑」(1968)だが、ここでは映画の内容にはあまり触れない。小松川事件と言われた「劇場型犯罪」の走りのような少年死刑囚、在日朝鮮人の李珍宇(イ・ヂヌ、犯行時18歳)がモデルである。李は獄中で支援者の朴壽南(パク・スナム)と出会い、それが映画の中の小山明子の「姉」のモデルである。獄中で信仰を得てたくさんの手紙を書いた。獄中書簡集「罪と死と愛と」が新書で刊行され(後に全書簡集が出た)、大きな影響を与えた。1962年に死刑が執行された。(一部に冤罪説の主張もある。)最初に見つかった被害者は都立小松川高校の屋上で、定時制1年に在籍中の女子高生だった。読売新聞に電話があり、大きな衝撃を与えた。逮捕された李も小松川高校定時制1年に在籍していた。(逮捕後、それ以前のもう一件の殺人を自白する。)
(「絞死刑」)
映画には新小岩駅のロケが出てくる。小松川橋と思われる橋を通る映像もある。そうすると、映画に出てくるのは現実の小松川高校なのか。僕は川の真向かいにある中学に8年間勤務し、小松川には全定とも生徒を送った。いくら何でも、実際の高校でロケ出来たとは思えないが。ところで、「絞死刑」という言葉は造語である。「絞首刑」という「死刑」がある。死刑制度を描く映画はいろいろあるが、制度そのものを思想的に批判する映画はこれだけだろう。死刑執行が失敗し、心身喪失した「R」を再執行するために、犯行を思い出させようと関係者が事件を再現する。あまりにも卓抜な設定。それを通して、「戦争で人を殺すのもお国のため、死刑で人を殺すのもお国のため」という「国家批判」を展開する。スリリングな論理的、倫理的な言葉の応酬が、日本映画には他にないような思想映画の傑作だ。
続いて、1969年の「新宿泥棒日記」。69年当時の熱気ある新宿の街を丸ごとパッケージした「タイムカプセル」みたいな映画である。60年代末の「アングラ」芸術のムードを一番伝える映画だと思う。ほとんど紀伊國屋書店と状況劇場(唐十郎の紅テント)とのコラボ作品とも言え、それも時代に先駆けている。主演にイラストレーターの横尾忠則を充て、横山リエとのコンビで新宿という「地獄めぐり」を行う映画。当時は新宿が一番時代の先端と思われていた。冒頭に唐十郎が出てきて、その若さ思わずにたじろぐ。少しして横尾忠則が紀伊國屋で万引きし、横山リエに捕まって社長の田辺茂一のところに連れて行かれる。田辺茂一は当時はものすごく有名な人物だった。このあたりの横尾、田辺の掛け合いがシロウトっぽいが、それも「時代のタイムカプセル」と思えば面白い。性科学者の高橋鐡というちょっとした有名人も出てくる。劇映画だが「時代のドキュメント」と思って見た方がいい。まだまだ無名に近い状況劇場の、唐十郎以外の李麗仙、麿赤児なども出てくる。特に99年に亡くなった藤原マキの映像が残されているのが貴重。つげ義春の夫人である。
(「新宿泥棒日記」)
69年にはもう一本、一年間かけて日本全国を回ったカラー映画「少年」がある。「少年を連れた当たり屋夫婦」という現実にあった事件をモデルにしたロードムービー。大島映画で一番心を揺さぶられる傑作。渡辺文雄、小山明子と二人の子ども以外に、ほとんど登場人物も出てこない。(まあ、ぶつかる車のドライバーがいるが。)城崎、松江、高知、福井、秋田、宗谷岬、小樽などでロケし、当時の街の様子も貴重。この映画の成功は、夫婦役の二人もうまいけど、何と言っても子役の素晴らしさにある。ほとんど表情もない感じで、実の父、義理の母につかず離れず悲哀を心にため込んでいる長男の姿が切ない。アンドロメダ星雲から宇宙人が助けに来てくれるという話を作って、下の幼児に言い聞かせている。北海道で雪だるまを作り、宇宙人に見立てるが、それを自分で壊す場面。幼児が幼い声で「アンドロメダ星雲」と何度もつぶやく場面は、涙なしに見られない日本映画屈指の名場面だ。自分の信じた理想を自ら壊していく「戦後民主主義の終わり」を読むこともできる。以前はそういう戦後思想史の暗喩と見たが、今見ると「被虐待児の精神的解離」を痛烈に表現した場面だろう。「誰も知らない」と並ぶ、子どもネグレクト映画の傑作だ。一番好きな大島映画でもある。
(「少年」)
「東京戦争戦後秘話」(70)は結構面白いけど、やっぱり失敗作だろう。昔見た時も面白くなかった。「戦争」の「戦」は「占戈」をくっつけた字で、新左翼のタテカン文字である。70年安保に向け、武装闘争を主張した赤軍派が呼号した言葉。この映画は名前だけそこから借りて、その後の「シラケ」ムードを先取りしたような映画である。大島映画は「予感の映画」と言われたが、この映画で「闘争の終わり」を「予感」して、かえって意味を見失った感じだ。脚本に原正孝(現・原將人)を抜てきした。麻布高校時代の67年に作った短編「おかしさに彩られた悲しみのバラード」で大評判になっていた。その後73年に「初国知所之天皇」(はつくにしらすめらみこと)という8時間の映画を作った。1950年生まれの原を抜てきし、配役も若いシロウトに近い人を使った最も素人っぽい大島作品である。だが成島東一郎の撮影、武満徹の音楽などスタッフは超一流。ザラザラした質感の画面が捉える東京風景や音楽などは魅力的。
(「東京戦争戦後秘話」)
この映画は「映画で遺書を残して死んだ男の物語」と題されている。この「遺書」にあたる映像がなんだか判らないが、東京の普通の映像が残されているのは貴重だ。東京のどこで撮ったかは明示されず、あえて「迷宮映画」として作られている。今見ると、昔風の酒屋や店先の赤電話、昔の郵便ポストなんかが懐かしい。このころ、永山則夫の足跡をたどる「略称・連続射殺魔」が撮られていて「風景映画」と言われた。この映画も「風景映画」の一種で、東京の街頭で撮影した「反・東京物語」なのだと思う。それにしてもシナリオや演技の稚拙さは無視できない。今見ると「ドッペルゲンガ―」の映画にも思う。政治的なテーマ(大学映研がデモを撮っていてフィルムを警察に押収される)と「映画で遺書を残した男」のフィルムの中の何気ない風景、自己分裂するかのごとき主人公と女友達の東京めぐりが、統一されることなく雑然と同居する。「ある種の魅力」がつまった失敗作というべきか。
71年の「儀式」はATG10周年記念の「大作」で、ベストワンに輝いた。ガウディの「サグラダ・ファミリア」(聖家族教会)ならぬ、日本の「桜田ファミリー」の儀式を通した戦後史。39歳の大島映画の集大成である。戦前の中央官僚で、占領期は一時「追放」されたが、その後復活して権勢を誇る桜田家の家長一臣(佐藤慶)。その長男は戦後自殺し、満州から引き揚げてきた孫の、その名も「満州男」(ますお=河原崎健三)のナレーションで映画は進行する。共産党の叔父、美しい叔母、年上のいとこ(実は叔父)の輝道(中村敦夫)や従妹の律子(賀来敦子)など一族には様々な人物がいて、葬式や結婚式で出会っては傷つけ合い、また結びつく。秘密の多い家族で、一臣が「外の女性に産ませた子ども」もいるらしい。引き揚げや中国で戦犯になるなど、辛苦をなめた戦後史。満州男は幼い時、引き上げる途中でまだ息のある弟を埋めたトラウマを引きずる。会うたびに誰かが自殺したり、事件が起きる。
(「儀式」)
満州男の結婚式では、式の日に嫁が「盲腸」で入院ということで来ない。仕方なく新婦不在で有力者の前で形だけ式をあげる場面。右翼のいとこで警官の忠男はクーデター計画を式場で読み上げ、連れ出される時に交通事故死する。このバカバカしい結婚式と右翼青年のあっけない死は、戦後の日本システムと批判者双方のバカバカしいほどの「フォニー」ぶりを痛烈に描いている。最後に祖父が死亡すると、満州男の「結婚式」以後、南の島にこもっていた輝道が「テルミチシス テルミチ」という電報を送ってよこす。満州男と律子は二人で船で輝道を訪ねに行く…。筋を書いていても判りにくいが、映像で見る方が判りやすい。儀式で会う一族の中に、ちょっと年上でいろいろ教えてくれるタイプ、同世代で仲良くした女の子、ちょっと変わった親戚、憧れの親戚などがいる。今見ると何故輝道が最後死ぬのか、そこにどうして律子も加わるのか、途中で節子おば(小山明子)がなぜ死ぬのかなど、納得しにくい部分がある。しかし、71年の公開当時は説明されなくても、なんとなく通じたと思う。
戦後革命は不発に終わり、戦争犯罪人が生き延びた日本社会で、闘い傷を負い倒れて行った多くの人々。もうこれ以上ゴマカシの人生は止めるか、ミジメでも生き延びていくか。71年の時点で、大島映画を見ている人には、その岐路に今立っているという思いが通じた。僕は公開時に見て、ベストワンになった記念上映でもう一回見た。高校生の時だが、こういう暗い情熱的な映画に強く引かれた。10年くらい前に久しぶりに見て、登場人物が死ぬだ生きるだと思い入れたっぷりに語り合う映画は古くなったと思った。今回見直して、同時代に対する「儀式」の挑発力は甦ったと思った。「3・11後」に見ると、「日本システム」が残り続けた社会でどう生きるかという問題意識である。満州男の結婚式のバカバカしさは、原発の「やらせ」公聴会とそっくり同じで、そういうバカバカしい仕組まれた行事をこなすことが日本システムを生きることなのだ。誰も笑って見ることはできない。似たようなことをやってきたはずである。そうしてミジメに生きて来て、何が残ったのか。そういう切実な問いを改めて感じる。
72年の「夏の妹」はATG最後の作品。40年ぶりに見て、復帰直後の沖縄の映像はとても興味深いかったが、全体的にはやはり失敗作だと思った。切実な問いが欠けていて、どうも観光映画みたいな感じだ。魅力的な映像もいっぱいある。再建前の守礼の門や、あまり整備されていない石畳の道などは貴重。この映画は、当時東宝系でアイドルなりかけの栗田ひろみが沖縄に母違いの兄がいるらしいと夏に沖縄に行く話。その兄の母は小山明子だが、父の方は栗田ひろみの父・小松方正か、沖縄出身で警察幹部の佐藤慶か、両方の可能性があるらしい。兄は東京に妹がいると聞き、夏休みに会いたいと妹に手紙を寄こすが、そのとき見たのは実は栗田ひろみではなく、小松方正の再婚予定者で娘のピアノの家庭教師、りりィだった。親世代のもつれと若い世代のもつれという、二世代間のもつれが絡むが、今までのどの映画にもまして、これはどうでもいい問題ではないのか。
(「夏の妹」)
本土の血を引くか、沖縄の血を引くかと言っても、たかが一青年の問題で、本人と家族には意味はあるだろうが、思想的意味を見出すのは難しい。そこに「殺されに来た」殿山泰司と「殺す相手を探している」琉歌の大家・戸浦六宏が絡んでいて、戦争というテーマが関係してくるけど、エピソードに止まり深まらない。どうも不完全燃焼の映画である。栗田ひろみのアイドル映画としても中途半端だが、「沖縄という問題」を突き付けてくるだろうと大島映画を見る前に観客が想像した挑発や思い入れを感じ切れない。いつもの大島組メンバーに、りりィと栗田ひろみが溶け込むのが難しかったのかもしれない。戸浦六宏が琉歌の専門家というのは、風貌はあっていた。
第一弾が「絞死刑」(1968)だが、ここでは映画の内容にはあまり触れない。小松川事件と言われた「劇場型犯罪」の走りのような少年死刑囚、在日朝鮮人の李珍宇(イ・ヂヌ、犯行時18歳)がモデルである。李は獄中で支援者の朴壽南(パク・スナム)と出会い、それが映画の中の小山明子の「姉」のモデルである。獄中で信仰を得てたくさんの手紙を書いた。獄中書簡集「罪と死と愛と」が新書で刊行され(後に全書簡集が出た)、大きな影響を与えた。1962年に死刑が執行された。(一部に冤罪説の主張もある。)最初に見つかった被害者は都立小松川高校の屋上で、定時制1年に在籍中の女子高生だった。読売新聞に電話があり、大きな衝撃を与えた。逮捕された李も小松川高校定時制1年に在籍していた。(逮捕後、それ以前のもう一件の殺人を自白する。)
(「絞死刑」)
映画には新小岩駅のロケが出てくる。小松川橋と思われる橋を通る映像もある。そうすると、映画に出てくるのは現実の小松川高校なのか。僕は川の真向かいにある中学に8年間勤務し、小松川には全定とも生徒を送った。いくら何でも、実際の高校でロケ出来たとは思えないが。ところで、「絞死刑」という言葉は造語である。「絞首刑」という「死刑」がある。死刑制度を描く映画はいろいろあるが、制度そのものを思想的に批判する映画はこれだけだろう。死刑執行が失敗し、心身喪失した「R」を再執行するために、犯行を思い出させようと関係者が事件を再現する。あまりにも卓抜な設定。それを通して、「戦争で人を殺すのもお国のため、死刑で人を殺すのもお国のため」という「国家批判」を展開する。スリリングな論理的、倫理的な言葉の応酬が、日本映画には他にないような思想映画の傑作だ。
続いて、1969年の「新宿泥棒日記」。69年当時の熱気ある新宿の街を丸ごとパッケージした「タイムカプセル」みたいな映画である。60年代末の「アングラ」芸術のムードを一番伝える映画だと思う。ほとんど紀伊國屋書店と状況劇場(唐十郎の紅テント)とのコラボ作品とも言え、それも時代に先駆けている。主演にイラストレーターの横尾忠則を充て、横山リエとのコンビで新宿という「地獄めぐり」を行う映画。当時は新宿が一番時代の先端と思われていた。冒頭に唐十郎が出てきて、その若さ思わずにたじろぐ。少しして横尾忠則が紀伊國屋で万引きし、横山リエに捕まって社長の田辺茂一のところに連れて行かれる。田辺茂一は当時はものすごく有名な人物だった。このあたりの横尾、田辺の掛け合いがシロウトっぽいが、それも「時代のタイムカプセル」と思えば面白い。性科学者の高橋鐡というちょっとした有名人も出てくる。劇映画だが「時代のドキュメント」と思って見た方がいい。まだまだ無名に近い状況劇場の、唐十郎以外の李麗仙、麿赤児なども出てくる。特に99年に亡くなった藤原マキの映像が残されているのが貴重。つげ義春の夫人である。
(「新宿泥棒日記」)
69年にはもう一本、一年間かけて日本全国を回ったカラー映画「少年」がある。「少年を連れた当たり屋夫婦」という現実にあった事件をモデルにしたロードムービー。大島映画で一番心を揺さぶられる傑作。渡辺文雄、小山明子と二人の子ども以外に、ほとんど登場人物も出てこない。(まあ、ぶつかる車のドライバーがいるが。)城崎、松江、高知、福井、秋田、宗谷岬、小樽などでロケし、当時の街の様子も貴重。この映画の成功は、夫婦役の二人もうまいけど、何と言っても子役の素晴らしさにある。ほとんど表情もない感じで、実の父、義理の母につかず離れず悲哀を心にため込んでいる長男の姿が切ない。アンドロメダ星雲から宇宙人が助けに来てくれるという話を作って、下の幼児に言い聞かせている。北海道で雪だるまを作り、宇宙人に見立てるが、それを自分で壊す場面。幼児が幼い声で「アンドロメダ星雲」と何度もつぶやく場面は、涙なしに見られない日本映画屈指の名場面だ。自分の信じた理想を自ら壊していく「戦後民主主義の終わり」を読むこともできる。以前はそういう戦後思想史の暗喩と見たが、今見ると「被虐待児の精神的解離」を痛烈に表現した場面だろう。「誰も知らない」と並ぶ、子どもネグレクト映画の傑作だ。一番好きな大島映画でもある。
(「少年」)
「東京戦争戦後秘話」(70)は結構面白いけど、やっぱり失敗作だろう。昔見た時も面白くなかった。「戦争」の「戦」は「占戈」をくっつけた字で、新左翼のタテカン文字である。70年安保に向け、武装闘争を主張した赤軍派が呼号した言葉。この映画は名前だけそこから借りて、その後の「シラケ」ムードを先取りしたような映画である。大島映画は「予感の映画」と言われたが、この映画で「闘争の終わり」を「予感」して、かえって意味を見失った感じだ。脚本に原正孝(現・原將人)を抜てきした。麻布高校時代の67年に作った短編「おかしさに彩られた悲しみのバラード」で大評判になっていた。その後73年に「初国知所之天皇」(はつくにしらすめらみこと)という8時間の映画を作った。1950年生まれの原を抜てきし、配役も若いシロウトに近い人を使った最も素人っぽい大島作品である。だが成島東一郎の撮影、武満徹の音楽などスタッフは超一流。ザラザラした質感の画面が捉える東京風景や音楽などは魅力的。
(「東京戦争戦後秘話」)
この映画は「映画で遺書を残して死んだ男の物語」と題されている。この「遺書」にあたる映像がなんだか判らないが、東京の普通の映像が残されているのは貴重だ。東京のどこで撮ったかは明示されず、あえて「迷宮映画」として作られている。今見ると、昔風の酒屋や店先の赤電話、昔の郵便ポストなんかが懐かしい。このころ、永山則夫の足跡をたどる「略称・連続射殺魔」が撮られていて「風景映画」と言われた。この映画も「風景映画」の一種で、東京の街頭で撮影した「反・東京物語」なのだと思う。それにしてもシナリオや演技の稚拙さは無視できない。今見ると「ドッペルゲンガ―」の映画にも思う。政治的なテーマ(大学映研がデモを撮っていてフィルムを警察に押収される)と「映画で遺書を残した男」のフィルムの中の何気ない風景、自己分裂するかのごとき主人公と女友達の東京めぐりが、統一されることなく雑然と同居する。「ある種の魅力」がつまった失敗作というべきか。
71年の「儀式」はATG10周年記念の「大作」で、ベストワンに輝いた。ガウディの「サグラダ・ファミリア」(聖家族教会)ならぬ、日本の「桜田ファミリー」の儀式を通した戦後史。39歳の大島映画の集大成である。戦前の中央官僚で、占領期は一時「追放」されたが、その後復活して権勢を誇る桜田家の家長一臣(佐藤慶)。その長男は戦後自殺し、満州から引き揚げてきた孫の、その名も「満州男」(ますお=河原崎健三)のナレーションで映画は進行する。共産党の叔父、美しい叔母、年上のいとこ(実は叔父)の輝道(中村敦夫)や従妹の律子(賀来敦子)など一族には様々な人物がいて、葬式や結婚式で出会っては傷つけ合い、また結びつく。秘密の多い家族で、一臣が「外の女性に産ませた子ども」もいるらしい。引き揚げや中国で戦犯になるなど、辛苦をなめた戦後史。満州男は幼い時、引き上げる途中でまだ息のある弟を埋めたトラウマを引きずる。会うたびに誰かが自殺したり、事件が起きる。
(「儀式」)
満州男の結婚式では、式の日に嫁が「盲腸」で入院ということで来ない。仕方なく新婦不在で有力者の前で形だけ式をあげる場面。右翼のいとこで警官の忠男はクーデター計画を式場で読み上げ、連れ出される時に交通事故死する。このバカバカしい結婚式と右翼青年のあっけない死は、戦後の日本システムと批判者双方のバカバカしいほどの「フォニー」ぶりを痛烈に描いている。最後に祖父が死亡すると、満州男の「結婚式」以後、南の島にこもっていた輝道が「テルミチシス テルミチ」という電報を送ってよこす。満州男と律子は二人で船で輝道を訪ねに行く…。筋を書いていても判りにくいが、映像で見る方が判りやすい。儀式で会う一族の中に、ちょっと年上でいろいろ教えてくれるタイプ、同世代で仲良くした女の子、ちょっと変わった親戚、憧れの親戚などがいる。今見ると何故輝道が最後死ぬのか、そこにどうして律子も加わるのか、途中で節子おば(小山明子)がなぜ死ぬのかなど、納得しにくい部分がある。しかし、71年の公開当時は説明されなくても、なんとなく通じたと思う。
戦後革命は不発に終わり、戦争犯罪人が生き延びた日本社会で、闘い傷を負い倒れて行った多くの人々。もうこれ以上ゴマカシの人生は止めるか、ミジメでも生き延びていくか。71年の時点で、大島映画を見ている人には、その岐路に今立っているという思いが通じた。僕は公開時に見て、ベストワンになった記念上映でもう一回見た。高校生の時だが、こういう暗い情熱的な映画に強く引かれた。10年くらい前に久しぶりに見て、登場人物が死ぬだ生きるだと思い入れたっぷりに語り合う映画は古くなったと思った。今回見直して、同時代に対する「儀式」の挑発力は甦ったと思った。「3・11後」に見ると、「日本システム」が残り続けた社会でどう生きるかという問題意識である。満州男の結婚式のバカバカしさは、原発の「やらせ」公聴会とそっくり同じで、そういうバカバカしい仕組まれた行事をこなすことが日本システムを生きることなのだ。誰も笑って見ることはできない。似たようなことをやってきたはずである。そうしてミジメに生きて来て、何が残ったのか。そういう切実な問いを改めて感じる。
72年の「夏の妹」はATG最後の作品。40年ぶりに見て、復帰直後の沖縄の映像はとても興味深いかったが、全体的にはやはり失敗作だと思った。切実な問いが欠けていて、どうも観光映画みたいな感じだ。魅力的な映像もいっぱいある。再建前の守礼の門や、あまり整備されていない石畳の道などは貴重。この映画は、当時東宝系でアイドルなりかけの栗田ひろみが沖縄に母違いの兄がいるらしいと夏に沖縄に行く話。その兄の母は小山明子だが、父の方は栗田ひろみの父・小松方正か、沖縄出身で警察幹部の佐藤慶か、両方の可能性があるらしい。兄は東京に妹がいると聞き、夏休みに会いたいと妹に手紙を寄こすが、そのとき見たのは実は栗田ひろみではなく、小松方正の再婚予定者で娘のピアノの家庭教師、りりィだった。親世代のもつれと若い世代のもつれという、二世代間のもつれが絡むが、今までのどの映画にもまして、これはどうでもいい問題ではないのか。
(「夏の妹」)
本土の血を引くか、沖縄の血を引くかと言っても、たかが一青年の問題で、本人と家族には意味はあるだろうが、思想的意味を見出すのは難しい。そこに「殺されに来た」殿山泰司と「殺す相手を探している」琉歌の大家・戸浦六宏が絡んでいて、戦争というテーマが関係してくるけど、エピソードに止まり深まらない。どうも不完全燃焼の映画である。栗田ひろみのアイドル映画としても中途半端だが、「沖縄という問題」を突き付けてくるだろうと大島映画を見る前に観客が想像した挑発や思い入れを感じ切れない。いつもの大島組メンバーに、りりィと栗田ひろみが溶け込むのが難しかったのかもしれない。戸浦六宏が琉歌の専門家というのは、風貌はあっていた。